窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

教職科目の先生たちの思い出

ウクライナとロシアの様子のこと、日々気になっているけど、戦争というもののリアリティがやはりない。国連が「最も強い言葉で非難する」決議をしていて、最も強い言葉ってなんだろう?って思ったら「最も強い言葉」がまさにそれだったことにへえと思う。でも確かに抽象的な最上級の形容詞のシンプルな迫力がある。よくわかんない技の名前とかよりも「今から最も強い技でお前を倒す」と真顔で言われたときの凄み。

 

今は、荻上チキのsessionを頼りにしつつ、ロシアウクライナ情勢もなんとなく追えているつもりだけど、改めて思い返すと国際情勢、全然関心を持てておらず知らずに済ませてきたことばかりなことに愕然とする。これでも社会科の教員なのに。授業でついこの前話した国連安保理の拒否権がこんなかたちで発動するなんて全く想像できてなかった。

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子どもとの散歩

今回の戦争のニュースや解説などを聞いていて、ぼんやりと大学の教職課程で受けた世界史系の授業を思い出す。アラブ・イスラム世界の近現代史が専門の先生で授業もそこに特化したものだったと思う。細かくは覚えていないけど、中高の教科書にある歴史記述を紹介したうえでそれがいかに欧米視点での見方であるかを、実際のアラブ・イスラム世界の歴史を解説することで教えてもらった気がする。確か、どこかの高校でふだんは教員をされていて、教職科目のために大学に来られていた先生だと思う。授業の開始時にはこちらを向いて90度近いおじぎを丁寧にしてから話を始める先生だった。

 

私は教職科目を履修したのが博士課程になってからで、記憶も比較的新しいこともあるけれど、教職の先生は他にも何人かよく覚えている。津田左右吉研究か何かが専門の男子高の日本史の先生で、教職志望の学生の出来の悪さに常に半ギレ気味で授業してた。風貌のインパクトも相まって、多分本務の高校の生徒たちによってその先生の語録botTwitterにあった。あとは、非常にキッチリと公民の授業の教授法や教員として学び続ける姿勢の大切さを教えてくれた先生もいる。授業は50分×生徒の人数分の時間を奪ってるんだから生半可な準備ではダメだという話は今でも思い出すとピリッとする。子どもの哲学のことをご存知の先生*1もいて、授業のなかで時間をもらって実際に哲学対話を模擬授業的にやらせてもらったりもしたなあ。あとは、ことあるごとに"learning by doingなんだよ!!"と言う元校長先生だった人も覚えている。もう詳細は覚えていないけれど、生徒の団結とか協力のすばらしさを説明されるような文脈でとてもモヤモヤ・イライラすることがあって、リアクションペーパーで強めに反発した記憶がある。特に返答はなかったけど。

 

ふつう教職科目の先生なんてあまりイメージに残りづらいと思うんだけど、私の場合はやっぱり授業を受けた記憶が一番新しいのもあるし、今自分が授業をする側になってみてなんだかんだ先生方それぞれの「教える」姿勢や教育観のようなものを(共感したり反発したりしつつ)思い出すということなのかもしれない*2。そういうわけで、教員の側に立ってみると、学生のみなさんが所詮教養系の一科目の私の話を覚えているなんて思わずに、適当なことをしゃべってしまうわけだけど、伝わる人には伝わるし、残る人の心には残っていくのだと思っていないといけない。

 

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今の自分にとってリアリティがあるのは、小さい子どもを連れて地下の防空施設に何日も隠れていなければいけない方たちのことかもしれない。オムツやミルクも十分に持って出てくる暇もなかったかもしれないし、子どもはなんで外で遊んではいけないかわからなくて狭いところにずっといることに耐えられないだろう。極度の緊張状態のなかで何が起きているのか理解できずストレスを溜めていく子どもと共にいる方たちの精神状態のことを思う。

 

[追記]ウクライナの都市部から地方へと9時間かけて電車にすし詰めになって避難している人たちがいるというニュースを見る。小さなお子さんがいる人たちはどうしているんだろうか。自分の子どもに9時間の移動は耐えられない(周囲への迷惑のかけ方が大きすぎる)と思って避難を諦めるのだろうか。それとも命のためにと思って9時間の移動を選ぶんだろうか。今そこにいるあらゆる方たちが自分や大切な人の命を守るためにギリギリの決断を迫られている。

 

*1:2000年代前半にオーストラリアに視察に行ったり、マシューズやスプロッドを大阪に招聘するのにも関わったりしている

*2:さすがに学部生よりはレポートとか課題の質が良かったときもあるようで褒めてもらったり、少し親しくなった先生には非常勤講師の声もかけてもらった。今思えば、そういうやりとりが教員としてやっていけそうな自信にもなったなあ。