お盆前にはICPICというこどもの哲学の国際会議が東京でありました。私はまだ授業や校務のある時期だったのでオンライン参加。そんな最中、哲学対話についてのいろんな意見や想いが行き交うなか、気づけば哲学対話における「深まり」についての発表をしなくてはならなくなっていました。
この(煽り気味の)ツイートに、
@ogadi_ogadi さん@TSUCHIYAYohsuke さん、@asimov1920 さん、@shogoinu さん!
— リュシス (@___lysis) 2022年8月12日
「深い」とは?!!
やはり哲学対話で「深まる」は必須だと思うのです。。。
(あまり難しく考えずに)こう返したあまりに、
また難題を!
— おがぢ⛅ (@ogadi_ogadi) 2022年8月12日
夏休み中は時間があるのでぜひオンライン勉強会しましょう!
あれよあれよという間に、30名近いオンラインでの勉強会が実現したのでした。(ご尽力いただいた某リュシス先生、ほんとうにありがとうございます。)
やったー!@onigiri_ikaga 先生@doutokudoutku 先生
— リュシス (@___lysis) 2022年8月12日
憧れのあの論文https://t.co/LEoyY9crHp
を書いた小川さんが勉強会してくれますって😍
本当にしてくださるなら、めっちゃ人集めます!
以下は当日話したことの前半部のメモです。せっかく話したし、思っていたよりもはるかに有意義な場に(参加者の方々のおかげで)なったので、残しておきたい気持ちに。
■「深まる」って確かによく聞くよね
「今日の対話はあまり深まらなかったなあ」
「子どもたち(生徒たち)の発言は表面的なものばかりで惜しかったな」
「あの子の発言は深かったねえ」
「(○○することで、)、こどもたちとの対話は深まっていくんです」
「対話を深めるためにはどうしたらいいですか?」
哲学対話をしていると学校の先生とやりとりをするなかでよく聞きます。これは哲学対話に限らず、対話や探究型の授業でも似た状況かもしれない。でも、そもそも「深める」ってもちろん学習指導要領で登場しているので使わざるをえないのはわかるけれど、そもそもは比喩表現ですよね。だからそれだけだと何が言いたいのかあんまりよくわからない、あるいはなんとなくわかったつもりになっちゃう、そんな言葉な気もします。
■「深まる」をもう少し考える
対話を評価したり、ふりかったりするときの言葉には「深まる」以外にもいろいろあります
- 深い、深める ⇔ 浅い、表面的
- 広がり、広げる ⇔ 狭い
- 揺さぶり、揺さぶる ⇔ 固定的
- 進む ⇔ 進まない
- ゆっくり ⇔ 早い
どれも基本的には比喩表現で、なんとなくわかるような、でもなんとなくでないようなそういうむずかゆさがあります。
- 哲学的 ⇔ 哲学的じゃない(、おしゃべり)
- 良い ⇔ 悪い
これは比喩じゃないけど、それはそれで意味がわかりづらい。
なにが深まるのか? なにを深めるのか?
- 思考、考え
- 価値観
- 見方、考え方
- 学び
- 対話
人によって深まるところの主語、あるいは深めるところの対象に来る言葉も違いそうです。そしてその違いは、深まりが個人のなかで起きるものなのか、その場で起きるものなのかの違いにもつながりそうです。
深めたいのはだれなのか?
- 教員が深めたい(わかる、たぶんそう。でも教員が深めたいのはなぜ?指導要領に書いてあるから?研究授業で突っ込まれるから?)
- 参加者も深めたい、深まりたい(のか?)
深めたいのはなんのため?よく考えたなあという満足げな雰囲気が場に広がる、ではだめなのでしょうか?(たぶんだめなのでしょう)
■私は今は「深まり」という言い方はあまり使っていない
「深さ」をはじめとする比喩表現は、個々人によって感覚も違うし、そのわりにはなんとなく意味が共有できているつもりになってしまう厄介な言葉であるという印象が強いです。「深まり、深まり~♩」と日々、言葉を使うにつれて内容が空虚になってしまう心配があります。
ということで必要なのは、「(自分は/自分たちの学校は)「深まり」ということでいったいなにを意味しているのか?」について具体的な実践をふまえながら別の言葉に落とし込んでいくような日々の対話的な確認作業だと思うのですが、そんなことはなかなか時間もなくできないんでしょう?「学習指導要領に書いてあるから深まりが大事なんだ」とか「深まりについてあの偉い先生はこう言っていた!」だけじゃなくて、せっかく興味深い実践をされているんだからそこから出発したい。
少し強い言い方ですが、「深さ」「深まり」という語彙は教育現場では常套句(クリシェ、マジックワード)になりがちではないかと思うわけです。
そして、たぶん、哲学対話においても個々の実践の細部や状況を捨象して「深まり」について論じあってもあまり有意義ではない(「哲学的」という言い方も同様です。)むしろ、深まりという言葉を乱発することは、哲学対話の実践へのハードルをむやみに上げてしまうこともあるように思います。
そういうわけで、私は最近はあまり「深まり」「深さ」という言葉を使わないし、意識もしていないです。なるべく、「深さ」という言葉を使わずに、その日の哲学対話の「よかったところ」を話したり、共有したいと思っています。
そういうわけ*1で、「哲学対話で「深まり」を目指すのはなんのため?目指してどうなるの?(か、がわからない)」という投げやりな問いに戻るわけです。
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当日はたくさんの道徳科で授業をされている先生方からもご意見をいただき、すごくおもしろかったです。今まではわかっているようでわかっていなかった教科化した道徳の授業の現場のことが少しわかったような気がします。ありがとうございました!
「哲学対話で「深まり」を目指すのはなんのため?目指してどうなるの?(がわからない)」という話をしてしまったので、今後「今日の対話深かったね!」と気軽に言えない身になってしまいました。
— おがぢ⛅ (@ogadi_ogadi) 2022年8月19日
*1:発表は、ここから「深さ」という言葉を使う代わりの私なりの試みを3つ紹介しました。1.先生方のためのふりかえりチェックリスト 2.学生たちが見つけた言葉:「尖り(とがり)」3.これから哲学対話で大事にしたいと思っていること が、ここでは省略。