窓をあけておく

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哲学の先生であることへの様々な反応のこと

ぼちぼち年度末...

 

今年度はもう少し続くけれど、授業や試験など私が関わる学生関係のことはひと段落したので、ふりかえりもしていきたい時期。

  

 

アンケートや大福帳を見ながら、思うのは、まだ一年でしかないけれど、哲学(対話)の先生であろうとしたことの効果*1というか、見えてきたことがあるので、いくつか取り上げてみる。

 

 

哲学の先生はロンリ的に話す?

匿名アンケートの「直すべき点」のほうにこういうコメントがありました。

先生がロンリ的に発言するので正しいがこわい。(たまにおもしろい)また、正しいことだと思って(知って)いるので、(ほんの)ちょっとイラつく

この学生さんが私のどういう発言をロンリ的と思われたのかもわからないし、他の先生はロンリ的には話さないのか、という疑問もあるけれど、結構印象深いコメント。

私の解釈では、他の先生の授業や、学生同士のおしゃべりではあえて踏み込まないような話題にまで、時々は踏み込んで、事実を指摘する、みたいなことなのかな、と。

たとえば、ジェンダーをとりあげた授業では、大変ドキドキしながら、ほぼ男性、女性一名の比率のクラスで、男性陣に向かっていろいろな話をした記憶がある。そういうことかなあ。

いずれにせよ、他の先生とは違う特徴として、↑のようなことを受け止めてくれるのは、哲学の先生としてはよいことな気がしている。

でも直すべきところなので、それはそれで検討しなくてはいけないのだけれど。。

 

哲学の先生の試験はめんどくさい?

試験や評価については、どの先生にとっても課題だと思うのだけれど、自分も例にもれず悩んでいます。そんなに厳しい評価にはしない、ということを決めているから、大きなクレームはほぼなかったけれど、それでもアンケ―トには、 試験についての様々なご批判が並ぶ。もちろんそのなかには、もっとこうだったら勉強しやすいのに、という学生の側の要望もあるのだけれど、それでも、気にはなる。

もちろん、その逆で、「考えながら解く問題で好きです」というごくわずかな肯定的なコメントもあり、励まされもします。

哲学の先生の試験にふさわしいのはどんな試験なんだろう。

哲学の先生は成績を人質にして授業するんだろうか。

 

哲学の先生はつらそう?

自由に哲学対話のテーマを決めるのはやめたほうがよい。学生も適当だったし、先生もつらそうだった

哲学の先生は教室でつらそうにする、というのはいろいろ棚にあげて、一周廻れば、悪くない気もしてくる。

授業の自由度を高めたいと思っているけれど、それはみんなで安心して考えるためのことのつもりで、でも学生さんたちからしたら適当にふるまえる空間にもなってしまう。別に適当が悪いとも思わないけれど、やはり不快な適当はある。それでも、こちらがコントロールしよう、しようと思うからつらいのかもしれない。

 

倫理が嫌い?

僕は倫理が嫌いですとのコメントもありました。みんなに授業科目を好きになってなんてもらえない、当然です。でもその理由が興味深い。

話し合っても答えが出るわけではないし、違う問いも浮かんでくるから。終わった後になんだかモヤモヤします

 ああ、私が授業でやりたいことがこの方にはまっとうに伝わっている、でも、私が伝えかったそのことを、この方はネガティブに捉えている。

 

「モヤモヤを感じられるなら、なんらか楽しい体験なはずだ」という暗黙の前提がこちらにあることに気づかされました。

でもこれはだいぶ根本問題で、みんなで考えその結果モヤモヤしたり、新しい問いに行きつくことは、わりと楽しい学びの経験なはずだ、という強めの信念があるから、授業でそういう活動を仕掛けられている、という面がある。

でも、哲学の先生がいきなり今までの「問いがあって、答えがある」授業とは違うことをやり始めたんだとしたら、起こりうる率直で正当な反応だと思いました。

 

...... 

今あげてきた要素や反応についてはどれももっと丁寧に検討していかなくてはいけない。ただ、まずは、こういう反応がある、ということでもって、自分が学生と一緒に哲学しようとする先生でいたいと思ってしてきた実践はなんらか学生さんたちに伝わっていたんだ、という風には評価しておきたい。

 

 
他方で、ご褒美のような時間もある

哲学対話、やっぱり難しい。

でもやってよかったと思うことももちろんある。

年度最後の授業の日の放課後、希望者のみの参加の哲学対話の場を設定してみる。

今年度は、計4回か5回目。

テーマは昨年末に来てくれた人たちが希望した「恋愛」。

日々おつかれのところ、学生7名、学生以外2名が来てくれて、1時間半、とても楽しい時間になった。こういう風に、普通に先生もするけど、一年間で哲学する仲間に出会えたのは、一番のご褒美だったりする。

 

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みんなで出した問い。決まったのは、「1人の人を愛し続けるにはどうしたらいいのか」。

 

欲を言えば、こういう場が継続していくといいし、それは私が声をかけることではなく、学生さんたちどうしが自主サークルみたいに自分たちで動かし始めてくれるとうれしいけど、それをこちらから仕掛けるのは多分まだ早い。

 

先生であることに抵抗する
 

できれば、先生の要素を外して、ただの「哲学の人」になりたいんだけど、それは難しい。来年からは担任を任される可能性もあり、きっと油断するとすぐに、どんどん先生っぽくなっていくだろうという危機感もある。

こんなちょっとカッコよすぎる学生さんのコメントにも、励まされます。

 授業中って教師と生徒、お互いに「人間」であることを忘れる瞬間があると思ってる。でも、先生の授業は生徒が人間であることを認めてくれ、先生が人間であることも忘れなかった。すごいと思う。

 

もちろん、先生をするのが仕事なんだけど、それでもできるだけ先生であることに抵抗して、「人間」であり続けたいのです。

*1:実は、勤務校での研究テーマは「「哲学する教師」をモデルとした現代の教師像の構築​」だったりする。まだなにも研究としての成果は出ていないのだけれど。。