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哲学とセーファースペース(Safer space policy/ Inclusion policy by MAP UK)

哲学がしたい人のためのセーファースペースが必要だ

哲学したいと思う人たちが理不尽に排除されたり、「ここは自分のいる場所じゃない」と思って立ち去らなくてよいようになっていてほしい。

私は最近このような問題意識をもっているのですが、そのような考えに至った直接の背景に、Minorities & Philosophy イギリス支部(MAP UK)が作成された「Safer space policy/ Inclusion policy」(2021年3月バージョン)

drive.google.com

と、

そのホームページの中にあるブログで、Rosa VinceさんとAnna V. Klieberさんによって書かれた記事「Safer Spaces: why, what, and how」があります。

www.mapforthegap.org.uk

 

一緒に勉強会をしていた方に紹介をしてもらって、知るに至り、みんなで翻訳をし、昨年秋に公開はしていたのだけれど、

このツイートのみだとたとえば「哲学 セーファースペース」とググっても引っかからないので、ブログにもまとめておきます(4月にある媒体に関連する原稿が載ることもあって公開後には多少ウェブ検索されるのではという下準備も兼ねている)。

訳文はこちら。

MAP UKによるセーファースペース・ポリシーとその解題の翻訳

英文との対訳版もあります。

【対訳版】MAP UKによるセーファースペース・ポリシーとその解題の翻訳

セーファースペース構築の取組自体が日本ではまだまだ少しずつしか認知されていないのだけど、それを特に哲学を専攻する方々が、哲学をする環境にフォーカスしてポリシーを作り、そしてポリシーよりも長く(!)、丁寧なブログ記事まで書かれていることに感銘と刺激を受けています。

ポリシーでは特に英語圏の大学や学会など主にアカデミックな空間が念頭に置かれているけれど、哲学対話などの取組も含めた日本の哲学をめぐる環境にも通底する課題があることにも、文章を読む中で改めて気づき、自分でも言語化できるようになりつつあるような気がします。

そもそもセーファースペースとはなにか

セーファースペースの説明の仕方もいろいろあるようで、たとえば哲学に限定しない文脈だと、堅田香緒里さんによる「差別や抑圧、あるいはハラスメントや暴力といった問題を、可能な限り最小化するためのアイディアの一つで、『より安全な空間』を作る試み」であり、これまで「その声を聞き取られてこなかった人」「存在しないことにされてきた人」そして「忘却されてきた人」たちのための空間であるという説明がわかりやすいです*1

そのうえで、ポリシー内では次のように「アクセス」という言葉で説明されています。

私たちが考える「セーファースペース」とは、可能なかぎり、だれもがアクセスしやすい場のことである。つまり、だれもが他者化されたり威圧されたりするような目にあうことなく敬意あるやりかたで意見交換できるようになっており、それゆえ自分が周縁化されたグループに属していることが理由でセーフだとか歓迎されているだとかがあまり感じられない、ということがない場だ。セーフな場は私たちが近づこうとすべき理想ではあるけれど、現状として、一部の人たちにとってはある場が完全にセーフになるなんてあり得ないことなのだと、私たちは認識しておかないといけない。それでも、「セーファースペース」というポリシーはこの理想に近づくためのガイドラインとして機能するだろう。

セーフの訳語は難しくて、安心や安全という定番の訳語を当てるのは今回は控えることになりました。むしろ「大丈夫だと思える」とか「ここにいてもよいと思える」みたいな感じに近いかもしれない*2

 

なぜ哲学する人のためのセーファースペース・ポリシーがほとんど存在しないのか

文章全体については英語でも日本語でもよいので、直接触れていただきたいのだけれど、記事のなかから「こうしたポリシーが、すでに至るところで見られるようになっていないのは、なぜなんだろう?」という問いについて述べられている箇所について少し紹介してみたいと思います。

VinceさんとKlieberさんは、哲学系イベントのためのセーファースペース(やインクルージョン)ポリシーがまだまだ少ないことについて、その理由を3点述べています。

 

第一の理由は、ポリシーを必要として、実際に作る作業を担う可能性が高い人は、たいてい最も時間のない人たちだ、というものです。要するに大学院生や若手教員です。年配の(権威や安定した職をもつ)教員は、そもそも自分の居場所を脅かされる経験が少ないため、ポリシーの必要性を実感することも、それについて考える機会も少ないと書かれています。

こうしたポリシーは、それを最も必要とする人たちがつくることになりがちで(だって、他にだれがやろうとしてくれる?)、だからたいていは最も周縁化された大学院生によって書かれるのだが、そうした人たちは最も時間がないことが多い。もしあなたがすでにいくつかの平等や多様性に関する委員を務めていて、収入のために副業をしていて、障害ともつきあっていっているのだとしたら、会議で自分のような人がセーファーに過ごせるポリシーを書くところまで手を回す十分な時間なんて、大抵ないだろう。

 

第二に、ポリシーを作ることへの反発の存在があげられています。記事のなかでは「ウォークアジェンダ(woke agenda)」という言葉が使われています*3。要するに、セーファースペース・ポリシーせいでかえって「言論の自由*4が失われてしまったのだ、というふうに、差別や排除に対する「意識の高い」(でも中身が伴わなかったりむしろ抑圧を生むような)活動であると非難する人たちがいる、というわけです。ですが、反発する人たちとはむしろ逆で、みんなが哲学する自由を確保するために、セーファースペース・ポリシーがある、というのが基本的な考え方のはずです。

一般にこうした意見では、お咎めなしに人を非人間化するような自由というものが、何を妨げているのかを見落としている。つまり、そうした自由は他の人たち――周縁化された人たちや組織の力をより持たない人たち――が声を出すことや、そもそもハラスメントを受けるかもしれないと分かっているようなイベントに顔を出してみることを妨げている、という点だ。

 

第一・第二の点と関連して、第三に、ポリシーを作るという若手の取組は組織的な力関係によって容易に妨害されてしまう、と書かれています。

もし任期なしの教授が周縁化された人たちのセーフティーよりも何を言っても許される会話のほうをより重視するとすれば、こうしたポリシーを提案しようとする学生は、理解を得るのに苦労することになる。

せっかく大変な思いをして作ろうとしているのに、権威ある人たちの側に難色を示されたらめちゃくちゃイヤで、だるい。だからそもそも作ることを諦めてしまうということも確かにあると思います。

 

ポリシー不在の理由についての箇所を紹介したのは、ポリシーそのものを作るだけでなく、若手研究者にとっては非常に書きづらいであろう指摘まで書かれていることに非常に刺激を受けたからです。それに日本で今後、ポリシーを作るというような話が仮に出た場合にも、似たような問題が起きる(すでに起きている?)ような感じがするからでもあります。

わたしのこと

いずれ出るであろう論考のなかでも触れているのですが、いろいろな縁の結果、自分がセーファースペースという主題で翻訳を紹介したり、ブログを書いたり、論考を書いたりすることにはいまでも戸惑いがあります。わたしは、シス男性で、日本国籍をもっていて、学生当時は東京で生活していて、差別やハラスメントを受けたり、議論から理不尽に排除されることもなかった、と思っています。あるいは、哲学対話の実践をする教員になってしばらく経ちますが、(まさに男性教員で哲学を大学で学んできたという特権があるゆえに、だと思っているけれど)対話の場で自分の存在をひどく脅かされる経験をしたことも記憶する限りありません。

もちろん、自分にも、哲学科に入って、大学院に行って、博論を書かずに博士後期課程を抜けて、教員になって、哲学対話をメインにするようになって、という過程でチクチクとキツいなと感じる時期はその都度あって、そこにはセーファースペースの問題として語れるものもあるのかもしれないし、それをうまく言語化できてないだけの面もあるのかもしれない。けれど、少なくとも相対的には、わたしは、哲学におけるセーファースペースの必要性を、自分自身が哲学し続けるためにどうしてもないといけないもの、という観点で実感してきたわけではない人間です。むしろ、自分がいままでセーフだと思えていた哲学の空間は、きっと自分以外の誰かがそこから去ることを見過ごしたり、気にしないことで成り立っていた場なのだ、といまでは思います。

でも、だからこそ、縁や偶然で巡り合った哲学におけるセーファースペース構築にかかわる機会に、マジョリティ側である自分の責任を、セーファースペースについて発信するとともに自分自身も変化することを通して、少しでも果たせたらと思っています。

 

悲しいことに、「哲学」においては、周縁化された人々に対してこのように非常に基本的な形で敬意を払っていくためのガイドラインが必要とされている。このことはまた、セーファースペース・ポリシーは、その求めに応じて私たちが変わっていかない限り意味をもたないということを示している。その変化の中には、快適でないものもあるだろう。自分の気づいていなかったバイアスや特権を指摘されるかもしれないし、よく知らない問題について学ぶよう促されるかもしれない。また、こうしたポリシーは、継続的なプロセスの中で発展させていくものだ。[...]いくつかのガイドラインを施行するだけでは、ごく限られた範囲での変化しか起こすことができない――どのようにポジティブな変化を達成していくかについて話し合う必要もあるし、会議、ワークショップ、ゼミといった場だけでなく、学科やグループ、そしてアカデミア全体をもっとインクルーシブなものにしていくという目標に取り組み続けるという責任を、自分たちで引き受けていく必要もあるのだ。

 

 

※なお、関連してMAP UKがかかわって作られている哲学系イベントのためのインクルーシブ・ガイドラインについても下記の記事で紹介しています。ご参考まで。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

*1:堅田香緒里(2021)『生きるためのフェミニズム パンとバラと反資本主義』タバブックス.

*2:哲学対話でもsafetyという訳語はしばしば問題になる。たとえば、永井玲衣さんの次の論考なども参考になる。

www.toyokan.co.jp

*3:「ウォーク」は私の調べたところでは、「人種的偏見と差別への警告」を意味する形容詞で、2010年代に「stay woke(差別や社会問題に対して敏感に関心を持ち続けよう/目覚めよう)」というフレーズを掲げたBLM運動などによりインターネットミームとして定着した言葉です。ただし、最近は一連の運動を熱狂的で、パフォーマティブで、口先だけのものであるとみなす際の侮辱や皮肉の意図で用いられることがほとんどになっている。つまり、日本語の表現では「意識高い系」という意味合いと近いという指摘もあるらしいです。

*4:「こうした文脈では、傷つける自由とか、批判から逃れる自由とかだと解される」とも書かれていますが、この言い方は、哲学対話にかかわっている私からすると、「何を言ってもよい自由」という表現を思い起こさせます。

学生を「呼ぶ」ことと「待つ」ことのあいだ:哲学プラクティス連絡会発表のふりかえり

子の涙

子どもは今週末で2歳になります。今日は保育園で誕生日会をやってもらっているはず。毎日のようになにかしらで泣いたり、わめいたり、しています。泣いては、要求が満たされたり、もっと興味のあるものが見つかればケロッと機嫌を直すこともあって、あまり真剣に子の涙を受け止めていないことに気づいてハッとしたりする。子が、泣いて、うめいて、わめいて、なにかを訴えてくるとき、私(たち)が泣いて、うめいて、わめくときと同じくらいの心の動き・ざわめきが起きているとすれば、それはやっぱり大変なことだと思いなおす。

そんな日々です。

 

哲学プラクティス連絡会

さて、去る11月12日(土)にオンラインで哲学プラクティス連絡会第8回大会に参加して、2つ発表をしたり、他の方々と交流をさせてもらえて*1、とても楽しかったです。

 

個人発表のほうは、資料公開もしているし、また原稿にできたらと思うので、置いておいて、学生さんとした発表を通してあらためて考えたことを少しだけ残しておこうと思います。

 

発表タイトルは、

なぜ哲学対話は僕たちを惹きつけたのか? あるいはなぜ他の多くの友達を惹きつけなかったのか?高専での5年間の経験から―

今の職場に来て次の3月で5年になり、高専は5年生なので私と同じタイミングで1年生だった人たちは順調にいっていれば今度の春に卒業するという節目でもあって、卒業を控えた5年生2名を誘って発表の応募をしたのでした*2

 

学生さんが考えてくれた発表概要から一部ここにも書いておくと、

私たちは普段高専で工学について学んでいます。そんな中、小川先生の授業などで哲学対話に興味を持ち、現在まで学内外問わずに哲学対話に関する活動をしてきました。その一方で授業の中で哲学対話に参加した学生の多くは、授業外で開かれる哲学対話まで足を運ぶということにまで至りませんでした。そこで何が私たちを哲学対話へと惹きつけたのかということや、これからさらに哲学対話の裾野を広げていくにはどうしたらいいのかなどについて、私たちが考えていること、悩んでいること、うまく行っていることなどについて発表していきたいと思います。哲学対話に参加したいけれどなかなか足を踏み出せない人や、隠れ哲学対話愛好者のような人に届く発表にしていきたいと思います。

というふうに、授業の先に、学内外での哲学対話の活動に加わってくれる人がいまいち増えていかないことや、今回発表してくれた学生さんたちの後継者にあたるような人たちが不足している感じを念頭にした発表でした。

 

お二人の発表内容はそれぞれとてもよかったのだけど、そこは省略して、私が当日二人の発表を受けて、3分くらいしゃべった内容をもとに少し内容を膨らませて考えたことを書きます。

 

授業での哲学対話の機会は実はとても少ない

もちろん、私の授業設計次第でもっと増やせなくもないのだけれど、教えた方がいいこともあると思っているので、そのバランスをとると一クラスあたり多くて4,5回の経験しかさせてあげられない。なので、その限られた回数のなかでなにをするか、どのようなかたちでやるか、はとても大事になってくる。

どの程度授業外の活動も見越して授業を設計するのか、授業で楽しさをなんとなく知ってもらって、授業外の活動へと呼びこんでいくのがいいのか、でもそんなふうに授業で完結しないようなものでいいのか、みたいなことを考えています。

活動に興味のある学生を見つけ、つなげ、育てていくこと

で、じゃあとにかく授業で哲学対話に興味をもってくれる人が出てきたとして、せっかくなので授業外の活動に巻き込んでいきたいと思います。でもその場をどういうものとして設計するのか、は結構悩ましいし、結構めんどくさい。学生さんの発表でも、「哲学対話愛好会」をつくった話がありましたが、愛好会の活動というかたちでゆるくつながりつつ、うまく市内の他の学校に出かけていったり、街場で哲学カフェをやってみたり、そんなことができたらいいなと教員目線では思うのです。

ただ、学生さんはただもうちょっと哲学対話したい、みたいなことだけかもしれず、あまり教員だけが前のめりに社会的な評価とか業績的なもののためにオラオラとやっていく場になっていないかは気をつけないといけない。

こちらから声をかけ「呼ぶ」のか、学生から声をかけてくるのを「待つ」のか

学生さんの発表のキーワードの一つは「隠れ哲学対話ファン」でした。授業で哲学対話に関心をもつ人はある程度いるはずで、でもそこから授業外の活動に来る人は決して多くない。そのギャップにいるのが「隠れ哲学対話ファン」です。実際どれくらいそういう人がいるのか、実は教員目線だとあまりわからんのですが、学生さんたちがいるというのだから、それなりに数としてはいるのでしょう。だとすると、もしかしたらこちらから「呼ばれれば」加わってくるかもしれない人たちに対して、声をかけ「呼ぶ」のか、それとも「待つ」のかみたいなところでうじうじと悩みます。

発表をしていて、学生さんたちが個人的なつながりで人を「呼ぶ」のはやはりとても大切で、ありがたいなとあらためて思うのです。私は自分が教員であるがゆえに、あまり学生をほいほい「呼ぶ」のはどうかと思っている節があります。教員の権力や権威性でもって、学生を活動に巻き込んでいくのはある種暴力的な感じがするからです。学内を見てみると、けっこうな学生を巻きこんでいる活動があるのだけど、おそらく担当の教員が学生に声をかけ、呼んでいるんだろうなという様子も見えてきます。

他方で、自分がもし学生だったらきっと「隠れ哲学対話ファン」だったと思うし、先生にそんな自分を見つけて、声をかけてもらったら、悪い気もせず、活動に加わるようになっていたかもなとも思うので、「待つ」から「呼ぶ」へ、もう少し転換していったらいいかなと考えては、また迷ったり、めんどくさい気持ちになったりをぐるぐるするのでした。

5年経った。次の5年はどうしよう?

ここまでいろいろ書いてきたけれど、そもそもこの授業外での活動は端的に言って業務外のものなので、無理のない範囲でゆるゆると楽しく続けられればそれでいい。ただ、せっかく5年かけて少しずつ学生さんたちとつくってきた「高専てつがく」らしきものがあるので、「呼ぶ」ことと「待つ」ことのあいだを行ったり来たりしつつ、維持・継続していきたいと思っている次第です。

 

おしまい。

*1:他の方の発表やワークショップには残念ながら参加できず...

*2:というわけで、以前に寄稿した「高専てつがく」の中間報告的文章の続きという意味もある。

人間のふりをした宇宙人みたいだ

前日は保育園の運動会だったというのに、子も妻も私もせっせと起き、洗濯を済ませて、8時過ぎには家を出て、ときわ公園のフリーマーケットへ。子にプラレールのレールを買いたかったが、今回は出品している人はいなかった。少しまだ大きめだけど、アルミホイル2個を100円で、こまち、はやぶさドクターイエローが描かれた長靴とこまちの真っ赤な雨合羽を300円で、トミカのクレーン車を200円で、出店の唐揚げ(小倉名物と銘打たれていて、めちゃくちゃうまい)を600円で買った。ばったり妻の職場の先生に会った。

ドラッグストアで日用品を買ってから、宇部空港でやっていた「空の日」関連のお祭りへ。飛行機見学会は事前予約に外れていたのだけど、ヘリコプターでの救助訓練の様子を見たり、東京からの便の到着を見たりする。ばったり保育園の同じクラスの女の子とお母さんに会った。

帰宅途中に子どもは寝たので、家に帰って妻が作ってくれたカレーうどんを食べてから、私たちも昼寝をした。すぐに寝るつもりはなくて、でもベットで横になって最近買った『フェミニスト・キルジョイ』を読み始めて数ページで寝てしまった。(本がつまらないと言いたいのではなくて、昼下がりのベットですやすや眠る子どもの横で本を読むことの無謀さが言いたい)

 

夕方、スーパーへ買い物に行く。夕飯は豚キムチを私が作る予定なのだけど、ネットでレシピを見ていたら、ニラと生姜と豆もやしを入れたくなったので、それを買いに。あと妻は明後日に控えた自分の誕生日のためのスパークリングワインなどを自分で選ぶ、という目的もある。妻に買い物を任せて、私と子はマックでポテトを食べて待つ。でもその前に花屋さんで妻に花を買おうと選ぶ。大きな花束とかじゃなくても、誕生日ウィークの家の机のうえにお花を飾ってあげたいと思った。ピンクや赤のかわいいお花だと代わり映えしないような気持ちになり、今月のおすすめと書いてあったケイトウに黄色い小さい花が添えてある束にする。でもそれだけだと味気ない気がして、店員さんに「何か少し足したいんだけど...」と言ったら「じゃあこのリンドウとか」と言うので勧められるがままに青いリンドウを追加する。

買い物後の妻と合流したときに、子に花を持たせて渡してもらったのだが、明らかに妻の顔が浮かない。帰り道や帰宅後に、あまり語りたがらない妻から、少しずつ話を聞いて、やっと気づいたのだけど、花の組み合わせが明らかにプレゼントというよりも供え物の類いのそれだ。オレンジのケイトウ、黄色の小さい花、青のリンドウ、以上。花をプレゼントするという行為だけなんとなくやりたくなって、肝心の花のチョイスやセンスをすべてミスしてしまった。しかも話をしているうちに「良かれと思ってやってくれたのに喜べなくてごめん」と妻が泣き出してしまった。さいあくだ。「世間で良いとされることをやってみたけどその理解が根本的に欠けていたり、センスを書いているがゆえに台無しにしてしまう」ということがよくある。ほんとうにタチが悪い。人間のふりをしている宇宙人みたいだ。

 

夕飯は豚キムチイワシの缶詰の味噌汁を私が作る。これはどちらも美味しくできてよかった。どっちにも私の好きな生姜をたっぷり入れた。豚キムチは明日のお弁当にもなる。

深夜。これを書いている横で寝ている子どもがなにか寝言を言っている。「とーんとーんとー」と言っているので、多分寝かしつけのときに歌っていた「とんとんとんとんひげじいさん」だ。ひげじいさん、こぶじいさん、てんぐさん。

明日は授業が2コマある。私ももう寝ないと。