高専てつがくは発狂する

瀬戸内海に面した街で、教育したり、対話したり、研究したり。 いわゆる「哲学対話」とか「こどもの哲学」という教育実践をベースにした授業の話を中心に書きます。

zoomで哲学対話をしてみたのでふりかえる

昨日のブログの最後にもちょろっと触れたのだけど、

 

 「むしろ、こんなときだからこその哲学対話なのか」もしれない。

まだ、そういう段階ではない、とも思うけれど、特に私の住んでいるような地域ではまだ感染者が多くないなかで、不安や差別だけが一人歩きしかねない、と思う。「正しく怖れる」という言葉もあるけれど、そのためにも、safetyな空間を設けて、各自がなにを不安に思うかを話し、聞き合うこと、そして落ち着いて一緒に考えること、はきっとどこかのタイミングで重要になってくると思っている。

今年度後半をふりかえる、こんなときだからこその哲学対話なのか、など - 高専てつがくは発狂する

 

そしてすばらしい学生さんたちに恵まれて、実際にオンラインでの哲学対話をやってみたので、簡単にふりかえりをまとめておこう。

 

先行する実践より

www.yacchaesensei.com

 

 30人程度の生徒さんとのzoomでの座談会については、上記ブログのまとめが大変すばらしく参考になります。

今回の私の場合は6名程度だったので起きなかった問題にはどんなものがあるか、それにはどんな対応ができそうか、なども丁寧に書かれているほか、「終わりに」のところでは有用なリンクが複数紹介されています。じっくり読んで勉強したいところ。

上記ブログを超えることは到底無理ですが、私なりの感想を以下にまとめます。

 

始めるまで

勤務校には半年前くらいから活動が始まった「哲学対話愛好会」があるのですが、そのグループLINE上*1学生さんが午前中に提案してくれて、それに乗った人たちでその日の午後15時には開始する、という大変スピーディーな展開でした。

 

各所で言われていることですが、zoomはホスト一人はアカウントを持っている必要があるけれど、それ以外のメンバーはアカウントは不要(無料アプリはあったほうがよいはず)なので、時間になったらグループLINE上に貼られたリンクに飛べば始まる、というのは思いの外スムーズでした。

 

ただ、そこから全員のマイクとスピーカー環境が整うまでは少し時間がかかったかも。学生さんたちはほぼスマホでアクセスしているので、少し使いづらそうだったし、ある学生さんは(おそらく本体端末の設定で)音声が聞こえない時間が長くて、大変そうだった。今回は私+5名の高専生だったけど、全員で話し始められるまでに10分くらいかかったかもしれない。しかし、このあたりは主催者および参加者の慣れの問題だろうという感じはする。

 

哲学対話をしてみて

進行は主催の学生さんが主にやってくれたので、私は一参加者として思ったことを話しただけだったので、楽しかった。

ちなみにテーマは...

f:id:p4c-essay:20200330144107j:plain

問いの候補。一人が共有した画面に対してみんなで書き込めるのです。

 の候補から、「全校集会のLIVE配信」「オンライン授業はできるのか」あたりについて話すことになったので、オンライン配信についてオンラインで話していたことになる。

学校や先生の側のロンリについて説明する必要がありそうだったので、ときどき説明を試みたりした。特に学生会の人がいたからか、「学生総会(生徒総会)でわざわざ集まって、ほとんど誰も真剣に聞かないなか、予算案を示し、なんとなく拍手で承認する、そのプロセスに意味はあるのか」という話が主になっていておもしろかった。民主主義的なプロセスはめんどくさいし、参加者の関心が薄いと無意味にも見える場になってしまうのだ。

 

よかったこと、イマイチだったこと

90分くらい*2話した後、なんと学生さんたちのほうから、このサービスを使ってみての感想共有も始めてくれた。優秀。

そこで出ていたよかったこと、イマイチだったことをまとめると、

よかったこと

・対面でやる場合の代替品としては使える

・案外、やれる

・挙手ボタンとか、いいよね

イマイチだったこと

・やっぱり対面には劣るかなあ

・特に、話を切り出すタイミングがわかりづらい(いつ話し出せばいいかわからない)

・(スマホだと)カメラで自分を映しながら、画面を操作するのが、使いづらい

・声がところどころ途切れる

 という感じ。

私の感想はというと、今回くらいの人数から10人程度までなら結構イケるかも、という感じ。

以下の画像みたいにして、参加者のビデオ画面を一覧できるので、この表示を常にキープしておけば、お互いの表情やあいづち、考えているしぐさなどはかなり把握できるように思うし、話したいときは実際に手を挙げて、それを受けてファシリの人が許可すればいい。

 

https://zoom.us/docs/image/new/newdemo/monitor-moderncomm_2f6782a.png

https://zoom.us/docs/image/new/newdemo/monitor-moderncomm_2f6782a.png

今回は気づくのが遅れたので、上記のやり方を徹底できなかったから、次にやるときは最初からそれで試してみたい。

 

もちろん、哲学対話における身体性(円になって、顔と顔を実際に付き合わせて、物理的に同じ空間で考える) の意義については、zoomで全員の顔が見渡せることで代替可能なのか、という問題はあると思うし、考えてみたい。ただ、以前まではオンライン哲学対話なんて楽しくないよ派だった私*3がこれも楽しいかもね、くらいに変化しつつあることは確かです。

改めて学生さんたちに感謝します。ありがとう。

 

他方で授業で使うとなると...

ただし、快適な対話が実現するためには、いくつか条件があるかなと思っている。

  •  なるべくPCから安定した回線をみんなが確保していること(学生さんの自宅環境によっては難しいことも多いだろう)
  • ハウリングや遅延がないように各自準備ができること(これも技術的に不慣れな人にとっては難しいだろう。しかも一人でも不慣れな人がいると、どうしても全体に影響が出てしまうのが難しい)
  • 極力ビデオ機能もみんなが使うこと(サーバーに負荷がかかって遅延の原因になるかもしれないけど、表情が見えるのは大事だと思った)

 

この条件は容易にはそろわないので、公式の学校活動(通常授業)ではまだまだやりづらいでしょう。勤務校ではとりあえずオフラインでの通常授業が再開される方針なので、そこで3密を避けつつ、なにができるか、を当面考えていくことになりそうです。

そもそも地方在住組としては...

とはいえ、そもそも地方に在住する者としては、研究会や飲み会に対してオンラインで参加するチャンスを欲していたので、こういう機会にいろいろと試してみたい欲は強いのです。

 

 

 

*1:教員も生徒(学生)とLINEするのか!と思われる方も多いかと思うのですが、私は学校関係専用アカウントを作りました。あとまだ担任するクラスの学生とのやりとりなどはかなり限定的にしか行っていません。ふだんそれほど顔を合わせない人たちとの連絡用。

*2:zoomは無料(かつ3人以上)だと40分までしか使えないのか問題があるらしいのだけど、主催学生さんに聞いたところ、特になにも設定していない無料アカウントだったけど、途切れず120分くらいつなげたとのこと。なお、4月末までは、教育系のアカウントであれば、時間制限が排除されるそう。

【Zoom】遠隔授業向け クラウドビデオ会議サービス「Zoom」 ■学校への提供 ■無料(2020年4月30日まで) | 未来の教室 ~learning innovation~

 

*3:以前、とあるweb生放送番組で哲学座談会を企画した自分が言うのもどうかと思うけど

今年度後半をふりかえる、こんなときだからこその哲学対話なのか、など

なんだか随分あいだが空いてしまった。

忙しかったわけではないのだけれど、ブログ欲(そんなものあるのか)が減退していた。

 

今年度後半のこと:オンライン課題の難しさ

今話題の授業の動画配信ではなくて、今年度後半は授業後の課題提出を学校が提供するE-learningサービスを使ってやってみた。やったのは主に2つ。

・授業後の感想提出(200字程度)

・授業後の小テスト

教員としては、最初は独自サービス特有の使いづらさに戸惑ったけれど、一度運用し始めれば紙の管理は不要だし、小テストは自動で採点してくれるし、いいこともたくさんあった。

他方で、これはサービスの問題でもあるんだけど、こちらもふだんPCの画面からしかログインしないので、スマホでの使いづらさについては事前に把握せず、導入してしまったのは学生さんたちにとっては大変ストレスであったろうと思う。大変申し訳ない。

さらにいうと、そういうストレスの多い作業を、授業後に、各自で、やっておく、という課題は、ある一定の学生さんたちにとっては取り組むのが大変難しい部類の活動に入る、ことも改めてわかった。(授業中は比較的話を聞いてくれていたり、対話には取り組むけど、こういう課題に取り組めないがゆえに評価点が悪くなってしまう、ということがはっきり現れた。)

 

次年度も、小テストのオンライン実施は続けたいのだけど、感想提出は紙とオンラインを選べるようにするか(今年度も希望者は紙も可にしていた。)、オンラインのサービスをgoogleフォームやmicrosot formsに切り替えるか、を考えているところ。

 

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3月初旬に出かけた岩国の錦帯橋


  

 

コロナウイルス対策で勤務校は...

まず大前提として勤務校(高専)は2月27日(木)の休校要請の対象ではなかったのだけど、やはり高校生と同年齢の学生さんたちを多く抱えるわけで、どんな影響があるかと思って、日々情報を注視している。同時に、文科省の「大学等」への発信の際の「等」にはまさに高専が含まれるので、正確にはその発信を参照すべきなのだけれど、地域の実情としては高校と同様の機能をもってもいるわけで、そのあたり要職につかれている先生方はバランスのとりかたに苦労されているだろうと思う。

 

今のところ、新年度は政府方針に従って「3密」をなるべく避けるようにしたうえで、通常の日程で授業を開始することになっている。他方で、教員には状況が逼迫したときのために、動画授業ができるように心づもりをしておいてくれ、というお達しもきている。

哲学対話はしてもいいのか問題

そして、哲学対話はこの状況でやってもいいのか問題。

一応、このままなら学校の方針は「授業前中後の換気を実施した上で可能な限りマスクをつけるなどの配慮を行い、授業後の手洗いを徹底する」、そのうえで対話型の授業も必要ならば実施する、ということになると思う。

でも哲学対話って「safety安全性・安心感」が重要だという話がある。

これには身体的、心理的、知的の3種類があって、哲学対話ではルールをしっかり設けることで特にふだんは空気を読んでしまって話せないようなことや質問や反論などもできるようになるという意味で、知的なsafetyが実現するのだ、ということが多い。

でも、その前提である身体的_心理的なsafetyがこの状況で円になって声を出し合うことで脅かされるのではないかという心配はもちろんある。だとしたら無理をせず、ペーパーワークに切り替えることも考えなくちゃいけないでしょう。

とりあえず、いつも初回の授業では40人で円になって毛糸を巻いてコミュニティボールを作るんだけど、それをどうするか、をぼちぼち考えなくちゃいけない。

 

むしろ、こんなときだからこその哲学対話なのか

そんなことを考えていたら、SNSで知人の先生が以下の日本赤十字社のサイトを紹介して、2つ目と3つ目にはp4c(哲学対話)が効くかも、と指摘なさっていた。

 

http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/assets_c/2020/03/jrc_supportguide%20%283%29-thumb-620xauto-23862.jpg 

http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/assets_c/2020/03/jrc_supportguide%20%289%29-thumb-620xauto-23867.jpg

 

新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~|トピックス|国内災害救護|活動内容・実績を知る|日本赤十字社

 

まだ、そういう段階ではない、とも思うけれど、特に私の住んでいるような地域ではまだ感染者が多くないなかで、不安や差別だけが一人歩きしかねない、と思う。「正しく怖れる」という言葉もあるけれど、そのためにも、safetyな空間を設けて、各自がなにを不安に思うかを話し、聞き合うこと、そして落ち着いて一緒に考えること、はきっとどこかのタイミングで重要になってくると思っている。

 

 

希望はすばらしき学生さんたち

 

シラバスを考える、最近読んだ本とか

勤務校は2月後半が年度末の試験。なのでこれから三週間は入試業務、試験業務、成績処理とバタバタと続いていく感じ。

とはいえ週末は、「がっこうはじごくねこ」スウェットを着て、カラオケからのピザパーティーをしたり、

 

学生さん出品の生け花展を観に出かけたり、 

と楽しく過ごしている。

 

 

シラバスを考える

本校は基本的に必修授業によって構成されるので、大学のように学生自身がシラバスを見て、授業を選んで~というプロセスはほぼない。だけれど、大学のように、この時期には教員には来年度の授業シラバスの作成の指示がやってくる。

 

忙しさを理由に今年のものを使いまわしていく(その範囲で可能な授業改善を実施年度になってから自転車操業でしていく)こともできるんだけれど、なるべくこの機会を利用して、今年度の授業の反省をし、来年度の授業の展望を描いておきたいと思ってはいる。

 

今年までの授業が大変不評というわけではない(と思いたい)ので、大きくは変えないでおこうとも思うのだけれど、授業計画を眺めていると、あの話もしたい、この話もしたい、哲学対話ももっとしたい、という欲張りな気持ちが出てきてしまって、何を削り、何を増やすか、という悩みが生じる。

 

そのときにふと思うのは、授業計画を変更したいという気持ちが出る、ということは自分自身の教員としての価値観や教えたい内容、授業の目的も当然変化しているはず、ということ。でも案外そういうのは見えづらい。具体的な授業内容を変えることは思いつくのだけれど、それを支える自分の価値観がどう変化しているか、を捉えるには、もう少し時間が必要かもしれない。

 

来年度シラバスより

とはいえ昨日勢いで書いてみたものから一部抜粋。

 

「倫理」という科目名から中学校までの「道徳」という教科を思い出される方もいるかもしれません。確かに、倫理(ethic)と道徳(moral)は「人として守り、行うべき善悪の規範」を意味する類義語です。ですが、この授業では、みなさんに対して「他人に迷惑をかけないように生きるべき」であるとか「嘘をつかずに正直にいきるべき」とった“答え”を教えることは目指していません。むしろ、「他人に迷惑をかけるとはどういうことか」「そもそも本当に嘘はついてはいけないのか」といった“問い”を共に考えることを重視します。それを通して、社会一般でいう倫理や道徳といったものについて「なぜ○○はそうなっているのか」「そもそも××とはなんなのか」「どうやって△△すればよいのか」といった問いかけにより問い直す=哲学する、ことができるようになることを目指します。(これは一般には倫理学(ethics)という学問分野が担ってきたものと重なります。)

 

なぜそのような問い直しが重要なのかは授業中に少しずつお伝えできればと思っていますが、一点だけ述べておくならば、「当たり前を問い直すことができる生き方ほうが私たち自身が生きやすい」ということです。学校や社会のルールや慣習、道徳に疑問を持たず生活ができているうちはあまり気になりませんが、実際はそれらは私たちの実際の生活における行動や物の見方、他人との関わり方を強く縛っています。これらの縛り(「呪い」と言っても良いかもしれない)は必ずしも絶対的なものではないこと、それに対してあなた自身が疑問を投げかけてよいということ、をこの授業を通して一緒に確認したいと思っています。

  

なんとも恥ずかしい文章だけど、2ヶ月後(4月)の自分に向けてのエールでもある。

  

最近読んだ本3冊

情けないことに研究書にまでは手が伸びず、興味深そうな人文系の本を読んでいる。

 

人は語り続けるとき,考えていない: 対話と思考の哲学

人は語り続けるとき,考えていない: 対話と思考の哲学

 

 自分の専門分野の哲学対話に関する本。著者はついにセンター試験にも出たね。

本当は読みながらいろいろと批判していきたいところなのに、なるほどと思う指摘も多くふつうに勉強になってしまう。

哲学対話ではまず「問い」があり、それに「答え」ようとする探究活動がセットになっているように思うわけだけれど、著者はあるところでこう言っている。

問いに対して与えるべきは、解ではなく、別の問いだったのではないだろうか。私たちは解とともに生きるのではなく、問いとともに生きるべきだったのだ。それは己の中の矛盾した情念とともに生きるということである。(p. 103) 

 対話を通して問いの答えを獲得することは、一見よいことのように思えるけれど(そもそも私たちはそれ=答えを目的として対話をしてたはずなのだ)、実はその先に待っているのは「死んだような止まった世界」なのかもしれない。むしろ、哲学対話では問いに対して問いを与えることを通して、常に「新しさの発見」をこそ目指すべきなのだ。

 

 

 

急に具合が悪くなる

急に具合が悪くなる

 

まだ最後まで読みきれていないのだけれど、とても大切な本。この本を読み終えること=著者のお一人の死に出会うことだと知っているので、残りの最後の一章を読むためには心の準備がいる。

偶然と運命、不運と不幸、選択すること、病気を生きること、民間医療(妖術)と専門医療(科学)などなど大切な問題ばかりが並ぶけど、特に気になっているのは書き言葉と話し言葉の話題。

当たり前のことながら、不運に怒り、学問の言葉で不幸に立ち向かおうとする哲学者宮野の裏側には、ぐずぐずと泣きながら文句を言う宮野がいます。ところがこんなふうに手紙を書いているとそのぐずぐずは見えない。それは見栄のいいところ(語りやすいところ)だけをピックアップした言葉遊びと紙一重のものです。 

 

しかし、それが書き言葉というものの宿命なのだろうと思います。書き言葉は、この往復書簡のように宛先があったてさえもなお、モノローグになってしまいます。たとえ、複数の人が登場する物語であったとしても、書き言葉は一本の筋をたどろうとし、「一貫性」を求める傾向があります。(pp. 134-5) 

であるとすれば、語りづらいところについてもぐずぐずしながら、蛇行しながら語り、一本の筋には容易にまとまらない話を複数名によって行うのが話し言葉=対話(ダイアローグ)だ、というふうに考えていくこともできそうはある。

 

このあと宮野さんの語りは、病気についての会話は、話し言葉のはずなのに書き言葉にどんどん近づいていくことの考察へと向かっていく。病気についての会話は、会話の余白のようなものを少しずつ削り、余分のない一方的な情報伝達になってしまう。繊細で、専門的で、個人的で、すごく踏み込みづらくて、そんな話題だからこそ、確実に、ミスなく会話をしようと思うからこそ、書き言葉然として語るわけだけれど、それは病気の人を疲弊させもする。話し言葉のもつ余白や右往左往っぷりをどうやってそこに取り戻せるだろうか。

 

 

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

2019年話題の『居るのはつらいよ』の著者の前著。沖縄の民間の心の治療やスピリチュアルケアについてのフィールドワークについて、エッセイ風の文体で楽しく読める「アカデコミカル・ノンフィクション」。

これもおもしろかった。「科学」と「宗教」、「学問としての臨床心理学」と「野の医者たちによる民間療法」がそんなにくっきりとは分けられないことに戸惑いながらも、学問は自身についての反省的な問いを探究することで自らを「相対化」できるという点で一つの境界線を引くのでした。

それと、『居るのはつらいよ』にも共通するのが著者が暴くのは、現在の社会の経済的合理性への偏重のひずみのようなもの、だ、ということ。そこに沖縄の貧困層の問題が重なって、ケアやセラピーという営み自体が揺さぶられることになっている。

野の医者というのは資本主義の鬼子なのだ。

思えば、彼らが盛んに唱える「自分が変われば世界が変わる」というニューソートの考えもまた、そもそもアメリカ資本主義が育んだものだった。[...]

野の医者たちはそういう精神を受け継いでいる。資本主義の片隅で、経済的困窮に傷つけられた人たちが、癒されるために資本主義的な癒しの文化に参入するのだ。

だから、彼らはよく笑うのだ。何もかも笑い飛ばそうとするのだ。[...]

野の医者は、非公式なやり方で、資本主義の公式な世界をたくましく生きようとする。そのために笑う*1(pp.283-4)

 

 

 

***

 

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学校は地獄

 

 

*1:そういえば、河野さんの本でも、哲学対話における「笑い」が言及されていた。