窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

日記: 2024年2月24日 広島大学訪問 「そう考えると、「啓蒙」とでも言いたくなる側面がP4Cの普及にはどうしても付きまとうし、そのこと自体の問題性をもっとちゃんと考える必要がある。」

三連休の中日、7時に起きていそいそと荷造り。子と妻も起きてきて、子の身支度や朝ごはんもわりと順調にできて、8時過ぎに出発。広島大学で子どもの哲学の論文集刊行記念のセミナーがあると聞き、子どもを連れて行ければ、妻も1日フリーにできるし、対面で人にお会いすることでつながりもできたらいいなとの想いで子連れで行ってみることにしたのだった。車で30分で新幹線駅、そこから30分で広島駅、さらに在来線で35分で西条駅まで。子はわーわー言ってはいたが、大好きな新幹線に乗れたので概ね満足げ。西条からは翌日の大学入試の下見らしき人たちで混み合うバスで15分くらいかけて大学方面へ。事前に子連れで伺うことなどを主催の川口さんにメールでご相談していたら、登壇者の方々との事前のランチにもお招きいただいたので、11時に待ち合わせ場所の「隠れ家カフェ」に着く。はじめましての方々にご挨拶したり、豊田さんにお久しぶりですのご挨拶をしたり、土屋さんに以前某所での忘れ物のハンカチを届けていただいたり、家から持参した焼きおにぎりを子どもの口に運んだりしつつ、みなさんと楽しくランチ。だが子は早々に自分が楽しめない場であることを察したためか、せっかく渡した新しいトミカ(トーイングトラクターとタラップ車とタグカー)でもあまり遊ばず、1人で店の外に出て小声で「ママがよかった。おうち帰りたい」と言い出して焦った。結局、セミナー会場の大学図書館近くには遊べるところがあるらしいよと誘ってなんとかその気になってもらい、危機を脱した。と思ったが、その矢先、抱っこして会場に向かう途中でオムツからオシッコが漏れていたらしくこのズボンと私の服が濡れた。幸い、妻からの不要論を押し切り、替えのズボンを持ってきていたので被害は最小限(着ていたセーターを脱いで乾かした)で済んだ。セミナーは登壇者含めて20名くらい。大学内のカフェスペース貸切にしてあり、隅っこで川口さんが用意してくださったマットを引き、ブロックや塗り絵で子どもを遊ばせつつ話を聞く。

なぞのヒーローを見つめる

 今回の主題は、土屋さん、豊田さん、川口さんが執筆された『対話的教育論の研究 子どもの哲学が描く民主的な社会』である。全員がぐるっと自己紹介をして、執筆者の方からの担当章の説明、コメンテーターお二人からのコメント(哲学対話を専門としない視点からの専門的なコメント、とてもよかった)、それを受けての全体での討論と進んだのだけど、そのあいだぼんやりといろんなことを考えていた。

 土屋さんや豊田さんの論考はガート・ビースタの議論から大きな影響を受けたものである。土屋さんはビースタによるP4Cの「道具化」批判を経て、ラディカルに問い合う哲学の実践としてP4Cを再解釈しようとしている。豊田さんは周縁化された人の「包摂」を重要な価値として認めたうえで、ビースタのtransclusionという概念をもとに境界そのものを揺さぶる動きの必要性を論じている(論文中にある図がとてもよい)。どちらももちろん非常に刺激的な議論だ。お二人以外にも、最近の国内のP4C研究では(というよりも教育哲学一般にも言えるかもしれないけれど)、ビースタによる批判の影響があると思われる議論が増えている。それは土屋さん、豊田さんの論考に見られるように、よりラディカルに、哲学のもつ批判的な機能(「エッジ」)を活かす実践としてP4Cを解釈する方向性に向かうようでもある。また、川口さんの論考はビースタへの依存度は少ないものの、社会科教師のもつ「教科観」という容易には揺さぶりえないものの再構築という意図に対してP4Cを適用しようとしている点で、P4Cのラディカルな側面に期待をかけていることにはあまり変わりがないと思う。こんな風にして、国内のP4C研究は、ビースタ以前以後のようにしてかなり理論的前提が変わってきているようにも思う。果たしてこれは「国内の」と限定できるのか。あるいは、ビースタを経ないP4C研究はありうるのか、という点はちゃんとサーヴェイして、研究してみる必要がある。

 そんなことを考えながら話を聞きつつ、私が哲学対話の導入のために伴走させてもらっている大分県の高校の先生たちのことを考えていた。そこでは、校長らのトップダウンで「探究」の時間に哲学対話をすることが決まっていて、しかもそれを担任や副担任の先生がファシリテートすることになっている。私は事前の計画の立案や当日のサポート、また事後のふりかえりでのアドバイスなどを担う。この仕方で数年続けてきて、最近むしろ痛感しているのが、このようなやり方は、特に哲学対話的な授業スタイルに抵抗感や苦手意識のある先生にとっては先生方の培ってきた経験や専門性、あるいはプライドを大きく否定するものになっているのではないか、ということだ。どうしても、授業後のふりかえりでは、私の目から見れば、もっとラディカルに、哲学的に、生徒に対して問える、あるいは教師としての構えを捨てて生徒の話を聞ける、と思える場面が多々あるために、そのことを指摘する。でもこれは先生方に、先生方が日々形成してきた教師観、教育観を問い直すことを、急に外からやってきた(なにも知らない)人が求めることに他ならない。ビースタの話とさらに絡めるなら、学校サイドとしては、いま求められている思考力教育や対話型教育に対応するために「道具」として哲学対話の力を借りようとして、それでもうまくファシリテーションができなくて苦しんでいるのに、ビースタ以後のP4Cはさらに「道具化」ではダメで、よりラディカルなものとしてのP4Cを解釈することを求める。でも、そんな風に学校とはなにかを問い直すことが大事なんだというのは、すごく学者的で、権威的な物言いになってしまいがちで、現場でいま営まれている生徒さんと先生たちとの関係やかかわりへのリスペクトを欠いてしまいかねない。そう考えると、「啓蒙」とでも言いたくなる側面がP4Cの普及にはどうしても付きまとうし、そのこと自体の問題性をもっとちゃんと考える必要がある。私もP4Cをやるということは学校という枠組み、今の教育のあり方を問い直すことにつながるし、そうあってほしいと思っている。でも、それを実際に、哲学対話を取り入れようとしている学校の先生や生徒さんたちとどうやっていくのは難しい。P4Cはそもそもが教育プログラム的な発想があり、行政的、制度的な上からの視点が含まれているように思う。一方で、国内の哲学対話実践の利点は、「哲学カフェ」という草の根的なボトムアップの実践がたくさんあり、その実践知も共有されつつあるということ。だから、もっと学校で哲学対話をするということについても下からの実践や波及のようなあり方にも目を向けてみたい。こんなことを考えつつ、最後に自分の発言機会が回ってきたときも、短くそんなことを話したつもり。

 (さらに言うと、最近出版された『子どもの問いではじめる!哲学対話の道徳授業』との対比でも考えていたことがある。この本は、研究者も書いているけれど公立校での道徳教育に哲学対話を取り入れている先生方が多く関わっている本。いわば道徳の学習指導要領の目的を達成するために哲学対話を「道具」として意識的に取り入れている。冒頭部分高宮さんによる終章ではそのことを意識して、これまでの哲学対話の研究者による紹介の仕方は現在の学校教育そのものへの疑いという視点が強すぎたことについて批判的に言及していると読める箇所*1があったのが印象深い。私としては先にも書いたように哲学対話のラディカルなポテンシャルにやはり期待してはいるのだけれど、道徳の授業で(無理のないようにアレンジしながら)哲学対話を、みたいな取り組みもすごく大切だと思っている、けれど、その両側面を押すことに矛盾があるかもしれない。トップダウンボトムアップみたいに簡単に二項対立にするものではないのかもしれないけれど、一旦二つに切り分けて論じてみたくもなる。そのあたり、ビースタの影響を受けて今後論じていく日本のP4C研究はどう考えていくのだろうか。*2  ) 

 せっかくのセミナーなのにモノローグっぽい記憶ばかり書いているのは、会場の隅っこにいて子どもを遊ばせていたので質疑や議論が十分に追えなかったからでもある。哲学対話をあまり経験されていない教職者や研究者の方ならではの大切そうなやりとりはいくつかあったはずなのでそこは残念ではある。子連れ参加にはやはり難しさはあった。それでも覚えているのは、参加者の方には最後に、「哲学対話とふつうの対話の違いはなんなのか、がまだよくわからない」といったこと発言があったこと。この疑問はよく聞かれる問いで、なおかつ私からすれば疑似問題的なものなのだけど、あらためて、哲学対話やP4Cを専門としていると名乗っている「私たち」の側が不用意に「哲学対話」という言葉を使っていることの問題性を感じた*3

広島大学に蹴りを入れる

 セミナー終了後、西条駅までバスで戻り、土屋さんとコメンテーターをされていたAさんIさんとおしゃれなカフェで延長戦のおしゃべりをする。広島大学でP4Cといえばタカラドバシという偉人がいるんだよという話を土屋さんと力説したり、文脈はよくわからないタイミングで土屋さんにカンティアンとして扱われたり、した。子は、もう眠くて疲れていただろうけど、場所が変わるとちょっと体力が復活するのか、そこで少しアイスを食べ、カフェスペースを動き回り、ハッスルしていた。

 とはいえさすがに疲れたので、一足先に失礼して、電車で広島駅へ。車内でついに子が寝落ち。広島駅で一度改札を出て、寝て重くなった子(意識を失った状態の人は意識があるときよりも重い)を抱えて、妻からのリクエストの「むさし」のおむすび弁当を買う。行きはのぞみだったけど、帰りはさくらに乗る。新幹線30分、そして車で30分。車内では子のリクエストで最近ハマっている「ドライブヘッド」の主題歌SUPER☆DRAGONの「ワチャ-ガチャ!」をエンドレスリピートした。帰宅して、妻が作ってくれたおかずとお弁当を食べ、ビールを飲む。いろいろあった一日について話す。順番に風呂に入り、子が先に寝て、22時過ぎには妻と私も布団に入る。いろいろあった一日だったので、久しぶりにブログを書きたいと思い、少しこの日記を書き始めてから寝た。

youtu.be

*1:「哲学対話を推進している哲学研究者の中には、道徳科が学校の教育課程に位置づけられていることについての理解が不十分であったり、学校教育における道徳教育そのものに懐疑的な考えをもっていたりする方もいるからです。「特別の教科」であるとはいえ、教科の一つでもある道徳科の学習として哲学対話を位置づけていくためには、道徳科の目標を理解し、その目標に反しない形で哲学対話を取り入れる必要があります」(p. 162) 正確に引用を読み返してみると、私が書いたような読み方や理解の仕方が合っているかは怪しい。でも、それも含めて議論のために残しておきます。

*2:この括弧内の記述はブログ公開後に追記しました。2/25 20:25

*3:小川 泰治 (Ogawa Taiji) - いつから「哲学対話」なんて呼ぶようになったんだっけ?:名称の定着をめぐって - 講演・口頭発表等 - researchmap