窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

日記:2021年5月下旬のズリバイ

今週のお題「わたしのプレイリスト」

中高生のころはMD世代なので、TSUTAYAで適当にCD借りてきて、ブルーハーツとかスピッツとかミスチルとかMDに移しては聞いてたなあ。

今は、あんまりこれといったものはないので、Alexaに適当に聞かせてもらう日々。Amazon musinで聴けるおすすめのプレイリストが知りたい。

 

21日

録画していた「クレイジージャーニー」を観る。大麻合法化したアメリカでは大麻ゲートウェイドラックになっているという話や、砂漠でのアートフェス、バーニングマンの話。過去の印象よりはわりと落ち着いた内容だったけど、それでも面白くはあった。夜はたこ焼き食べながらアラジンをみる。たこ焼きの好き度には二人の間で明確に違いがあって、私は毎週食べたい派。たこ焼きは出汁を入れすぎて味が濃かったし、妻が眠そうでアラジンは途中で見るのをやめてしまった。深夜、子の寝付きが悪く、2人ともイライラ。

西岡想『なぜオフィスでラブなのか』を読む。オフィスラブは公私混同の極みという点でそもそも危ういものなのだ。

 

23日

午前。買い物。近くのスーパーは授乳室にベビースケールがあるので毎週測ってる。子の体重は微増。午後。某Tさん、Sさんご夫婦と公園でピクニック。まだ仲良くなって日が浅いのだけれど、楽しい時間だった。年上のお二人が私たちを年下として扱わないでくれるおかげなんだと思う。しかし、私にはおしゃべりにちょうど良いエンタメや趣味がないのが残念だった。妻は短歌や高野文子の話してた。私にもないわけではないんだけど語りたいほどのものがパッと出てこない。途中頭上から毛虫が落下してきてTさんの肩に乗った。妻は毛虫が鬼のように苦手なので叫び出すかと思ったら、無言で距離をとっていた。大事にならずよかった。

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逆立ちを披露してお別れした。

夜、ペーストが買ってあったのでイエローカレーを作る。辛かった。深夜。zoom。寝る直前までzoomしてると頭が痛くなる。子の寝かしつけに苦労して、若干険悪な雰囲気のまま寝る。

末松裕基編著(2016)『現代の学校を読み解く 学校の現在地と教育の未来』(春風社)。

 橋本憲幸氏の論稿「学校は世界の子どもを救えるか」を中心に読む。『教育と他者』がそもそも良かったので、やはり良い。推したい。本全体としては、畑康裕氏の異色さが際立ってしまって(ネットで色々調べてしまって)気が散ってしまう。

 

24日

朝。2人とも寝不足。私も元気が出ずほとんど一日寝て過ごす。珍しく昼飯も飛ばして、ベットで寝かせてもらった。なんとなくふて寝気味。夜、Iさんとzoom。子どもの哲学におけるPネーム(ニックネーム)についての意見交換という名目だったけれど、色々楽しくお話しさせてもらって元気が出た。ここでも年上のIさんの好意に助けられている。ハワイ行きたい。

 

25日

昨晩は最初から妻がリビングで寝た。(3人で寝室で寝ると全員寝不足になっちゃう。)その方がお互い楽だったと思う。

午前中久しぶりの英会話。以前の先生をリピートしたのだけれど、なんとなく評価が低めについているのがわかる対応だった。フレンドリーではあるんだけど、こっちが話したことをあまり広げたり、追っかけて質問したりくれず、「あなたの言ってること理解できてるよ!」的なことだけ言ってくれる感じ。今利用しているオンライン英会話のサービスは講師サイドからすると大変シビアで、レッスンが終わると受講者サイドは5段階評価を毎回つけることができる。その評価が高い順に予約の検索画面にも表示されるので、稼ぎに直結している。なるべく評価の低い先生や評価がまだ少ない先生を利用したい気もするのだけど、こっちもお金を払ってるわけで良いレッスンが受けたい。だいたい4.9以上が高水準という感じはして、となると5段階で4をつける受講者が続くだけで相対的に評価は下がっていくわけで、かなりのホスピタリティが要求されることになってしまう。こういう人を値踏みしてダイレクトに点数つけるようなサービスって、教師と生徒という関係性にサービス提供者と客という関係性が乗っかってねじれるし、さらに日本とアジア・アフリカという関係性も当然透けてみえてしまって辛い。若い女性の先生へのストーカー対策とかどういうふうにやってるんだろうか。

夕方、空手に行くのがめんどくさくなって子どもの習い事のようにごねるものの最後には行く。深夜、帰宅後、1時間半遅れで「大豆田」を観る。とてもおもしろい。主題歌のCD買いたい。

 

26日

午後メンズデーということでついにエヴァを観に1人で自転車で映画館へ。

エヴァのテレビ版は自分が幼稚園か小学校1年くらいのときに夕方のテレビから流れていた記憶がなんとなくある。そこからは厨二病よろしくネットの考察なんかも見ながらどハマりするわけではないが、ずっと横目で見続けていたような距離感。二次創作の小説にハマった時期もあったなあ。150分のなかにいろんな要素のある映画でひとことでは言い切れないのだけど、とりあえず一つの終わりとして観ておけてよかった。

夕飯を食べて妻が長風呂をしているあいだに眠くなって寝てしまう。そのままなし崩し的にリビングで1人先に寝させてもらう。すみません。

 土岐友浩さんの歌集『僕は行くよ』『Bootleg』を読む。家にはたくさん歌集があるのでもっと読みたい。

僕は行くよ – 青磁社 seijisya

 

27日

朝、寝室で子と寝ていた妻から子を預かり妻は二度寝。まだ子も眠そうでグズつくので時間をかけて寝かしつけるも30分で起きるを2回繰り返す。最近はちょっと昼間の寝かしつけが難しくなってきた。夜泣きらしい夜泣きはないので助かってるけど。そんなこんなで英会話をするタイミングを何となく逃す。昼、Tさんを誘ってやよい軒。子も同伴。ふるさと納税で届いたとうもろこしを4本あげる。Tさんと別れた足でミスドに来ていた妻と合流。近くの席に来たお婆さんに話しかけられる。それ自体は赤ちゃん連れになってからよくあるのだが、たいていは一言二言で会話は終わる。今日の方は結構長くいろんな話を切れ目なくする人で、かつ声も小さくてうまく聞き取れなかった。二人して若干困惑気味な表情を出しつつスルーするような対応になってしまい、切り上げるようにしてミスドを出てしまう。ほんとはもっと誠実な応答ができたのではないかと帰宅後に反省。夜、妻が取り組んでいる書評原稿にコメント。自分は書くことから離れているのに、(短歌のことなどわからないのに)偉そうにいろいろ言ってしまい、お互いに疲れた。

 

28日

朝英会話。ここ数日は子はあまり離乳食を食べてくれなくなってしまった。午後3人で本屋をめぐってから某施設へ。妻は少し作業をし、私は子を抱っこする。キッズスペースで自由にハイハイさせてみたかったけど、ほとんど寝てたので遊べなかった。帰りに買い物。夕方、家でジンジャーシロップとナスの揚げ浸しを作る。夜某お手伝いで高校で教えている倫理の先生の話を聞く。哲学すること、考えることがめんどくさい、考えたくない、知りたくないと思ってしまう生徒になんと声をかけようか、という話題が印象的だった。

 

29日

なんとなく子はぐずぐずしがち、うまく眠れなくて抱っこをしている時間が長かった日。ただ離乳食はちょっと改善して、横抱きでなら気分が乗れば食べてくれた。最初にあげたころには苦手としていたかぼちゃも食べた。だけど夕方調子乗ってお粥をたくさん食べたあとでかぼちゃをさらにあげたらえづいて吐いてしまった。ごめんよ。夜、NHKドラマ「今ここにある危機とぼくの好感度について」の最終回。大学や研究をめぐるタイムリーなエピソード、めんどうなことを避けたいという素朴な気持ち。おもしろかった。自分の組織で似たようなことが起きたとき、自分はどうするのだろうか。そもそもこの1年のコロナ対応でも本当はもっと声を挙げるべきシーンがあったかもしれない。

 

30日

日曜日。買い物に出てから帰りにケンタッキーで昼食。午後、妻は某締め切りに向けて集中モード。私は寝室で子と長く過ごす。

夕方、買ってきたタイの刺身で離乳食を作るも食べてくれない。お粥だけ。夜、ふるさと納税のとうもろこしがまだたくさんあるのでかき揚げを作る。

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妻側から見た食卓。今年最初のウィルキンソンTシャツ。

うまくできて妻が喜んでくれたのでよかった。鯛の刺身で鯛茶づけも。深夜、妻が大きなしゃっくりをする。「日付を跨ぐまでに止まらなかった場合、才能を一つ天狗に取られる」と教えてあげた。止めてあげようと、歯磨きで口を濯ぐ妻に近づいていって驚かしたら、大きな声を出してめちゃくちゃ驚いていた。しゃっくりは止まらず、寝ていた子が起きただけだった。

岡真里『彼女の「正しい」名前とは何か』を読む。

橋本憲幸論考からの派生で手に取った本だけど、とてもよい。今年の上半期一番かも。読書会したい。

 他者を表象すること、それはある特権的な権力の行使でもある。「第三世界」の女性の権利について私たちが語ろうとするとき、何事を語るにせよ、 私たちは彼女たちに対して、すでにある特権的なポジションを占めている。そして、自らの権利の主体であるはずの「第三世界」の女性にとってかわって、彼女たちの権利をめぐる言説の主体となるとき、まさにそうすることで、私たちは、彼女たち自身を、自らの権利の問題の、主体の位置から排除することになる。

 「先進国」の作家はかくして、「第三世界」を表象しようとするとき、パラドキシカルな困難に直面する(はずだ)。他者との対等な関係性を目指しながら、そして他者の権利を主張しながら、そのような言説を構成する場自体が、実は、「他者の表象」という特権の行使の上に成立しているのである。それは、「書く」という行為のすべてに、不可避的にまつわる問題にちがいない。(「「女性割礼」という陥穽、あるいはフライデイの口」p. 90-1)

直接論じられている「女性割礼」というセンセーショナルな人権課題をめぐる第三世界フェミニズムという論点自体があまりに重要なので、容易に一般的な語りにしたくはないのだけど、それでも「人権」「連帯」や「シスターフッド」という言葉の持つ欺瞞性のようなものはここかしこにあるし、自分もその欺瞞に大いに加担していることに気づかされる。さらに言えば、他者について語る・書くという行為自体がはらむ特権性は、先進国と第三世界という枠を超えて、常に問題だし、そういう問題が根底にあるなかで「対等な対話」を試みるということのとてつもない困難さにも改めて直面させられる。

 

31日

妻の締め切りの日。ギリギリまで作業する予感がしてこちらも1日落ち着かない感じで過ごす。妻もゴリラ人間になってしまったし。

直前なので意見を求められればこちらもコメントするのだけど、短歌についての自分の視点が正しいのかもなぞ。結局、郵便局の閉まる5分前に到着。帰りにCoCo壱でカレーを食べてから帰る。うまいんだけど、ちょっと高いなって気持ちに毎回なる。帰宅して子を急いで寝かしてからUさんと電話。電話のあと翌日の別の締め切りのために「合宿」と称して、深夜まで一緒に検討。結局寝たのは3時過ぎ。夜更かしが久しぶり過ぎて疲れた。

改めてこんなにゆっくりこどもと妻と過ごせる時間は一生で今しかないと思うので、本当にありがたいこと。二人いるから、どちらかが集中して作業もできるし、コメダ珈琲に来てこうして日記もまとめられる。でも時間があるだけに、「将来何になりたいのかな」と悶々と考えてしまうのでツラい。大学生かよ。こんな生活続けていて目まぐるしい職場に復帰できるのかしら。

 

 

子の成長は著しい。ズリバイを始めたと思ったら興味のあるものを目がけてどんどん追いかけて回るので、いよいよ目が離せなくなってきた。毎日楽しそうに生きてくれているので親としてなにより。

ズリバイの天才と呼ばれた子一歳になってもハイハイをせず

という短歌を作った。妻とそうはなってほしくないねと話した。

 

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前に進もうとするその瞬間の足、愛おし。