窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

感想を書いてもらうということ

シラバスが書けない

年明けから対面授業をしている。けど、もうほぼ終わってまもなく試験期間。

今年度はオンデマンド授業8割、育休1割、対面授業1割くらいの感じで、例年とは違う疲れや悩みをもちつつ、年度末に突入する。気づけば来年度のシラバスの〆切が来週に迫っている。*1シラバスを書こうにも、今年度の授業のなにを改善したいのかがわからないと手をつけがたく、久しぶりにブログを開いております。

 

 感想を書いてもらうときにお題を指定する

オンデマンド授業のときも、対面授業を再開しても、原則毎回大福帳形式で、なにかしら感想を書いてもらっている。

授業計画の前半では、今年はお題を出すことが多くて、たとえば

ミルの自由論を扱ったときは、

新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から見たときに、私たち個人の自由は国家によってどの程度まで制限されてよいでしょうか。また、(そういった制限はミルの「他者危害原則」だけでは説明できないと思いますが、)制限されてよい根拠はどのように考えたらよいでしょうか。

という課題を出したり、

西洋でのキリスト教の発展から近代科学の誕生までをざっとさらった回には、

科学や理性的な思考によって答えられない、けれど、あなたが重要だ、気になる、と思う問いを一つ考えて教えてください。また、その問いを思いついた理由や考えを一言添えてください。

というお題を出したりしていた。

これはお題を考えるのは大変だったけれど、結構よくて、いろいろと考えて考えを書いてくれているのがよくわかった。

 

お題をしていせず自由に書き、問いを立てる

他方、授業計画の後半、情報社会、環境倫理ジェンダー、多文化共生あたりのトピックを取り上げるころには、お題を考えるのをさぼってしまって、

当日の授業を受けて考えたこと、気づいたこと、まだよくわからないことなどを記入してください。さらに今回のテーマをもとにした新しい疑問(問い)を考え、記入してください。 

 みたいに自由度を高めた感想を求めてみた。

ただ、これはあんまりうまくいかなかったなと反省しているところ。昨年度までも同じように自由に感想を書いてもらっていたのだけれど、改めて思い出すと、テーマの「みんなで取り組んでいく社会問題っぽさ」もあいまって、学生さんの感想のなかには、「一人一人が差別をなくす意識をもつことが大事だと思います」とか、「差別や偏見は根強いのでなくならないと思った」とか、「私自身これから気を付けて生きていこうと思った」とか、授業内容の意図とは離れた毒にも薬にもならない作文がしばしば見られるようになってしまった。

強い言葉を使ってしまえば、本当に思っているわけじゃないと一目でわかるような言葉を発させてしまうのもつらいし、それを見るのもつらい。この危機感は授業前半部分で課題やエッセイを書いてもらったいたときにもあったので、後半部の開始時には、以下にあるような話もしていた。

 

課題に取り組むにあたって
・思ってもないことは書かない、言わない
 (どこかで聞いたそれらしい言葉を並べるだけにならない)
・哲学者のようになりたい、とか安易に言わない
(哲学者は生き方を真似るための偉人ではなくて、私たちが考えるための問いを提供してくれる仲間)
・適当に生き方の決意表明とかしない
(「僕も日々、真剣に生きていこうと思った」とか倫理の授業を通して本当に思った?)

 授業内ではさらっと通り過ぎてしまったこの説明、もっと力を入れて話せばよかったな。

 

学生さんの書いたものには応答すべし

さらに輪をかけて年明けからの対面授業再開後によくなかったのは、オンデマンド授業のときはコツコツと続けていた大福帳の学生さんのコメントを取り上げて次回授業冒頭で紹介・コメントするのを止めてしまったこと。*2

育休明けで短時間勤務をしていること、そして、誰が言ったかわからない「教員のフィードバックがなくともたくさん書かせることに意味がある」というほんとかうそかわからない言葉を自分にとって都合よく携えて、学生さんの自由な感想は投げっぱなしのままになってしまった。

 

授業をして、感想を書いてもらって、翌授業冒頭で応答するという、多くの先生方がやっているサイクルを怠るんじゃなかったな。これができていれば、学生さんたちのふわっとした言葉も、授業内容がうまく伝わっていなかったなと思うところも、それを拾い上げて言葉を継ぎ足して伝えていくことができる。フィードバック大事。

 

自由に考えることを重視することと知ろうとすることの軽視

このあたりまで書いてくると、夏ごろに悩んでいた悩みにつながってくるように思う。

自由に考えてよいという場は知ろうとすることを軽視することを教える場になってしまうことはないだろうか
 自由に考えてよいという場を設定することで、さらに掘り下げて知るということ、専門知に触れることを軽視してもよいというような姿勢を教えてしまってはいないだろうか。「なにを言ってもよい」ということを伝えるあまり、言いっぱなし、書きっぱなし、の場を作り、学生のもつ偏見や誤解を強化してしまってはいないかだろうか。
 本来、自由に考えることと深く知ることは強く結びついているはず。なぜなら問い、話し、考えることを通して、私たちは未知のものの存在に気づき、もっと知りたい、と思うようになるはずから。こどもの哲学の実践の根底には、不思議を抱き、知りたいという気持ちwonderがある。
 しかし、現実の実践ではそこがうまく結びつかず、むしろ自由に考えることを強調するあまり、意図せずして、さらに掘り下げて知ること、や専門知に触れることを軽視するような姿勢を生み出してしまってはいないだろうか。自由に考えること、語ることを重視するという教育実践を採用することで、自分の考えを見つめ直し、新しい考えを知ることにまで向かっていくことと、偏見や誤解が強化されることと、両者は結構紙一重なのかもしれない。*3

 

感想を書かかせるということは実はそれに丁寧に応答したり、課題の設定を工夫しないと、やる前よりもよくない教育効果を生み出してしまいそうな、そんな気がする。

そして知りたいのは、私のこういう悩みは、「書くこと」の教育ではどう扱われてきたのか(扱われてこなかったのか)ということ。なにから勉強したらよいかわからないので、みなさん教えてください。生活綴り方とかヒントになるかしらとは思っているところ。

 

 

来年度のシラバスにこの反省がどう活かせるのか、まだよくわからないけど、今日はとりあえずここまで。

 

*1:前期は育休をとるので後期のなんだけど今書かないといけない。

*2:コツコツふりかえり資料を作っていたときの偉い私。 

p4c-essay.hatenadiary.jp

*3:第6回哲学プラクティス連絡会2020予稿集.pdf - Google ドライブ こちらに予稿があがっている発表より