人それぞれ
哲学対話的な活動をして、感想を書いてもらうと、どうしても、「人って、人それぞれなんだなあ」みたいなコメントが目についてしまう。もちろん、人それぞれという言葉を使わずに、対話を受けて自分の思索を豊かに展開してくれている学生もいて、それはとても頼もしい。
ただ、クラスの中間層というか、すごく考えるのが得意ではないけれど、聞くことで対話に参加してくれている人たちのなかに、結構、「人それぞれなんだなあ」という感想を抱く人がいることは、こちらの授業の狙いからは外れてしまっている。
わりと早い段階の授業で、人それぞれって「相対主義」っていうんだよ。みたいなことは伝えたけれど、もっと相対主義を本気で維持することは難しいのだ、ということは言っておかなくちゃいけないのだろう。
わりと一般的な問題
実はこの課題自体は新しい問題でもなくて、多くの先生方が悩まれているっぽい。
どこで見たか聞いたのか忘れたけれど、授業自体の構成としてかなり早い段階で、相対主義について触れるという方もいたと思う。
もちろん、相対主義という立場そのものがただいやなのではなくて、徹底して考えることを避けて、とりあえず、いろんな意見があることを認めて、それぞれ良さがあるんだ、というそれっぽいことを言って、波風立てずに、それ以上めんどうごとを増やさずに終えてしまいたい、という感じが漂うからいやなんだ。
前回も紹介したこの本で、著者は、「悟り世代」と呼ばれるような自身の教える大学生の特徴を、「快適な中間者の王国」への「自閉」と表現している。
賢明な彼らの戦略は、排除の対象が土俵に上がり、戦いを挑む可能性をあらかじめ封じ込め、みずからが敗北する危険性を最初から消去しておくことを通じて、快適な中間者の王国へと自閉する。そして、反論するいさかいの可能性をあらかじめ封じ込めそのうえで、あらためて、見苦しく、痛々しいものどもを笑い飛ばす。この意味において、「決して負けることのない」戦略の上に確保される彼ら/彼女らの自尊心のあり方は、きわめて狡猾な性格を有したものである。*1
抜粋してみると、かなり厳しい言い方だけれど、哲学対話をしている教室で感じる雰囲気ともやっぱり通じている。なにか突っ込んだ主張をするのではなく、とりあえず人ぞれぞれと言っておくことで、それ以上の反論も、主張も受け付けないように、難しいことを自分でそれ以上考えなくてもよいように、済ませてしまいたい、という気持ちが、はっきり意識していなくとも働いているように感じる。
ただ、自分だって「悟り世代」とすごく年齢が離れているわけじゃないし、どの時代にだって、そうやって考えることはあるだろうと思う。それに、自分の関心からいえば、これは世代の問題というよりも、学校の教室という「箱」*2
「箱」のなかで過ごしやすい態度でいることではなく、あえて「箱」の外に出て考えてみようよ、と、いろんなかたちでけしかけてみよう。
人それぞれを乗り越えるために
以前も言及したけれど*3
、苫野氏が指摘するような「共通了解志向型」の哲学対話は、はっきりと「人それぞれ」で終わる危険性を意識し、それを乗り越えようとしていると思う。えらい。
40人でどうやったら苫野流のやり方ができるかもチャレンジしてみる必要がある。
でもそれじゃなくても、もう少しちゃんとこちらが予備的に伝えておくこととか、対話が駆動してく感じ、とかによって、人それぞれで終わる、ということは防げないかなあ。
とてもむずがゆいのでした。
妻は東京、みんなは神戸
妻は今日から三日間帰省。哲学なみなさんの多くは神戸で学会。
学会、出張で参加したいのだけれど、なかなか手続きや授業変更と移動の労力を思うと、億劫になってしまいまだ行けていない。
わたしは宇部で、過ごしますね。