五月病
GWも明けてしまって、今週はこちらも少しずつマンネリ気味だったり。
とはいえ、月末には最初の試験が近づいて来ているし、授業のストックも切れつつあるし、それぞれの教室の雰囲気に合わせて授業の見直しもしていかなくちゃいけない。
教員だって五月病。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年5月8日
哲学対話も毎回ではないけれど試行錯誤しながらやっています。
そして哲学対話をするとやっぱり教室のいろんなことがあらわになります。
最近読んだ某本*1にもこうあります。
普通の学校の授業で、教科の内容を勉強し、それに関連することを話しているだけなら、あるいは教師や大人のコントロールの下で発言が管理されるなら起こるはずのないことが、そこでは起こる危険がある。自分の家庭や今までの生活のこと、今切実に感じている思いを話すこと、誰かのそうした発言に応じて発言し、思わぬ形で相手の人生に踏み込んでしまうこと、コミュニティボールを使った対話では、教師が発言をコントロールしないことによって、ボールが渡る人に偏りが生じるなど、授業では見えないクラスの人間関係の綻びが見えてくることもある。*2
私の場合は、いわゆる「授業」でやっているとはいえ、ボールを使って、なんでも話してよいよと言って基本的に放っておくと、「綻び」もよく見えるし、いろいろと不満も出てくる。
きっと他の先生方からすると、かなり危うくて「脆い」実践で、その割に目に見える実りが少ないものに見えるかもしれない。もっと管理しておけば楽なものをなぜわざわざ綻びを露わにするのかと言われるかもしれない。
でも、先の著者も述べているように*3、その「脆さ」から始めることしかできないようにも思っている。
あるクラスではこういう問いの提案もあった。
「もし授業をどんな体勢で受けてもよかったら?(一つ自由を許すだけでどんどん悪い方向に行くんじゃない?)」という問いが今日のツボでした。今度実験してみたいですね。#高専てつがく
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年5月11日
学校とか教員の管理的な発想の脆さとか危うさを付いてくる問いだと思う。
恐れずやってみたいな。
クラスという単位のこととか
上記のことと関連して、気をつけているのだけれど、自分としてもしてしまいがちな思考が、授業のしやすさとかをクラス単位で語ることだ。
学校の先生って、すぐ「あのクラスはやりやすい」とか「あのクラスは問題だ」とか(教員間で)口にする。
もちろん、そりゃあ今の制度だと仕方ないし、確かにやっぱりクラス単位で授業のやりやすさ、やりにくさ、とか雰囲気って感じるのだけれど、なんか本当は学生が個々で見てあげたいのに、クラス単位でしか見れないってとても寂しい。
それに、哲学対話とかをやってみると、やりやすいと言っていたクラスにだって、いろいろな綻びがあることだってわかるし、問題があると言われることがあるクラスにもまっとうな主張や合理的理由があることもわかる。
クラス単位でなにかを決めてしまうほど、単純ではないのだ。
繰り返しだけれど、現状ではどうしても教室に入ったときに感じる空気感とか、そういったものが授業者側に与える影響ってやっぱり大きいので、クラス単位で印象を抱くのはしょうがないのだけど、それだけで40人の個人を見失わないようにはしたいのだ。
読んだ本:『高専教育の発見』と『哲学しててもいいですか?』
そんなこんなで高専で少しずつ教えつつある自分にとってなんともタイムリーな本。昨年の高校の同僚に紹介してもらいました。ありがとうございます。
これまで公の統計などでもほとんど注目されてこなかった(高専を客観的に論じるエビデンスがなかった!)高専教育の成果や実態に対して、著者らが「高専卒業生キャリア調査」を行い、それをもとに編まれた論考。調査対象は13高専、アンケート送付は1万2000件近く(回答数は28%)にもなるという大規模な調査に基づいている。
私のまだまだ拙い実感を補強してくれる結果もあれば、新しく知ることもたくさんあり、とても勉強になった。これからの高専での授業や教育、制度について考えるときには、大変重要なエビデンスになるし、個人的にも研究でお世話になることがありそう。
たとえば、一般科科目に在学中関心をもっていた人たちのキャリア形成とか、在学中およびそれ以降に専門書以外の思想書などを読むことを続けている人の就職後の満足度とか、そういうものも見えてくることになる。高専での学びが社会に出てからどれくらい「役に立ったか」と考えているか、もわかる。
このあたりは、技術者養成を目指した高専で、あえて社会科、特に哲学や倫理を教えることの意味を論じるうえで、常に参照すべきものになりそう。
ありがとうございます、ありがとうございます。
高専教育が「役に立つか」という論点を先の本で見たときに、連想したのが、四月の前半に読んでいたこの本。
著者自身の大学教育の場での実感を出発点にしていて、うんうん、と思うことも多い。
哲学をはじめとする文芸学部不要論に対して、著者は
哲学が「手に職をつけたい」と願う人びとの要望に応え、「箱の中ですぐに通用する」何かを提供するわけではないということが、即座に「哲学は社会の役に立たない」ことを意味するわけではない。*4
という立場から主張を展開している、と思う。
哲学は役に立たないけど役に立つ、確かにそう言えると思う。
授業をするうえで、なんで倫理や哲学を学ぶのか?という当然の疑問に答える必要があり、日々試行錯誤している身からすれば、次の授業での説明の助けにさせてもらいたいものも多くあった。
一方で、先の「高専教育役に立つ問題」と合わせて考えると、高専教育における哲学・倫理は、実際すぐに技術者として就職していく人たちを前に、「役に立たないけど役に立つ」というだけで、済むのか、という問題は自分のなかに残っている。現時点で、基本線は、大学教育でも高専教育でも変わらないとは思っているけれど、自分のおかれた立場で、目の前の学生たちに対して、授業をするうえでは、本書を読みながら、また考えてみなくては。
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人文学が役に立つのか問題に関しては、最近はネット上で某研究費をめぐっていろいろな言説を目にして、心が日々ざわざわしています。