自分の授業を受けた人をそれで見つけることもある(!!)けど、 SNS界隈で哲学対話が話題になっているときにその反応をみるのは、ドキドキもするけど概ね楽しい。
哲学対話/ こどもの哲学が注目されてうれしい
周知のように(?)私は、哲学対話やこどもの哲学と呼ばれるような実践や教育に関心があって、授業でもするし、研究もするし(最近はサボり気味)、文章も書いたりするし、学校の先生のところへ行って「普及」もします。
そんな活動が評価されるのはまずはうれしいです。
自分のことではなくても、すばらしい知人たちの活動が世に出ていくのはよいことだなあと思います。
たとえば、この日経の記事は、結構な人に読まれていたらしい。
生徒さん、関係者、学校の校長、教員など、かなり時間をかけて取材したことが伝わってきます。最終回には、学校を超えて、企業での「哲学シンキング」についても、企業名や関係者が明示されながら詳しく載っていて、かなりインパクトがありそう。
偏差値40。東京都立の高校の中でも最下層。そんな都立大山高校(板橋区)で、異変が起きている。この3年、上智など有名私大に加え、国公立大への合格者が相次いでいるのだ。生徒を変えたのは、詰め込み式の受験勉強でもなく、最先端のIT授業でもない。哲学者が学校に持ち込んだ「哲学対話」という集いだ。その変貌は、奇跡の変身か。それとも、変化の軌跡か。
なぜ最後に、「奇跡」と「軌跡」でよくわからないボケをかましてきたのだろうか。
それはさておき、果たしてこの高校では哲学対話によって「キセキ」が起きたのでしょうか。無料アカウント登録で読めるのでまだの方はぜひ。
あるいは、東京新聞でも。
私もかかわるNPO法人の関係者が多くかかわっている「教室」。
冒頭の
子ども向けの習い事として「哲学教室」の案内を見かけるようになった。
は誇張している気もするけれど、これからは本当にそうなっていくのかもしれない。
あるいは、あるいは、飛行機内でも。
住んでいる場所がら、この一年は、東京へ飛行機で行くことが多いこともあって、いつも座席にある機内誌で哲学対話の紙面を見かけて、周りのお客さんがどんな風に見ているのか、勝手にドキドキしています*1。
なんというか、
これまでもweb上には転がっていた哲学対話についての情報だけれど、それは、哲学対話について知りたい人がアクセスすることで出会っていたものだったはずで、でもいつのまにか哲学対話についてあえて知ろうとしない人たちのもとにも届くようなかたちにまでなっていきている。
そんな感じである。
哲学対話/ こどもの哲学が注目されてモヤモヤする
確かに、広がっていくと、自分の学内での居場所も広がる気がするし、褒めてもらいやすいし、仕事も増えるかもしれない。
でも、このような「普及」の流れには、モヤモヤする気持ちがあるのもまた事実なのです*2。そのモヤモヤを言葉にできればいいのだけれど、ちょっとうまく言えない。でもモヤモヤしていない、とは決して言えない。なにかただの賛辞以外に、言わなくてはいけない気持ちに駆られる。
でも、なにも言わないのならなぜブログを書くのか、ということにもなってしまうので、少しだけ思いつくかぎりのキーワードっぽいものだけ列挙してみる。
- なにかを「普及する」ことはなにかを”本当に”伝えることなのか
- 実践者が大事にしたいと思っている”核”のようなものは容易に伝わるのか
- 現場の数が増えればよいのか
- 哲学対話を含む”教育運動”のゴールは普及なのか
- そもそも普及したかったのか
- じゃあ、普及しなくてもよいのか
- 自分が注目されなくてひがんでいるだけではないのか
別にこのタイミングではじめてモヤモヤしたわけでもない。ずっとしている、ともいえます。メディアに取り上げられるたびに、本が出るたびに、どこかの学校が取り入れたと聞くたびに、自分がどこかの学校に呼ばれるたびに。
"宗教が絶滅するとしてそれはどういう理由で絶滅するの?" 偏差値や学力が上がろうが下がろうが、今日みたいな哲学対話を授業のなかでみなさんと続けていけたらいいなと思うのでした。#高専てつがく
— おがぢ☔ (@ogadi_ogadi) 2019年5月16日
【ゆる募】この私の悩みはアカデミックな系統にも存在するものですか。
哲学対話に限らず、一般に「普及や運動にはなんらかのジレンマがつきまとうのだ」、とも言えそうな気がします。そしてこれは多くの実践において、悩みながら、考え続けられてきた課題である、とも思います。そういう意味ではこのモヤモヤは哲学対話の普及者にオリジナルなものではないはず。様々な先人たちの普及や運動をめぐる研究の蓄積とかありそうなんだけど、私のレファレンス力ではすぐには見つけられません。
教えてほしいです。
哲学対話についての「普及」をめぐる議論は、、、ない、ですよね??
【ゆる提案】議論を残そう。
今回言及したような「モヤモヤ」について、SNSやあるいは飲み会の席や、会合の帰り道で、たくさんの人がこれまで語ってきたことを知っています。
そろそろそういった語りは残していく時期なんじゃないだろうか、と思うのです。なんというか、私は、私の周りの顔の見える人たちが今モヤモヤしながら実践していることを知っているけれど、もっともっと先になって、あるいはもっともっと遠くの人たちから見たら、ただ諸手を挙げてこの「普及」を歓迎しているように見えるかもしれない。
としたら、それはなんだか嫌です。
ちゃんと議論を残そう。
研究会とか開くのもよいし、シンポジウムとか、ワークショップにしてもいいのだけど、そういった会で話されたことを蓄積して残していきませんか。