勤務校は2月後半が年度末の試験。なのでこれから三週間は入試業務、試験業務、成績処理とバタバタと続いていく感じ。
とはいえ週末は、「がっこうはじごくねこ」スウェットを着て、カラオケからのピザパーティーをしたり、
一緒に着よう。(私が欲しくて個人的に妻に作ってもらったもので、仮に購入なさっても我が家に儲けは一切ありません。)https://t.co/pMiJO3PuOY
— おがぢ⛅ (@ogadi_ogadi) 2020年2月6日
学生さん出品の生け花展を観に出かけたり、
今日は車で出かけて某学生さんが参加しているという生け花展へ。ぜんまいを中心とした作品でとてもよいなと思った。作品の名前もなく、作者の氏名と作品(あと使われたお花の名前を書いたメモ)だけが並ぶなかでは、性別も年齢もなく大人たちと肩を並べている感じもよかった。
— おがぢ⛅ (@ogadi_ogadi) 2020年2月9日
と楽しく過ごしている。
シラバスを考える
本校は基本的に必修授業によって構成されるので、大学のように学生自身がシラバスを見て、授業を選んで~というプロセスはほぼない。だけれど、大学のように、この時期には教員には来年度の授業シラバスの作成の指示がやってくる。
忙しさを理由に今年のものを使いまわしていく(その範囲で可能な授業改善を実施年度になってから自転車操業でしていく)こともできるんだけれど、なるべくこの機会を利用して、今年度の授業の反省をし、来年度の授業の展望を描いておきたいと思ってはいる。
今年までの授業が大変不評というわけではない(と思いたい)ので、大きくは変えないでおこうとも思うのだけれど、授業計画を眺めていると、あの話もしたい、この話もしたい、哲学対話ももっとしたい、という欲張りな気持ちが出てきてしまって、何を削り、何を増やすか、という悩みが生じる。
そのときにふと思うのは、授業計画を変更したいという気持ちが出る、ということは自分自身の教員としての価値観や教えたい内容、授業の目的も当然変化しているはず、ということ。でも案外そういうのは見えづらい。具体的な授業内容を変えることは思いつくのだけれど、それを支える自分の価値観がどう変化しているか、を捉えるには、もう少し時間が必要かもしれない。
来年度シラバスより
とはいえ昨日勢いで書いてみたものから一部抜粋。
「倫理」という科目名から中学校までの「道徳」という教科を思い出される方もいるかもしれません。確かに、倫理(ethic)と道徳(moral)は「人として守り、行うべき善悪の規範」を意味する類義語です。ですが、この授業では、みなさんに対して「他人に迷惑をかけないように生きるべき」であるとか「嘘をつかずに正直にいきるべき」とった“答え”を教えることは目指していません。むしろ、「他人に迷惑をかけるとはどういうことか」「そもそも本当に嘘はついてはいけないのか」といった“問い”を共に考えることを重視します。それを通して、社会一般でいう倫理や道徳といったものについて「なぜ○○はそうなっているのか」「そもそも××とはなんなのか」「どうやって△△すればよいのか」といった問いかけにより問い直す=哲学する、ことができるようになることを目指します。(これは一般には倫理学(ethics)という学問分野が担ってきたものと重なります。)
なぜそのような問い直しが重要なのかは授業中に少しずつお伝えできればと思っていますが、一点だけ述べておくならば、「当たり前を問い直すことができる生き方ほうが私たち自身が生きやすい」ということです。学校や社会のルールや慣習、道徳に疑問を持たず生活ができているうちはあまり気になりませんが、実際はそれらは私たちの実際の生活における行動や物の見方、他人との関わり方を強く縛っています。これらの縛り(「呪い」と言っても良いかもしれない)は必ずしも絶対的なものではないこと、それに対してあなた自身が疑問を投げかけてよいということ、をこの授業を通して一緒に確認したいと思っています。
なんとも恥ずかしい文章だけど、2ヶ月後(4月)の自分に向けてのエールでもある。
最近読んだ本3冊
情けないことに研究書にまでは手が伸びず、興味深そうな人文系の本を読んでいる。
自分の専門分野の哲学対話に関する本。著者はついにセンター試験にも出たね。
本当は読みながらいろいろと批判していきたいところなのに、なるほどと思う指摘も多くふつうに勉強になってしまう。
哲学対話ではまず「問い」があり、それに「答え」ようとする探究活動がセットになっているように思うわけだけれど、著者はあるところでこう言っている。
問いに対して与えるべきは、解ではなく、別の問いだったのではないだろうか。私たちは解とともに生きるのではなく、問いとともに生きるべきだったのだ。それは己の中の矛盾した情念とともに生きるということである。(p. 103)
対話を通して問いの答えを獲得することは、一見よいことのように思えるけれど(そもそも私たちはそれ=答えを目的として対話をしてたはずなのだ)、実はその先に待っているのは「死んだような止まった世界」なのかもしれない。むしろ、哲学対話では問いに対して問いを与えることを通して、常に「新しさの発見」をこそ目指すべきなのだ。
まだ最後まで読みきれていないのだけれど、とても大切な本。この本を読み終えること=著者のお一人の死に出会うことだと知っているので、残りの最後の一章を読むためには心の準備がいる。
偶然と運命、不運と不幸、選択すること、病気を生きること、民間医療(妖術)と専門医療(科学)などなど大切な問題ばかりが並ぶけど、特に気になっているのは書き言葉と話し言葉の話題。
当たり前のことながら、不運に怒り、学問の言葉で不幸に立ち向かおうとする哲学者宮野の裏側には、ぐずぐずと泣きながら文句を言う宮野がいます。ところがこんなふうに手紙を書いているとそのぐずぐずは見えない。それは見栄のいいところ(語りやすいところ)だけをピックアップした言葉遊びと紙一重のものです。
しかし、それが書き言葉というものの宿命なのだろうと思います。書き言葉は、この往復書簡のように宛先があったてさえもなお、モノローグになってしまいます。たとえ、複数の人が登場する物語であったとしても、書き言葉は一本の筋をたどろうとし、「一貫性」を求める傾向があります。(pp. 134-5)
であるとすれば、語りづらいところについてもぐずぐずしながら、蛇行しながら語り、一本の筋には容易にまとまらない話を複数名によって行うのが話し言葉=対話(ダイアローグ)だ、というふうに考えていくこともできそうはある。
このあと宮野さんの語りは、病気についての会話は、話し言葉のはずなのに書き言葉にどんどん近づいていくことの考察へと向かっていく。病気についての会話は、会話の余白のようなものを少しずつ削り、余分のない一方的な情報伝達になってしまう。繊細で、専門的で、個人的で、すごく踏み込みづらくて、そんな話題だからこそ、確実に、ミスなく会話をしようと思うからこそ、書き言葉然として語るわけだけれど、それは病気の人を疲弊させもする。話し言葉のもつ余白や右往左往っぷりをどうやってそこに取り戻せるだろうか。
2019年話題の『居るのはつらいよ』の著者の前著。沖縄の民間の心の治療やスピリチュアルケアについてのフィールドワークについて、エッセイ風の文体で楽しく読める「アカデコミカル・ノンフィクション」。
これもおもしろかった。「科学」と「宗教」、「学問としての臨床心理学」と「野の医者たちによる民間療法」がそんなにくっきりとは分けられないことに戸惑いながらも、学問は自身についての反省的な問いを探究することで自らを「相対化」できるという点で一つの境界線を引くのでした。
それと、『居るのはつらいよ』にも共通するのが著者が暴くのは、現在の社会の経済的合理性への偏重のひずみのようなもの、だ、ということ。そこに沖縄の貧困層の問題が重なって、ケアやセラピーという営み自体が揺さぶられることになっている。
野の医者というのは資本主義の鬼子なのだ。
思えば、彼らが盛んに唱える「自分が変われば世界が変わる」というニューソートの考えもまた、そもそもアメリカ資本主義が育んだものだった。[...]
野の医者たちはそういう精神を受け継いでいる。資本主義の片隅で、経済的困窮に傷つけられた人たちが、癒されるために資本主義的な癒しの文化に参入するのだ。
だから、彼らはよく笑うのだ。何もかも笑い飛ばそうとするのだ。[...]
野の医者は、非公式なやり方で、資本主義の公式な世界をたくましく生きようとする。そのために笑う*1(pp.283-4)
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全くその通りだと思います。
— おがぢ⛅ (@ogadi_ogadi) 2020年2月6日
学校が地獄だからといって学校(そして学校が好きな人)を突き放すわけでもなく、学校から出て行くわけでもなく、学校の中でなんとか生きぬいていくために、学校は地獄と声に出したいときがあるんだと思う。
*1:そういえば、河野さんの本でも、哲学対話における「笑い」が言及されていた。