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「哲学対話」という言葉のこと|「(哲学対話において)大事なのは哲学なのか、対話なのか?」という問いに意味はあるのか

(夏季休暇を終えて職場に復帰初日。文章を書くリハビリにブログを開いてみる。)

 

先日お会いした方、「哲学対話」に参加したことはないけど、よく耳にはするし関心はあるそうなのだが、「哲学対話、あまり特別な準備もいらず開催できるので、間口も広い分、あまり調べずに参加して失敗するのが心配」とのことだった。

ほんとそう。「哲学対話」という名前でいろんな人がいろんな場を開いていて、その中には「合う・合わない」も明確にあると思うし、経験豊富な進行役や運営をサポートする人などの複数体制の場もあれば、もろもろの配慮が不十分な場もある。

 

で、私が直接の応答じゃないけれど、話したのは、「哲学対話」という四文字のワードのことだった。哲学対話について説明した書籍や文章のなかでは、日本での哲学対話の広がりのルーツとしてフランスの「哲学カフェ」やアメリカでの「子どものための哲学」が紹介されることが多いけれど、そういった実践では必ずしもphilosophical dialogueといった言葉が頻出するわけではない。「哲学」という言葉はなんらかの形で使われることは多いけれど、「対話」という言葉は日本の実践の広がりのなかでいつのまにか定着してしまっている。だから、実践の手法やヒント、理論的な背景にルーツはあるし、研究もちょっとずつだけど進んでいるけれど、それはphilosophical practiceやphilsophy cafeやPhilosophy for childrenやphilosophical inquiry with childrenについてのものだったりするわけで、私たち実践者は「対話」について特別な専門性が本当にあるかというと、実のところだいぶ怪しい気がする。よく哲学対話のことを指して「これは哲学なのか?」という疑問はあるけれど、むしろこれは「対話なのか?」ということのほうがルーツからすれば怪しい。

 

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そんなことを考えているので、山本和則さんと共著で『フィルカル Vol.8 No.1』に載せていただいた論考「「哲学対話」とセーファースペース」では、「総称としての「哲学対話」」や「スーツケースワードとしての「哲学対話」」という節を設けて、「哲学対話」という表現についても批判的に検討を加えている。「スーツケースワード」というのは、多義的な現象をひとくくりにまとめる便利な言葉を、なんでも放り込める旅行かばんに例えて表現した言葉で、本来切り分けて考えるべきことの違いを見えづらくしてしまってはいないか、という意味を込めている。

 

ちょっとだけ引用しておくと、

...哲学対話の特徴としては複数人による哲学的な共同探究であること以外に、学術的な研究や知識の伝達を第一の目的にしないこと、問いやテーマが明示される場合が多いこと、対話のためのルールが設定される場合が多いことなど、概ね共通する点は見出せるものの、統一的な定義や手法があるわけではない。その活動の担い手も、哲学の専門教育を受けた人に限らずさまざまに広がっている。
 このように多様な活動を表す総称として哲学対話という言葉が用いられるようになったことは国内の活動の広がりに貢献した部分がある一方で、それぞれの実践がもっている特徴、たとえば活動の対象、継続性、現場となる組織やコミュニティとの関係性など、本来切り分けて丁寧に論じるべき違いがあまり区別されずに捉えられる傾向を生んでいるのではないかと筆者らは考えている。(pp.116-117)

 

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今のことと関連して、今年、勤務校でやった哲学対話について集中的に取り組むプロジェクト型の選択授業のなかで、学生さんたちが話していたことを思い出す。それは、哲学対話についての疑問を共有するなかで出てきた、「哲学対話」のなかで「哲学」と「対話」どっちを重視するのか、といった問いや、「哲学」を重視する場と「対話」を重視する場はどう違うのか(どっちを目指すのか)といった問いだ。

学生さんたちは「哲学対話」という言葉を私が使い続けているせいで、その言葉を深く受け止めて、だからこそ、そこに含まれる「哲学」という言葉と「対話」という言葉のミスマッチな感じをしっかり引き受けて、そこに問いを抱いている。そのこと自体は、すごくよくわかるし、他の実践者の人とも似たような話をすることもたまにある。

ただ、すでに書いてきたように、そもそも「哲学対話」という言葉にそれほど強い理論的背景があるわけではない以上、そこに含まれる「対話」という言葉についてしつこく問うていっても、肩透かしにあってしまうかもしれない、とも思う。その意味では、「(哲学対話における)対話とはなにか?」とか、「(哲学対話において、)哲学と対話は両立するのか?」や「(哲学対話において)大事なのは哲学なのか、対話なのか?」といった問いは、哲学対話という名称がなんとなく固有名詞っぽくなってしまったからこそ生まれた問いであり、そんな名称がなければ問わなくてもよかった可能性がある、という意味で疑似問題っぽくもある。

むろん、これらの問いについて考えることに意味が全くないわけではないのだけど、でもこれらの問いに囚われてうまく抜け出せなくなってしまうとすれば、それはだいぶまずい。

もう一度『フィルカル』の拙稿から引用しておく。

「哲学対話」という言葉やそれが指す実践は広がりを見せ、この4 文字の言葉を示すだけでそこには普遍的な共通性があり、同じ課題があるかのように見えてしまうかもしれない。たしかに、対象がだれであろうと、その実践が継続的なものであろうとなかろうと、人々とともに対話を通して哲学することの根幹は変わらないかもしれない。だが、実際に参加者とともに哲学していくためには、実践の共通性よりも差異にこそ慎重に向きあわなければいけない。哲学対話という言葉はこの当たり前のことを見えにくくしてしまう。いま自分が哲学を、そして対話をともに行いたいと考えている人たちはだれなのか、そしてその人たちと対話をしていくためにはどのような困難が想定され、そのためにはどのような環境が必要なのか、こういったことを具体的かつ丁寧に考えていくことがなにより必要である。(pp. 133-134)

ここに書いたように、大事なのは4文字の「哲学対話」という言葉ではないし、そこに普遍的で、絶対的ななにかがある、と思う必要もない。むしろ、いま目の前でだれかと一緒に、問いやテーマについて探究していること、そこで起きていることにしっかり向き合うことが大切で、そのために必要なら「対話」という言葉を当てはめても良いし、対話について問うてもよい。

そうはいっても、あまりに便利なので、「哲学対話」という言葉をこれからも私自身、慎重になりながらも、使ってしまうと思う。でも、それと同時に、そのときあくまで目の前の人たちとの実践で何が起きているかを大事にして、「哲学対話」一般みたいなものについて考えるのはそのあとにする、という順番はひっくり返さずにいたい。ついでに言えば、自分の実践についてもっとよい名前がないかを探したい。

そんなところです。