窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

そこにいる人をいる人として扱う授業

インフルから復帰して、ちょこちょこと授業、しております。

どの授業でも、レポート書いてきてもらって、それを相互に読みあったり、発表して、質疑応答してもらったりして、勉強してもらっています。

そういう意味では私はなにもしてない。でも指示を通すために大きな声出したり、終わるとそれなりに疲れる。

思い出すこと

昨年度の勤務校の一つで、やはりミニレポート+グループワーク、みたいなことをやったり、こちらが講義せずに勉強してもらう、みたいなことにチャレンジしていたとき、

 匿名の学生からの感想のなかに、

「私たちばかり大変で、先生は楽をしている」みたいなものがあって、

それがずっと気にかかっている。

確かに、そんな気もしているからかなあ。

 

 

 

授業中スマホ問題。

そもそも授業中関係ないことにスマホを使ってはダメなのです。ダメ。

でも、現実的には後ろの方の席を中心にスマホを触っている人は、いる。それはわかる。

講義のときもそうだし、グループワークのときも、そう。

 

学生が悪いという話ではなくて、こちらが毅然とした対応をとるべきなんだけど、できない。

授業つまんないよねえ、ごめんねえ、ごめんえええ

 って気分になってしまう。

 

グループワークのときは

私の授業のローカルルールは、

教員にもクラスメイトにも迷惑をかけるようなことはしない

=この授業を楽しもうとしている人の邪魔をしない

と設定している。

なので、グループワークに及んでもなお、スマホをいじろうとするのは、全体のモチベ―ン低下に著しく関わり、端的に迷惑なので、それは言わなけれなならない。

なので、スマホいじっているのをちゃんと注意しないといけないんだけれど、できない。見過ごしてしまうことがある。

グループワークとはいえ、自分の分の作業について基本的なことをやってくれたうえでの待ち時間で触る、みたいなこともあって、それはこちらのワークの設計が不十分でもあるので、しょうがないかなと思っているのだけど、それがエスカレートしていく感じもあり、やはりよくない。

 

見て見ぬふりをすること

授業が終わって自室に戻ってからいつも気づくのだけど、やはりとてもよくない。

どんどんコミュニケーションが遠のいてってしまう。

だって、ほんとはよくないと学生も教員もわかっていることについて見て見ぬふりをするのは、相手を「そこにいるのにいない」状態にしてしまっているから。注意をしたり、その行動をしている理由を尋ねたり、ワークの進行状況を聞いてみたり、関係ない話をしてみたり、とにかくなんらかのありうべきコミュニケーションがそこにはない。

もちろん、相手も教員である私のことを「そこにいるのにいない」ものとして扱うから、そうできるわけだけど、そもそもの発端はこちらにある、と思う。

 

そこにいる人をいる人として扱う授業

そこにいる人をいるようにする。超当たり前のこと、というか、そもそもその人はそこにいるのだから、ただの事実、スタート地点に過ぎないのに、今の自分にはできていないと思う。40人なら40人ひとりひとりをそこにいるんだから、そこにいるものとして扱う授業。

一斉講義をしたり、グループワークや対話とか言いつつも、一人一人の作業状況やサボり状況や気分や考えていることについてアクセスすることをやめてしまっている。

サボっていることも、やる気がないことも、授業に不満なことも、気づくこと、そしてそれを伝えること、大事。なのに、日々の一人対40(これを複数クラス)という関係に消耗してしまって、あるいは慣れてしまって、どんどんおろそかになっていってしまっている。とてもよくない。

ああ、授業を終わって気づくことよ。

 

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

 

 この本、ざっと目を通した感じでは、タイトルほどのインパクトを受け取れなかったのだけれど、ちゃんと読んでみないといけない。

 

オンラインでの大福帳

 もちろん、目の前で起きたことに目の前で反応する、という基本的なコミュニケーションをまずは私がとればよいのであるけれど、同時に様々なコミュニケーションのあり方も考える。

今授業では大福帳を書いてもらっているけれど、より気軽に、学生同士も、教員と学生もコミュニケーションが可視化できるのは、オンラインな気がしていて、来年度以降のことも考えている。

goose.cite.tohoku.ac.jp

どうなるかな。