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哲学系イベントのためのインクルーシブ・ガイドライン

哲学を今できている人には見えない壁がある

ちょっと必要と関心があって、たどり着いたMinorities and Philosophy UK*1というウェブサイト上で見かけた「哲学系イベントのためのインクルーシブ・ガイドライン」がすごく丁寧に作られていて、よい感じなので紹介してみたい*2

アカデミックな哲学系イベントの開催が念頭に置かれているようだけど、それに限らず、哲学カフェや哲学対話、あるいは「哲学」と名指さないけれど同様の課題を抱えている集まりにもヒントがあるかもしれない。

 

Minorities and Philosophy (MAP) UK – British Philosophical Association (BPA) Produced/ Breaking Invisible Walls. Inclusive Guidelines for philosophy events(2018)

 

表紙の次のページで引用されているサラ・アーメッド*3の言葉がいい。

 

When you don’t quite inhabit the norms [of an institution], or you aim to transform them, you notice them as you come up against them. The wall is what we come up against: the sedimentation of history into a barrier that is solid and tangible in the present, a barrier to change as well as to the mobility of some, a barrier that remains invisible to those who can flow into the spaces created by institutions. (Sara Ahmed, 2012, On Being Included, p. 175)

私には英語が難しくて、あまりうまく訳せないのだけど、

「[組織のもつ] 規範に全くなじめないとき、あるいは、その規範を変革しようとするとき、あなたはその規範に直面するとともににそれに気づく。私たちが直面しているのは壁だ。すなわち、歴史が積み重なって、今や堅固で具体的な障壁になってしまうということ、それは変わっていくことに対する障壁であるだけでなく一部の人たちの流動性に対する障壁であること、そして、さまざまな組織が生み出した空間に流れ込んでいくことのできる人たちには見えないままになっている障壁なのである。」

みたいな感じか。

 

目次をみると第1節のgeneral principleで、広く概略やガイドラインの意義が述べられて、第2節以降で具体的にイベント(学会やシンポジウム、ワークショップなど)を開くステップに沿って、注意すべきことやおすすめの方法が具体的に書かれている。

 

個人的には第1節の1項目がガイドラインがなぜ必要なのかという問題の指摘に取り組んでいる点で特に興味深いので、ざっと紹介してみたい。

 

なぜイベントをインクルーシブにしなくてはいけないのか?(1.1. Why should your events be inclusive? )

「哲学はすべての人のものである(philosophy is for everyone)。そして、哲学的な方法論や実践というのは、どんな人(々)やグループをも排除する領域ではない。」から始まるこの節では、哲学においては関心を持つどの人もイベントから排除されてはいけないはずなのに、現実には参加を阻む「見えない壁」があることが述べられる。

 

その壁というのは意図的にだれかが作ってやろうと思って作るものというよりは、イベント開催者の側にこれまで培われてきた行動規範や伝統的な手法によって「レンガが積まれることで」少しずつ出来上がってきたものだ。

 

主催者側がたとえ最善の意図を持っていたとしても、イベントのインクルーシブさを改善するためにどこに注目したらよいかわからない場合がある。それは、私たち哲学コミュニティのメンバーのほとんどは端的にこれらの壁を見たり経験したりしていないからだ。構造的な障壁を経験するのは、ただそれがあなたが前に進むのを妨げているときだけだ。そのとき、障壁はあなたの歩みを止め、あなたの動きを遅くし、あなたの進む方向を変えてしまう。

 

サラ・アーメッド (2012: 174) は次のように述べている。

”壁に直面していない人には、壁は見えない。(壁に直面していない人たちによって)組織はオープンで献身的で多様なものとして生き、経験されている。”

 

すでに何度か出ているように、イベント開催のアクセシビリティにとっての「壁」はすでにそこに違和感なくかかわれている人にとっては容易には気づけないものだ。だから、イベントの主催者の側は、自分の視点からだけでなく、「他者の経験」を重視し、現在のイベント開催方法がアクセシビリティを低めていないか、よくよく気を付けなくてはならない。

 

イベントをインクルーシブなものにしていくということは、すべての人にとってイベントを平等にアクセスしやすいものにしていくことである。すなわち、これは平等の問題であるし、逆に言えばこれまでの哲学のコミュニティは平等ではなかった(いくつもの壁があった。)ということでもある。ある種の人たちに対して日々機能していたような構造的な障壁(暗黙の偏見あったり、アクセスしづらい会場だったり)を回避したり、軽減することで、哲学コミュニティのすべてのメンバーに「平等な足場」を確保する必要がある。今取り組むべきは、「一つ一つ、今ある壁を丁寧に取り除いていくこと」で、イベント主催者がこれまでの開催方法のアプローチを変えていかなくてはいけない。

 

この項の終わりでは以下のような呼びかけがなされている。

インクルーシブなイベントの開催が習慣的なものになれば、哲学という私たちの分野をすべての人にとってよりアクセスしやすいものにし、結果、私たちの職業の多様性を向上させる、そのための一歩となるのです


これは私たちのイベントです。これは私たちのコミュニティです。より良い未来を一緒に作りましょう。

 

具体的な7つのポイント

1節の第3項では、2節以降で詳しく述べらへていく内容全体を貫く7つのポイントが紹介されている。2節以降はけっこう長くて、具体的な話が多いのだけど、そこでどんな観点が大事にされるのかが概観できるので、紹介。以下は引用(あくまで試訳。太字は個人的に興味深かったところ。)。

  • もっと時間を増やす

例:スケジュールの柔軟性を確保しましょう。質問を考える時間を増やしましょう。定期的に休憩を入れましょう。イベントの前・中・後にイベント資料を確認する時間を増やしましょう。

  • もっとスペースを増やす

例:静かな部屋を用意しましょう。バランスのとれた発表枠を確保しましょう。セッションを視聴したりコメントしたりできるオンラインの「スペース」を設けましょう。

  • 資料へのアクセス方法を最大限増やす

例:文献についてより多くのフォーマットを標準で提供しましょう(たとえば、オンライン版、大きめの活字版など)。追加フォーマットを組み込む可能性を確保しましょう(たとえば、点字)。物理的な(配布される)文献上でオンラインコンテンツへのリンクを提供しましょう(QRコード)。

  • うまくコミュニケーションする

例:参加希望者にできるだけ早くすべての情報を提供しましょう(アクセシビリティについての情報を含む)。情報は複数の会場やフォーマットで提供しましょう。会場や収容人数に関するデータを最大限に活用して資料を提供しましょう

例:託児費用、公共交通機関の費用、参加費、求められている文献のフォーマットにかかる費用、個人の宿泊費を全体の予算に組み入むことを検討しましょう

  • 早めに予約する

例:早めに施設を予約することで、利用しやすい会場を確保し、アクセシビリティにかんする情報をすぐに利用できる状態にしましょう。

  • 通常のプロセスにインクルーシブさを取り入れる

例:あなたにとっては「機械的」あるいは「習慣的」になっている運営のあらゆる面を再考しましょう。提出物をレビューし、スケジュールを最終決定するためのプロセスを修正することを検討してみましょう。周縁化されたグルーブからより多くの人を講演者として招待し、あなたのイベントへの彼らのコミットメントをより重視しましょう。 意思決定にインクルーシブさを取り入れることに積極的になりましょう。

 

 

なお、このガイドラインは2018年にドラフト版が公開されて以降、更新が止まっているように見える。そのため、コロナ禍以降のオンラインでのイベント開催によって、アクセシビリティの向上が見込めそうなことや、逆に(ただオンラインで開催するだけだど)だれかを排除することになるかもしれないこと、などについては触れられていない。

*1:哲学系の大学院生や若手研究者によってつくられたMinorities and Philosophy という国をまたぐ(といっても英語圏だけど)グループがあって、そのイギリス本部という感じ。MissionとしてDiversity, Equality, Philosophyを掲げている。

*2:国内で、哲学系イベントのための包括的なガイドラインがどれほど存在するのか知らないのだけれど、哲学オンラインセミナーのガイドラインはだれにでも見られるように公開している点や、運営のための資金を募っている点は、今回触れるガイドラインでも強調されている点で、参考になる。www.philosophyonline.net

*3:この本の著者です。

www.amazon.co.jp

哲学対話で「深まり」を目指すのはなんのため?目指してどうなるの?(か、がわからない)

お盆前にはICPICというこどもの哲学の国際会議が東京でありました。私はまだ授業や校務のある時期だったのでオンライン参加。そんな最中、哲学対話についてのいろんな意見や想いが行き交うなか、気づけば哲学対話における「深まり」についての発表をしなくてはならなくなっていました。

この(煽り気味の)ツイートに、

(あまり難しく考えずに)こう返したあまりに、

あれよあれよという間に、30名近いオンラインでの勉強会が実現したのでした。(ご尽力いただいた某リュシス先生、ほんとうにありがとうございます。)

以下は当日話したことの前半部のメモです。せっかく話したし、思っていたよりもはるかに有意義な場に(参加者の方々のおかげで)なったので、残しておきたい気持ちに。

 

■「深まる」って確かによく聞くよね

「今日の対話はあまり深まらなかったなあ」
「子どもたち(生徒たち)の発言は表面的なものばかりで惜しかったな」

「あの子の発言は深かったねえ」
「(○○することで、)、こどもたちとの対話は深まっていくんです」

「対話を深めるためにはどうしたらいいですか?」

 

哲学対話をしていると学校の先生とやりとりをするなかでよく聞きます。これは哲学対話に限らず、対話や探究型の授業でも似た状況かもしれない。でも、そもそも「深める」ってもちろん学習指導要領で登場しているので使わざるをえないのはわかるけれど、そもそもは比喩表現ですよね。だからそれだけだと何が言いたいのかあんまりよくわからない、あるいはなんとなくわかったつもりになっちゃう、そんな言葉な気もします。

 

■「深まる」をもう少し考える

対話を評価したり、ふりかったりするときの言葉には「深まる」以外にもいろいろあります
  • 深い、深める ⇔ 浅い、表面的
  • 広がり、広げる  ⇔ 狭い
  • 揺さぶり、揺さぶる ⇔ 固定的
  • 進む ⇔ 進まない
  • ゆっくり ⇔ 早い

どれも基本的には比喩表現で、なんとなくわかるような、でもなんとなくでないようなそういうむずかゆさがあります。

  • 哲学的 ⇔ 哲学的じゃない(、おしゃべり)
  • 良い ⇔ 悪い

これは比喩じゃないけど、それはそれで意味がわかりづらい。

なにが深まるのか? なにを深めるのか?
  • 思考、考え
  • 価値観
  • 見方、考え方
  • 学び
  • 対話

人によって深まるところの主語、あるいは深めるところの対象に来る言葉も違いそうです。そしてその違いは、深まりが個人のなかで起きるものなのか、その場で起きるものなのかの違いにもつながりそうです。

深めたいのはだれなのか?
  • 教員が深めたい(わかる、たぶんそう。でも教員が深めたいのはなぜ?指導要領に書いてあるから?研究授業で突っ込まれるから?)
  • 参加者も深めたい、深まりたい(のか?)

深めたいのはなんのため?よく考えたなあという満足げな雰囲気が場に広がる、ではだめなのでしょうか?(たぶんだめなのでしょう)

 

■私は今は「深まり」という言い方はあまり使っていない

「深さ」をはじめとする比喩表現は、個々人によって感覚も違うし、そのわりにはなんとなく意味が共有できているつもりになってしまう厄介な言葉であるという印象が強いです。「深まり、深まり~♩」と日々、言葉を使うにつれて内容が空虚になってしまう心配があります。

ということで必要なのは、「(自分は/自分たちの学校は)「深まり」ということでいったいなにを意味しているのか?」について具体的な実践をふまえながら別の言葉に落とし込んでいくような日々の対話的な確認作業だと思うのですが、そんなことはなかなか時間もなくできないんでしょう?「学習指導要領に書いてあるから深まりが大事なんだ」とか「深まりについてあの偉い先生はこう言っていた!」だけじゃなくて、せっかく興味深い実践をされているんだからそこから出発したい。

 

少し強い言い方ですが、「深さ」「深まり」という語彙は教育現場では常套句(クリシェマジックワード)になりがちではないかと思うわけです。

そして、たぶん、哲学対話においても個々の実践の細部や状況を捨象して「深まり」について論じあってもあまり有意義ではない(「哲学的」という言い方も同様です。)むしろ、深まりという言葉を乱発することは、哲学対話の実践へのハードルをむやみに上げてしまうこともあるように思います。

そういうわけで、私は最近はあまり「深まり」「深さ」という言葉を使わないし、意識もしていないです。なるべく、「深さ」という言葉を使わずに、その日の哲学対話の「よかったところ」を話したり、共有したいと思っています。

 

 

そういうわけ*1で、「哲学対話で「深まり」を目指すのはなんのため?目指してどうなるの?(か、がわからない)」という投げやりな問いに戻るわけです。

 

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当日はたくさんの道徳科で授業をされている先生方からもご意見をいただき、すごくおもしろかったです。今まではわかっているようでわかっていなかった教科化した道徳の授業の現場のことが少しわかったような気がします。ありがとうございました!

*1:発表は、ここから「深さ」という言葉を使う代わりの私なりの試みを3つ紹介しました。1.先生方のためのふりかえりチェックリスト 2.学生たちが見つけた言葉:「尖り(とがり)」3.これから哲学対話で大事にしたいと思っていること が、ここでは省略。

最近は哲学対話の授業、こんなふうにやってるよ

最近も哲学対話の授業、細々してます。

やりながらもあんまりうまくいかないなあと思うことが増えているような気持ちもあったのだけど、先日やったやり方が感触がよかったのでメモ。

 

前提の確認

高専での授業です

・クラスは40人超え

・倫理などの社会科系の授業でやります

・確保できる回数は一クラスあたり3,4回(1単位:15回の授業)

・授業は90分

 

課題だなあと思っていること

  • 人数多い

これについては最近は原則、金魚鉢対話*1でやっているところではある。ただし、それでも20人。グループワーク的なものもやったほうがいいのかなと思ってはいる。

  • 学生の側からは参加した感覚があまりない人もいる

発言はしなくてもいいよと伝えているのだけれど、それでも「発言できなかった」「次は発言できるようがんばる」みたいな反応が常にある

  • できれば対話に参加したくない人も強制的に参加させている

そういう人にも円の中に座ってもらうことに意味はあると思いつつ、本人も乗り気ではないから、ダルそうだったり、辛そうだったりする*2

  •  問いを選ぶことにあまり時間をかけられていない

ただの多数決で機械的に決めてしまって、問いを選ぶ、どの問いがよいかを考えるプロセスを大事にできていないなあ

  • 対話のなかで学生から質問や疑問が出てきづらい

対話中は質問をするのが大事だよと口頭で伝えても、いざ話すとなると「自分の意見+その理由」みたいな型が多い。質問するのはもっぱら教員である私の役割みたいになってる 

で、今回やったのが...

①4人組のグループで座る

②問いの候補を共有する*3

③グループで話す:「どの問いが気になってる?その理由は?」

④問いを決める*4

ちなみに選ばれた問いはこんな感じでした。5クラス。

  • 人と人がよい関係を保つために大切なことは?

  • 科学技術が発達した世の中と、マンモスをみんなで追いかけてた時代どちらが幸せか?

  • マスクを外しても良くなってもマスクを付け続ける? 
  • 差別をすることで得られるメリット、デメリットとは何か?
  • 人の幸せより人の不幸の方が嬉しいのはなぜ?

 

 

⑤グループで話す:1周目「問いについての今の考えは?」

            2周目「今話したことに質問・疑問はある?」 

※「質問」は、グループの人個人に向けて聞きたいこと。「疑問」は、話してみたことに関連してよくわかんないこと、全体に投げておきたいこと、ととりあえず説明してみた   

⑥グループで代表者を2人決める

⑦代表者で円を作って話す、残りの人たちは外側を囲んで対話を観察

※代表者の人はワークシートはふりかえりに該当する部分だけでOK. 観察の人は対話に参加しない分、対話中に対話の内容をメモする(観察)もがんばってね。

 

やってみてどうだった?

グループでの哲学対話も案外やってる

ふだんの哲学対話の感想を見ると、「決まった人ばかりが話してる」「次は発言したい」「もう少し少人数で話したい」などの声が結構ある。ただ、私はグループでの話し合いは、学生によってはサボるし、うまく回るグループとそうじゃないグループができたりすることが気になっていて、だったら発言機会自体は偏っても自分が進行する大きな円での対話の時間を多く取りたいなと思っていた。でも今回やってみると案外話している。一周目にこれやって、二周目はこれやって、みたいに指示を出すのもよかったみたい。欲を言えばグループでの対話を記録するワークシートも今後作ってみたい。

 

全体の対話で学生から質問や疑問が出てくる

哲学対話では問い合うことが大切と言葉で言ってもなかなか実際に学生が話すことは意見が中心。でも、このやり方だと、一度グループの中で話して、質問や疑問を溜めてから対話をするからか、全体の対話でも質問や疑問がちょこちょこと学生の側から出てきた。こっちとしては、ああ哲学対話が始まるぞーって気分になる瞬間。

 

参加の仕方を学生が選べる

授業の哲学対話は参加を強制してる。もちろん、話したくなければボールが回ってきてもパスしていいよとは伝えているし、一度は円の中で考える体験をしてもらいたいのだけれど、考えるということに焦点を当てるなら、話しながら考える人がいてもいいし、クラスメイトの話を聞き、メモをしながら考える人がいてもいい。最初にグループワークで少しは話してもらう時間をとることで、全体での哲学対話の参加の仕方を選べるようにしたのは良かった気がする。もちろん、グループで代表2名にしたので、話し合って決めているグループも、じゃんけんしてるグループもあったけれど。何回かこのやり方でやるうちに、今日は話してみようかな、という人も出てくるかも。

 

 

うーん、あんまりうまく感想を書けなかったけど、やっている本人としては感触がよかったのです。

 

ほか、哲学対話関連ではこんなことも考えたよ

 

*1:半にクラスの半分20人が対話、そのあいだ残りの学生は円の外でワークシートに書いて観察、後半同じ問いを引き継いでメンバーが入れ替わる。

*2:これについては、こんなことを考えていた時期もあった。

p4c-essay.hatenadiary.jp 

*3:事前に問いの候補をあげてもらっていて、今回はこちらで5,6個にまで絞った

*4:今回は多数決、でも得票数の多かったもので決選投票する前に、またグループでどっちがよさそうか意見交換してもらったりもした