窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

週末の話

土曜日のこと

妻が文フリのため朝の飛行機で東京へ。

日記をまとめた本を出すらしいので私は山口で日記を書いてみようと思い立つ。車で空港まで妻の見送りに行く。子は何かを察してなのか、空港に着いたあたりから妻に抱っこをせがみ、いよいよ保安検査場に入るタイミングで私が抱っこを代わると大泣きしてしまった。妻をさっと見送って、空港に隣接している公園へ。そのころには子の機嫌も直っていて、妻が乗った飛行機の離陸を見守る。スターフライヤー。2人で手を振っていたら、妻からも見えていたらしい。すごい。この公園には飛行機の離着陸のタイミングで人が集まりがちなスポットがあって、うちのような親子連れも多い。なんとなくのんびりした時間が流れているので好きだ。

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妻の乗ったスターフライヤーを見送り、もう一台続いてJALを見送り、さらに公園でおっとっとを食べ、お茶を飲み、さらにジュースを飲み、少し散策して遊んだ。11時くらいになったので、公園を出て近くのドラッグストアで少し買い物をして、帰宅、したのだけど、5分くらいの車移動のあいだに子は寝てしまった。理想は、帰宅して、お昼(妻が朝作ってくれていたケチャップライス)を食べてからの昼寝だったのだけど、子を抱えて家に戻り、そのままベッドで昼寝。子の昼寝のあいだに私はうどんを食べた。

午後、応用哲学会、オンラインで聞く。子が長い昼寝から14時過ぎに起きる(起こした)。寝起きで子をトイレに誘ってみる。便座の上に置くタイプのおまるに座らせてみると、うーん、と言っておしっこがチョロチョロ。保育園でもみんなの真似をしておまるに座ってみて、ときどきおしっこ成功しているらしい。すごい。それから、ワンワンワンダーランドを見つつ、お昼。あまり食べず。近くのスーパーに買い物に行ったあと、帰宅して再び応用哲学会聞きつつ、子と買ってきたドーナツを食べる。基本、子となにかをしながらなので、発表内容にはあまりついていけなかったのだけど、とにかく研究して成果を公開されている方々への畏敬の念が高まった。

夜、子と風呂。風呂に行く前にトイレに誘って、座らせてみたらおしっこをチョロチョロと。今日は2回もトイレチャレンジ成功。おしっこの天才だ。風呂では今日は、たらいを使って洗い場にいるときは蛇口からお湯を溜めて浴槽に移し、浴槽にいるときはお風呂のお湯を浴槽の外へ出し、という作業をせっせとやっていた。そういえば、食事中もお茶の入ったコップを皿にひっくり返し、その皿に溜まったお茶をコップに戻したりを繰り返しているので、そういう年頃なんだと思う。夕飯は子は昼に食べなかったごはん。私は買ってきた弁当。弁当に入っていたなんらかのパスタを全部食べられてしまった。それと、エビカツについていたタルタルソースをすくって舐めて歓声をあげていた。最後はエビカツをもって、タルタルソースだけぺろぺろ舐めてた。びちょびちょになったエビカツは私が食べた。

子を寝かしつけに向かいつつ、応用哲学会のささやかなオンライン打ち上げ会に少し参加し、そのあもで大学院のころの友人たちとオンライン飲み会へはしご。子は最近はベッドで添い寝をしているうちに、ぬいぐるみ抱っこしつつ自分で寝るので大変助かっている。飲み会では前日に人から教えてもらったばかりのSpoonスプーンの話が出て驚く。哲学系の音声配信をしてかなり人気になっているらしい。すごい。

 

日曜日のこと

6:30くらいに子は起床。すぐオムツにうんちをしたので、そのままトイレに行っておまるに座らせてみたら、またおしっこ成功。そのあとは、朝ごはんをだらだら一緒に食べつつ、まったり過ごす。2時間ぐらいでさすがに子が飽きてくる。平日なら保育園に行く時間だ。午前中は10時ごろからちょっとしたイベントに出かけようとしていたのだけど、まだ1時間以上もある。子ども向けのイベントは朝9時からやってください‼︎

9時半くらいに昨日と同じ公園へ。昨日と同じ時間帯なので、また2便、飛行機が飛ぶ。今日は昨日とは風向きが違うのか、正反対の方向に飛び出して行ったのが面白かった。

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それから、その公園の一角でやっていたシャボン玉で遊ぶ小さなイベントへ。シャボン玉を追いかけて30分くらい遊ぶ。家に戻り、車を置いて、歩いて5分くらいの高齢者福祉施設でやっているお祭りへ。ほぼ開始早々に着いたのだけど、受付も各食事のブースも混んでいる。子連れで並ぶのは大変。暑いし、子は帽子を被ってくれないし。焼きそばを確保し、子と食べる。それから、かき氷を食べ、ヤギの餌やりをし、わたあめを食べて、ジュースを一本買って(受付で買ったチケットが5枚綴りで使い切るため)、帰宅。子は帰り道、抱っこしているあいだにもう寝ていた。ヤギの餌やり、すごく楽しそうで、他の子たちが何回かやったらそこから離れたのに、子は何度も食べさせようとし、ヤギが食べてくれたら、その場で足踏みして興奮しててかわいかった。

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子が昼寝から起きてからは、また家でごろごろしつつ、応用哲学会を聞く。夕方、妻とテレビ電話。子はしげしげと画面を見ていたが、切り際にバイバーイと言ったら泣き出してしまった。母の不在に気づいたんだ。抱っこして踏切の動画をYouTubeで見せたらすぐ泣き止む。17時ごろ早めに風呂へ。今日は前日と違って、風呂桶によるお湯の移し替えはしなくて、代わりにお風呂に置いていたガチャポンのケースを使ってお湯を飲んだり、桶にお湯を移したりしていた。夕飯はご飯と納豆と私の昨晩のおつまみの残りの小口イワシの天ぷら。ご飯はあんまり食べてくれなかったけど、納豆は一人前全部食べたし、天ぷらもなんか食べてた。19時過ぎに妻が帰ってくるので空港へお迎えに。送迎ラウンジで、飛行機が一台飛ぶのと、妻の乗った飛行機が着くのを見る。子が乗り物好きなので改めてその視点で見ると、空港は飛行機を筆頭にたくさんの乗り物が働いていて子は楽しそうだった。ラウンジにも「空港で働く乗り物たち」みたいな写真付きのパネルがあることに気づく。また来よう。子は妻と対面しても歓声をあげるでも全力で駆け寄るでもなかったけど、しっとりと抱っこされて満足げな顔をしていた。私は宿直とかで一晩家を空けることは今まであったけど、妻が子と別れて夜を過ごすのは今回がはじめてだったけど、子はよくがんばっていた。私もよくがんばった。車で家に帰る途中、なんだか車が少し揺れるなと思っていたんだけど、家に帰って後輪のパンクに気づき、萎える。めんどくさ〜。

夜、子を寝かしてもらってから、妻の買ってきた崎陽軒のシュウマイ弁当とビール。家族それぞれ2日間おつかれさまでした。

 

[追記:月曜の朝]

車のパンクをどうするか悩む。しかも雨が降っていてめんどくさい。車検をしてもらってる修理屋まで運ぶのにレッカー呼ぶのか、無理してそのまま走っちゃうか、スペアタイヤを使うか、スペアタイヤを使うなら自分で替えられるのか、、。朝の忙しいタイミングで選択肢が多く、迷って困る。こういう慣れない事態は疲れるし、妻にも相談しつつとはいえ、車のことは私が担当みたいな意識が自分に強くあってちょっと辛かった。結局、とりあえず自分でスペアタイヤへの交換にチャレンジする。これは実は人生二度目で、一度目は大学院生のときに哲学の研究合宿で夏にレンタカー借りて軽井沢まで行ったとき。合宿終わりに観光しているときに狭い私道で少し路肩にタイヤが入ってしまってパンクしたのだった。みんなで途方に暮れつつ、スペアタイヤに自力で交換して、近くのガソリンスタンドへ、と思ったら、走り出して30秒でスペアタイヤがパンク。結局、レッカーサービスを遠くから呼ぶことになり、めちゃくちゃ疲れたのだった。で、その経験があって、今回はできるかも、と思ったのだけど、タイヤを固定しているナットが硬すぎて回らず、どれくらい無理やり力を入れていいのかわからず諦める。しとしと降り続けている雨に濡れる。それで保険会社に電話して無料のロードサービスで、タイヤ交換のために業者を呼んだ。ここからはかなりスムーズで、20分くらいで来て、さっと交換してくれたし、そのあと近くのタイヤ屋さんに行ってみたら30分くらいで(ちょっと特殊なサイズとのことだったけど近くからタイヤを取り寄せたうえで)タイヤの交換をしてくれた。結局、仕事には2時間遅刻で着きましたとさ。たまたま授業日じゃなくてよかったね。うちのタイヤをパンクに導いたクギは悔い改めてください。

恩師がいない

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この前のブログで教職科目の先生たちを思い出していて、自分には恩師らしき恩師はいないなあと思う。そもそも恩師がいると言える人ってどれくらいいるんだろ*1

 

学部で卒論を見てもらったT先生は今も哲学対話をやるうえでも影響を受けたし今でもお世話になっている。ただ大学院は他大に出て、研究指導的な関係を結ばなかった点で恩師感が薄い気がする。大学院で5年ゼミで指導をしてもらったM先生からもたくさん教えていただいたし教員をするうえでも先生の言葉*2を思い出すことも多い。ただゼミでの研究の内容からは遠く離れてしまったし博論も書けなかったので、恩師と呼ぶのは躊躇してしまう感がある。

あとどちらの先生も恩師的な呼ばれ方や慕われ方をなんとなく嫌いそうでもある。

 

高校以前はお世話になった先生はもちろんいるものの、恩師という感じはない。ときどき卒業後も学校の先生も連絡とったり、会ったり、母校に遊びに行ったり、みたいな人がこの世界に存在しているのはわかるけれど、なんでそんなふうな関係を先生と結べるのかは私にとっては永遠の謎かもしれない。

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ただ、こうやって書いていてふと思い出したのは中学校の卒業式のこと。

私は訳あって中3の途中から親とは別居をして祖父母との3人暮らしをしたんだけども二世帯的な作りの家に住んでいたので自分の分の食事の用意や洗濯は自分でやってた。学校の一部の先生にはそういう事情を話してはいてときどき声をかけてもらってたんだけど、それでも特に深く困ったことを相談するような先生はいなかったと思う。それでも卒業式を終えて近くの公園で卒業生がワイワイ集まるところに3年で担任をしてくれた先生が来て、少し会話をして握手をしたときに(「よく頑張ったな」的なことを言ってもらったんだっけ。)卒業式本編では泣かなかったのに、泣いてしまったんだよな。このエピソードをもって恩師だとは全く思わないけど、中学生の自分にとって自分の事情や苦労を知った大人からの握手や声かけというのはなんだかハートフルなものだったということは確かだ。

 

自分も今は教員になって、誰かの恩師になりうる側になっている。誰かに恩師として慕われることは甘美な雰囲気もあるけど、やっぱりそれだけ他人の人生に影響を与えうるという意味で緊張することでもある。

はたして今後、私は誰かの恩師になることがあるのだろうか。

そのために今の仕事をしているわじゃあるまいし積極的にそうなりたいとは決して思わないものの、誰かにとって私との関わりがときどき思い出されたり、それを思い出すことで励まされたりしてくれたらいいなとは思う*3

 

今の勤務校の卒業式は今月後半。ここに勤めるようになってからこれまでの数年間は卒業式は他の仕事が被っていたり、そもそも自分が授業を持っていない学年なので有給休暇取ったりで、一度も出席していない*4。でも今年からは授業で関わった学年の卒業だから、卒業式出てみようかなと思っていて、ちょっと楽しみにしてる。

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日が長くなってまいりました。

*1:東京で長く空手道場でお世話になった先生ははっきりと恩師である、だけど今回は学校の話なので省略。

*2:授業で話すことは徹底的に準備して原稿まで作って臨む。そのうえで当日教壇に立ったら準備してきたものは一旦捨てて、生徒たちの顔を見ながらその場で話していく。的な話はすごみがあった。

*3:東京で非常勤1年した高校の生徒さんからこの前オンラインでのおしゃべりに呼んでもらったりしたな。あれも不思議な体験だった。

*4:高専の卒業式/入学式ってそれくらいのイメージでいるけど自分が不真面目なだけだろうか。

教職科目の先生たちの思い出

ウクライナとロシアの様子のこと、日々気になっているけど、戦争というもののリアリティがやはりない。国連が「最も強い言葉で非難する」決議をしていて、最も強い言葉ってなんだろう?って思ったら「最も強い言葉」がまさにそれだったことにへえと思う。でも確かに抽象的な最上級の形容詞のシンプルな迫力がある。よくわかんない技の名前とかよりも「今から最も強い技でお前を倒す」と真顔で言われたときの凄み。

 

今は、荻上チキのsessionを頼りにしつつ、ロシアウクライナ情勢もなんとなく追えているつもりだけど、改めて思い返すと国際情勢、全然関心を持てておらず知らずに済ませてきたことばかりなことに愕然とする。これでも社会科の教員なのに。授業でついこの前話した国連安保理の拒否権がこんなかたちで発動するなんて全く想像できてなかった。

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子どもとの散歩

今回の戦争のニュースや解説などを聞いていて、ぼんやりと大学の教職課程で受けた世界史系の授業を思い出す。アラブ・イスラム世界の近現代史が専門の先生で授業もそこに特化したものだったと思う。細かくは覚えていないけど、中高の教科書にある歴史記述を紹介したうえでそれがいかに欧米視点での見方であるかを、実際のアラブ・イスラム世界の歴史を解説することで教えてもらった気がする。確か、どこかの高校でふだんは教員をされていて、教職科目のために大学に来られていた先生だと思う。授業の開始時にはこちらを向いて90度近いおじぎを丁寧にしてから話を始める先生だった。

 

私は教職科目を履修したのが博士課程になってからで、記憶も比較的新しいこともあるけれど、教職の先生は他にも何人かよく覚えている。津田左右吉研究か何かが専門の男子高の日本史の先生で、教職志望の学生の出来の悪さに常に半ギレ気味で授業してた。風貌のインパクトも相まって、多分本務の高校の生徒たちによってその先生の語録botTwitterにあった。あとは、非常にキッチリと公民の授業の教授法や教員として学び続ける姿勢の大切さを教えてくれた先生もいる。授業は50分×生徒の人数分の時間を奪ってるんだから生半可な準備ではダメだという話は今でも思い出すとピリッとする。子どもの哲学のことをご存知の先生*1もいて、授業のなかで時間をもらって実際に哲学対話を模擬授業的にやらせてもらったりもしたなあ。あとは、ことあるごとに"learning by doingなんだよ!!"と言う元校長先生だった人も覚えている。もう詳細は覚えていないけれど、生徒の団結とか協力のすばらしさを説明されるような文脈でとてもモヤモヤ・イライラすることがあって、リアクションペーパーで強めに反発した記憶がある。特に返答はなかったけど。

 

ふつう教職科目の先生なんてあまりイメージに残りづらいと思うんだけど、私の場合はやっぱり授業を受けた記憶が一番新しいのもあるし、今自分が授業をする側になってみてなんだかんだ先生方それぞれの「教える」姿勢や教育観のようなものを(共感したり反発したりしつつ)思い出すということなのかもしれない*2。そういうわけで、教員の側に立ってみると、学生のみなさんが所詮教養系の一科目の私の話を覚えているなんて思わずに、適当なことをしゃべってしまうわけだけど、伝わる人には伝わるし、残る人の心には残っていくのだと思っていないといけない。

 

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今の自分にとってリアリティがあるのは、小さい子どもを連れて地下の防空施設に何日も隠れていなければいけない方たちのことかもしれない。オムツやミルクも十分に持って出てくる暇もなかったかもしれないし、子どもはなんで外で遊んではいけないかわからなくて狭いところにずっといることに耐えられないだろう。極度の緊張状態のなかで何が起きているのか理解できずストレスを溜めていく子どもと共にいる方たちの精神状態のことを思う。

 

[追記]ウクライナの都市部から地方へと9時間かけて電車にすし詰めになって避難している人たちがいるというニュースを見る。小さなお子さんがいる人たちはどうしているんだろうか。自分の子どもに9時間の移動は耐えられない(周囲への迷惑のかけ方が大きすぎる)と思って避難を諦めるのだろうか。それとも命のためにと思って9時間の移動を選ぶんだろうか。今そこにいるあらゆる方たちが自分や大切な人の命を守るためにギリギリの決断を迫られている。

 

*1:2000年代前半にオーストラリアに視察に行ったり、マシューズやスプロッドを大阪に招聘するのにも関わったりしている

*2:さすがに学部生よりはレポートとか課題の質が良かったときもあるようで褒めてもらったり、少し親しくなった先生には非常勤講師の声もかけてもらった。今思えば、そういうやりとりが教員としてやっていけそうな自信にもなったなあ。