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【主に学生に向けて】2018年度第四学期、試験の講評・感想へのお返事など

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2019年度第一学期受講生のみなさんはこちらへ。

  

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三学期終わりにやった、これと基本的には同じ。

 

学生のみなさま。

これを読まなくてもひきつづき倫理や現社を楽しんでいただけると思いますし、成績で合格点は十分に出ます。優もつくことがあるでしょう。ですが、もっと余裕をもって高得点がほしかったり、小川の意図を理解して授業を楽しみたい、という方は時間のある時にゆっくり読んでみてほしいです。

 

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夜の新山口駅前で撮った



 

平均点とか、採点をしていて気づいたこと

あまりそういう数字を不特定多数の見ているところで公表すべきじゃないのかもしれないけど、なぜすべきじゃないのかわからないので公開してみる。

 ・一年 現社

平均点 45.7点/ 60点 最高点 60点   

・二年 倫理

均点 46.1点/ 60点 最高点 59点

 

総合的にはどのクラスもよくやってくれていて、一安心でした。最終成績までそれに応じて悪いものにはなっていないはず。

 

以下、気づいたことの覚え書き
  • 点が取れている人と取れていない人がいるのはわかるけれど、その差が何によるのかは科目担当の教員としてはわからない。あなたは、社会科だけがんばっているから点が取れるのですか?まんべんなく試験頑張っている人なのですか?社会科は専門科目じゃないから手を抜いているのですか?それとももともと時事的な問題に関心があって、授業受けなくてもたいてい知っているのですか?

 

  • 関連して。どうやって勉強したらいいかわからないという方と、わりと私の試験や問題に慣れてくれた方がいるのはわかる。たしかに、試験前の質問でも、どう勉強したらいいかわからない、という声や、試験後にも、もっとプリントに沿った問題を出してほしい、や、問題集が欲しいとの声を聞く。うーん、でもそこまで高専の教員はやらなきゃいけませんか?私の授業内容や意図に沿ったうえで、私のプリントから問題作ったらあんな感じになりませんか?まあ、でも、学生の方々からしたら、そんなの知ったこっちゃないよね。ここからこの範囲までやっておけば大丈夫、みたいなものがあって、わかりやすく勉強したいですものね。単位落とす不安っていやだよね。ごめんなさい。

 

  • あと、倫理については前期に同じ科目を受講した方から、情報を得ていた方たちが複数いたようで。こちらとしても設問の立て方が不用意でした。そして、その情報をもつ人、もたない人で有利不利が働いた感じが悲しい。一度は自分で考えてみてほしくて、それを唯一全ての学生にしてもらえるのは成績を人質にできる試験だと思っていて、だから自分で答えてほしいんだけど、それが本当にただの暗記になるのは悲しみがある。

 

  • 当日発表の語句説明については、予想が当たらなかった人も多々いたようで、そこは申し訳ありませんでした。とはいえ、準備したものは別の形で出題されたはず。

 

  • ある方からはこの形式での出題を、正解(当たり)があるかわからない拳銃の引き金を10回引くようなものだ、という批評があった。つまり、何回引くチャンスがあっても、そもそもそこに当たりが入っていなければ努力は無駄になるように思える、と。それはそうだなあと思いました。過去の情報とかが多い人が有利になり、コツコツ候補を勉強していたけど運が悪かった人が損をするのはよくない。

 

いろいろ述べつつ思うのは、この試験および私の授業全体の評価は、ちゃんと授業の趣旨を理解して学ぼうとし、がんばって試験勉強した人が正当に評価されるものになっていたか、ということ。どうでしょうか。

 

教員も学生も積極的にはやりたくないのが試験なのだから、せめてお互いに納得のいくかたちで終わりたいのだけど、それがこんなに難しいのはなぜですか?

 

エッセイの採点のこと

採点難しいです。採点基準(というか、私が気にする観点)はおおよそお知らせしているので、それを気にしつつ、悩んでます。倫理もだけど、特に現社は、授業内容を盛り込んで書く、ということで、よくある作文や意見文っぽくなってしまいがちで、書いていてもあまり楽しいものにならなかったかもしれません。

私がずっと見ているのは、「あなたの考えがどれだけ展開されているか」ですが、

そのなかで満点をつけさせてもらっているのには二つのパターンがありそうです。

一つは、オリジナルな問いについて、自分の考えをどんどんどんどん掘り下げていくタイプ。一見すると、なぜ授業内容からこの問いが!?という感じだったりするんだけど、読んでみるとその人なりの背景があって、全体として理路整然としているわけではないんだけど、試験時間中も考えて、自分のなかで考えがずんずん進んでいる感じのもの。

もう一つは、授業内容と結構近いテーマについての問いでも、自分の立場とは異なる立場についても十分検討して、複数の立場から問題を見ていくタイプ。多くの人が立てる問いに近くても、たいていの人は自分の立場や答えを述べ、それとは反対の立場や別の視点には触れていないか、触れていてもさらっと紹介するに留まっていたりする。あるいは、両論併記しつつ「これからさらに考えていこうと思う」とか「もっとみんなが協力することが大事だ」とか「問題の解決のために技術の発展が待たれる」とかでさっと終わる感じ。それだとやっぱり寂しくて、みなさんが立ててくれるような問いって、多くの人がすでに考えてきていて、それでもどちらかには決まらないようなまさに議論中の話題ばかりなわけで、どちらの立場も検討したうえで、「わからなさ」や「違和感」を大事に、もう少し考えてみてほしかったりするんだと思います。

うん、難しいことを要求しているのはわかっている。でも、満点は出ているので。そこはお許しください。

 

一生懸命、フェアで、かつみなさんによい点がつくように採点をしたうえで、ですが、以下のことも思います。

 

大福帳やアンケートへのお返事(後日更新)

答案返却のタイミングで、大福帳に授業のよかったところ、悪かったところを書いてもらっています。これは記名式なので、同時に学校指定のアンケートも配ってコメントをもらっています。それらについて、気になったものをとりあげます。

 

哲学対話と講義のバランスはいい感じである(1年、現社)

3Qの授業後の感想では、「哲学対話多すぎ」という反応があったので、ちょっと減らしました。というか、二回くらいしかしていないのでは。その分グループワークは増えたのだけど。

ただ、それでも哲学対話が多すぎ、というコメントもあります。もうやるな、ということでしょうか。いや、多分違って、哲学対話を含め、グループワークをしている印象がすごく強いのでしょう。

レポートをもとにしたグループワークはよかった

現社は授業の後半で複数回かけて、自分で授業内容に合わせたテーマで、調べ物をしてまとめてきたもので、グループワーク、話し合い、をしてもらいました。これがわりと好評のようだった。勉強になったらしい。

他方で、私はほとんどその話題について講義はしなかったので、話し合いで出たことに補足するようなかたちで講義を、という声はあった。それもごもっともです。

講義は眠いので、眠くないようにしてほしい

むずい。講義のなかにも話し合いを、という声がありました。確かにそれは私の授業に足りていないところで、お勉強パートに入るとわりとこっちがしゃべり続けてしまうんだよなあ、よくないですね。

哲学対話は全体でやらずに2グループでやるようにしろ

最後のほうにゲストが来てくれたクラスでは2グループに割ってやりましたが、そのときの感触がよかったよう。一人の授業者で40人越えは確かに大変で、二つに割ることも考えるのですが、教員一人だとどうかなあと悩んでいます。

こういった悩みを見透かしてか、「半分は哲学対話、半分はグループワーク」のようにしたらよい、という大変建設的なご意見もいただきました*1これは工夫次第ですぐに導入できる気がするので、来年活かしたいです。

 

サイレント・ダイアローグは続けろ/ やめろ

サイレント・ダイアローグという匿名で紙の上での問いに対する意見交換のワーク

をよくやっていますが、これは哲学対話よりも意見交換がしやすく概ね好評だと思っています。が、一部からは、匿名でやるせいもあってか、全然身もふたもないコメントしかかえってこない、ということで無駄だという意見もありました。みんなで、少しずつ適切な議論ができるようになっていきたいのです。。

 

試験、選択問題が多すぎ、選択肢が複雑すぎ、など

一年生は、前回よりも平均点があがったので、それほどクレームはありませんでしたが、選択問題が多いことについて、ちゃんと勉強したのに(一問一答の記述ならできたはずなのに)、点数がとれなくて萎えた、という声もありました。あとは、選択肢が多かったり、「当てはまるものをすべて選べ」とか「適当なものがない場合は⑤と記入せよ」とかそういうのがズルい、という意見もありました。

私としては言い分はあって、ワークもやっているので試験範囲になるようなプリントは実際はA3数枚です。そのなかから試験をつくるときに、重箱の隅をつつくような問題は出したくないし、記述式の一問一答みたいなものも試験中に試行錯誤する余地がなくてあまり望ましいと思わないのです。基本的には勉強してくるようなプリントの空欄、とか教科書の太字の知識を使って、ちょっと考えてみる、くらいの、ある程度歯ごたえのある問題を出すことを意識して、こうなっています。あとは、あまり勉強してこなかった人でも選択問題ならなんとか粘って粘って単位がとれるように、とも思っています。

ただ、「勉強した人とそうでない人のあいだに差がつきにくい」という声もありました。その点は考えてみなくてはとも思います。

それにそもそもある程度点数でふるいにかける必要がある=少々間違ってもらう必要がある、と思っていますが、もっと簡単にしちゃう手もあるのかなあ。

もう少し考えます。

授業内容をテストに出してほしい

うーん、難しいです。配布プリントをもとに試験を作っているつもりなのですが。。

 一方で、「テストの問題も、授業にきちんと参加していればさして難しいものではなかったように思う」といった声もありました。

僕は倫理が嫌いです

「話し合っても答えが出るわけではないし、違う問いも浮かんでくるから。終わった後になんだかモヤモヤします」とのこと。モヤモヤの出ない授業にしてほしい、と。

モヤモヤ感じて、新たな問いが浮かんでくれているなら、授業をちゃんと受けてくれていることがわかるし、目的も果たせている!とも思ってしまうのですが、

「モヤモヤを感じられるなら、なんらか楽しい体験なはずだ」という暗黙の前提がこちらにあったことに気づかされました。

 

考えさせる授業とは言ったものの、やっぱり授業なので聞くというのが多かった

そうですねえ、話す、機会は十分ではなかったかもしれません。聞いて、考える、ことはできたでしょうか。話す機会がないと、なかなか考えないか。

 

自由に哲学対話のテーマを決めるのはやめたほうがよい。学生も適当だったし、先生もつらそうだった

うん、ちょっと見抜かれている感があって、ハッとしました。私のつらさが露わになる対話の会は確かにあった。

もちろん、他方で直接関係ないテーマで対話をするのもよいと感じられた、という意見も。

今は、直接関係ないテーマでもよいだろう、という風な気持ちになっていますが、そういうときこそこちらがもっともっとドンと構えていないといけないですね。

 

うるさい人、スマホを触っている人は注意をしたほうがよい

うん、いろいろ考えていきます。

 

みんなの「本当に思っていること」を対話の前に引き出せると対話が面白くなる

そうですよね。問いを出して、決めて、対話して~、じゃなかなか表面的な議論や「誰か一人の意見に賛同しがち」な状況が続きますね。その問いについて、テーマについて「本当に思っていること」引き出したいです。それが引き出せれば、あとは勝手に回るよね。

でも、教室で、「本当に思っていること」話せるんだろうか?

 

 

哲学対話のときに意見が上がらないとトランプで当てていたが、自分の意見がまとまっていないときに当たるのは難しかった

強制指名問題。よくないですね。もちろん、待ちます。待ちますけど、急にふられても困ることはありますよね。パスしてもよい、というルールを明示するのでした。

 

先生がロンリ的に発言するので正しいがこわい。(たまにおもしろい)また、正しいことだと思って(知って)いるので、(ほんの)ちょっとイラつく

どういうことを念頭においての発言かがパッとわからないのだけど、学校のこと、とか授業のこと、とかクラス内のジェンダー差別のこと、とか、ちょっときわどい話もある程度踏み込んで話したのでそのことなのかな。

そうだよね、知っているよね。知っているけど、みんな暗黙のうちに無視してなんとか過ごしていることを表に出して、そして自分の研究室に帰っていくのは、イラつきますよね。

 

お褒めの言葉

自分のうちにとどめておくべきかもしれないけど、少しは自慢しないと精神の安定が保てないのでお許しください。

 

ジェンダーの話のときに気にかけていただいてうれしかったです

女性がごくごく少数、にぎやかな男性ばかりのクラスで、ジェンダー平等の話題を出すのは緊張感もありましたし、気にかけたつもりが逆効果になっていないか、気にしていました。こういう言葉が返ってきて、ほっとしました。

哲学対話も具体的に何かはわからないけれどすごくがんばって準備してきたんだなっていうのが伝わった

うん、こちらもなにを準備していたんだかわからないけれど、時間がかかったような気持ちがあったので、その感じが伝わっていたならうれしいです。

哲学対話をすることでクラスの仲がよくなっていった

別のクラスでも「普段活気に満ちている人の会話に、普段あまりその輪に入らない人が自然とかかわれる、案外貴重な時間だったのではないか」とのコメントが。

とてもうれしいです。

 

授業中って教師と生徒、お互いに「人間」であることを忘れる瞬間があると思ってる。でも、先生の授業は生徒が人間であることを認めてくれ、先生が人間であることも忘れなかった。すごいと思う。

ああ。なんというか、こういう感想を書けるこの方がすごい。ありがとうございます。とてもうれしいです。

*1:実は、「倫理」のほうではやってみたことがある。

 

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お客様襲来

かなりコンスタントにブログが書けていたはずなのに、ここ、1、2週間はぱったり止まってしまっていた。シラバスやら試験準備やら入試やらがあったのかな。ちょっと落ち着いて振り返ってみると、なにが忙しかったのか、よくわからないけど。。*1

 
お客様襲来

昨日まで、二泊三日、東京から哲学対話の先輩が授業を見にきてくれていました。

食事や観光も一緒にさせてもらってとても楽しかった。

そのときも話したのだけど、インターネットやSNSが発達して、地方と東京での情報格差とかは減っているように思うけど、でも感覚としてはやっぱり東京や”東京の人たち”によって行われていることとの距離は遠いのです。

こちらはこちらで一生懸命仕事をして、実践にも取り組むけど、置いていかれているような気分にもなるので、こうやって直に足を運んでもらえるのはとてもうれしいのです。

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観光でいった下関の海
同僚性とか

さらに、その方を囲むようなかたちで、我が校の同僚の方数名とも宴席を設けることができたのも幸せでした。同僚性は大事。社会科の枠で先生方と一緒にやってみたいことも思いついた。

 

他方で、こちらの同僚の先生たちもよい方たちばかりで、それには満足も感謝もしているのだけれど、自分が一番関心があるような哲学対話をベースにした教育活動、みたいな話は当たり前だけどなかなかできない。

そんななか、自分のその面を理解してくれる人がこちらのことを覚えてくれていることを確認できるのは、職場の同僚性とは違う特別な関係なのだ。

 

 

授業の悩み

授業について気になっていたことについてもヒントをもらったような気持ちになる。

どうしても自分の中で哲学対話の実践をしていて、しっくりとくるクラスと、難しいなというクラスがあって*2、それは当たり前のことなのだけれど、明らかに自分自身の話ぶりや身の振る舞い、声色みたいなものが大きく変化してしまうこと。

自分の堅いふるまいが難しいなと思うクラスの学生たちにも伝わり、それをどんどんよくない方向に助長していることを気にしていたのだけど、少しヒントをもらえたような感じがする。

こちらは手を変え品を変え、工夫をして考える場を提供しようとするし、教員っぽくふるまって場を整えようとするのだけれど、それよりも学生の考えたいことを尋ねること、引き出すことを重視した授業にすること。

当たり前すぎるんだけど、うまくいかないなと思うクラスほど、それができなくなるのです。

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一年生の哲学対話の問い
年度末まであと少し

明日から最後に試験。

 

教員も学生も納得して終えられる年度末になりますように。

*1:平日帰宅後、妻とスーファミばっかりやっているというのもある。。

*2:学生も見うるブログだけど、それでもいいと思って書いている。学生自身も難しさを感じているだろうということ、そして、できればその難しさを学生と一緒にクリアしていきたいと思っていること、理由。

そこにいる人をいる人として扱う授業

インフルから復帰して、ちょこちょこと授業、しております。

どの授業でも、レポート書いてきてもらって、それを相互に読みあったり、発表して、質疑応答してもらったりして、勉強してもらっています。

そういう意味では私はなにもしてない。でも指示を通すために大きな声出したり、終わるとそれなりに疲れる。

思い出すこと

昨年度の勤務校の一つで、やはりミニレポート+グループワーク、みたいなことをやったり、こちらが講義せずに勉強してもらう、みたいなことにチャレンジしていたとき、

 匿名の学生からの感想のなかに、

「私たちばかり大変で、先生は楽をしている」みたいなものがあって、

それがずっと気にかかっている。

確かに、そんな気もしているからかなあ。

 

 

 

授業中スマホ問題。

そもそも授業中関係ないことにスマホを使ってはダメなのです。ダメ。

でも、現実的には後ろの方の席を中心にスマホを触っている人は、いる。それはわかる。

講義のときもそうだし、グループワークのときも、そう。

 

学生が悪いという話ではなくて、こちらが毅然とした対応をとるべきなんだけど、できない。

授業つまんないよねえ、ごめんねえ、ごめんえええ

 って気分になってしまう。

 

グループワークのときは

私の授業のローカルルールは、

教員にもクラスメイトにも迷惑をかけるようなことはしない

=この授業を楽しもうとしている人の邪魔をしない

と設定している。

なので、グループワークに及んでもなお、スマホをいじろうとするのは、全体のモチベ―ン低下に著しく関わり、端的に迷惑なので、それは言わなけれなならない。

なので、スマホいじっているのをちゃんと注意しないといけないんだけれど、できない。見過ごしてしまうことがある。

グループワークとはいえ、自分の分の作業について基本的なことをやってくれたうえでの待ち時間で触る、みたいなこともあって、それはこちらのワークの設計が不十分でもあるので、しょうがないかなと思っているのだけど、それがエスカレートしていく感じもあり、やはりよくない。

 

見て見ぬふりをすること

授業が終わって自室に戻ってからいつも気づくのだけど、やはりとてもよくない。

どんどんコミュニケーションが遠のいてってしまう。

だって、ほんとはよくないと学生も教員もわかっていることについて見て見ぬふりをするのは、相手を「そこにいるのにいない」状態にしてしまっているから。注意をしたり、その行動をしている理由を尋ねたり、ワークの進行状況を聞いてみたり、関係ない話をしてみたり、とにかくなんらかのありうべきコミュニケーションがそこにはない。

もちろん、相手も教員である私のことを「そこにいるのにいない」ものとして扱うから、そうできるわけだけど、そもそもの発端はこちらにある、と思う。

 

そこにいる人をいる人として扱う授業

そこにいる人をいるようにする。超当たり前のこと、というか、そもそもその人はそこにいるのだから、ただの事実、スタート地点に過ぎないのに、今の自分にはできていないと思う。40人なら40人ひとりひとりをそこにいるんだから、そこにいるものとして扱う授業。

一斉講義をしたり、グループワークや対話とか言いつつも、一人一人の作業状況やサボり状況や気分や考えていることについてアクセスすることをやめてしまっている。

サボっていることも、やる気がないことも、授業に不満なことも、気づくこと、そしてそれを伝えること、大事。なのに、日々の一人対40(これを複数クラス)という関係に消耗してしまって、あるいは慣れてしまって、どんどんおろそかになっていってしまっている。とてもよくない。

ああ、授業を終わって気づくことよ。

 

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

 

 この本、ざっと目を通した感じでは、タイトルほどのインパクトを受け取れなかったのだけれど、ちゃんと読んでみないといけない。

 

オンラインでの大福帳

 もちろん、目の前で起きたことに目の前で反応する、という基本的なコミュニケーションをまずは私がとればよいのであるけれど、同時に様々なコミュニケーションのあり方も考える。

今授業では大福帳を書いてもらっているけれど、より気軽に、学生同士も、教員と学生もコミュニケーションが可視化できるのは、オンラインな気がしていて、来年度以降のことも考えている。

goose.cite.tohoku.ac.jp

どうなるかな。