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学校単位での哲学対話・哲学教育への取り組み事例まとめ[探究学習との関連性を意識]

とあるところの学校の先生方へ向けて、哲学対話やその学校での取り組み事例を紹介するようなレクチャーをさせていただく機会があった。

もう知っている人は知っている学校名と実践状況だけれど、どこかでまとまって読めるものは今でもそんなにあるわけではないので、簡潔に書いておこうかなと思いました。

 

といっても実践に取り組んでいる学校はすでに書ききれないほどあります。

選定の基準は、

・高校での「総合的な探究の時間」との関係を考えるうえでヒントになりそうなもの

・私自身が関わったり、実践者と直接知り合いのもの

です。

(関係者のみなさま、主に、ネット上にある情報から抜粋するので、公開情報だと思っていますが、間違っている情報、補足してほしい情報、公開しないでほしい情報があれば教えてください。)


開智学園(私立・東京、埼玉)

・だれが

 哲学対話を専門とする土屋陽介教諭が主に授業を担当。

  →徐々に学内の他の教員にも浸透

・どの枠で/どれくらい

 「道徳」の時間の半分を割り当て、中学1、(2、)3年時に年間15時間程度の実施

 ほかに、他教科、教員研修、保護者会、放課後や休日の自主活動など

・なんのために

 「探究・フィールドワーク」(開智中学・高等学校(埼玉))

 「IB(国際バカロレア)」(開智日本橋学園中学・高等学校(東京)

 

   

www.kng.ed.jp

www.kaichigakuen.ed.jp

 

一言コメント

哲学対話を学校で、といえば、まずは名前が上がる学校。老舗。

長らく外部講師(非常勤講師)だったツチヤセンパイが昨年度からは専任教諭になられ、ますますご活躍中だと思います。私も2年くらい非常勤講師として哲学対話の授業を担当させていただき、たくさん勉強をしました。

学校説明会で受験生対象に哲学対話を実施したり、保護者会や職員会議で哲学対話を入れてみたり、さらにやりたい人たちが学外にサークルを作ったり、と様々な試みにも力を入れられている印象。

 

以下の記事なんかは開智での授業の記事。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 

東洋大学京北中学高等学校(私立・東京)

・だれが

 必修科目「哲学」はHR担任が担当

 学内の「哲学教育推進部」の教員や哲学対話を専門にする非常勤講師がサポート

・どの枠で/どれくらい

 中1〜中3必修「哲学」高1必修「倫理」

 全学年「哲学エッセーコンテスト」

 希望者「哲学ゼミ」(合宿)           など

 

f:id:p4c-essay:20190202075749p:plain

哲学教育の取り組み(全体図)(学校HP「哲学教育の推進」より)

・なんのために

“本校の哲学教育は、哲学の知識や既成の道徳を教師が一方的に注入するのではなく、与えられたテーマについて生徒が自ら考え、論じ合うことで、世間の常識や自己の価値観を問い直し、常によりよく生きることを求めて自問自答する力、「哲学的に考える力」を養うことを目的としています。”*1

 

www.toyo.ac.jp

manabilab.jp

 

一言コメント

学校の教育理念三つのうちの一つに「哲学教育」を掲げていて、かつ、それがただのスローガンに留まらず、カリキュラムのなかで学校として取り組まれている印象があります。校務分掌としての「哲学教育推進部」があり、講師による力強いサポートがあり。

思考力をはかる新しい中学入試としての「哲学入試」もテレビで取り上げられて話題になりました。哲学対話って評価できないとかテストになじまない、と言われることが多い中、試行錯誤されたその苦しみも大変よくわかり、すごく印象深かったことを思い出します。

ほかにも、「哲学の日」の試みは圧巻だし、哲学エッセイコンテストには励まされ、授業でも取り組ませてもらいました。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 

複数の都立高校

(都立大山高校・都立雪谷高校・都立豊多摩高校・都立八王子東高校など)

 

・だれが

 主に学外講師による

 東京大学の梶谷真司氏を中心に、一般社団法人子どもの成長と環境を考える会*2と大学生・大学院生らがサポート

 

・どの枠で/どれくらい

学年全体への出張授業(新入生オリエンテーションなど)*3

放課後有志による哲学対話の場づくり(月に1、2回)

教員研修の実施                   など

    

・なんのために

 学習意欲の向上→進学実績(大山高校*4

 探究スキルの定着(八王子東高校

f:id:p4c-essay:20190203000225p:plain

八王子東高校作成「自ら学び 自ら考え 自ら創る 八王子東の探究」より

http://www.hachiojihigashi-h.metro.tokyo.jp/hachihigaHP/pdf/tankyu/tankyu-panf2.pdf

 

 

一言コメント

ここに名前を挙げた学校以外にも、都立高校では、大学の先生方のご尽力があり、なんらかのかたちで学校で哲学対話が実施された学校数は20は超えるんじゃないかと思うほど。

そのなかでもここで名前を挙げた学校は、法人や若い実践者らのサポートがあり、放課後に自主的な参加で行う哲学対話の場づくりを試みてきた点に特徴があると思っています。私も2、3度だけだけどお手伝いをさせてもらいました。そのときは、人が集まらず苦労もしたのだけれど、うまく回りだせば、哲学的に考えることの楽しさを自分から掴んだ人たちが学内に散らばってくわけで、様々な活動が展開しやすい種まきになるんだと思います。

探究学習との関係性でも注目しなくてはいけないところ。

 

明星学園中学・高等学校(私立、東京)

・だれが

 哲学対話を専門とする非常勤講師2名および学校教員

・どの枠で/どれくらい

 中学一年時に毎週一回「哲学対話」の授業時間を設ける

f:id:p4c-essay:20190202075439p:plain

「総合探究科」3年間の流れ(明星学園HPより作成)

*5

・なんのために

 2018年度より「総合探究科」を新設

“「数学や理科といった教科には明確な答えがありますが、世の中には正解が一つでないことが多い。そこで、生徒一人一人が問いを持ち、仮説を立て、考え、議論するという探究のプロセスを重視したカリキュラムを作りました」。副校長の堀内雅人教諭は、総合探究科を新設した理由をこう説明した。”*6

 

一言コメント

特定の教科の名前はなくとも、ずっと以前から探究型の学習に取り組まれてきた明星。今年度からは「総合探究科」を設置し、そこで「哲学対話」を取り入れています。導入前に、少しお話をさせていただき、今の非常勤講師のお二人を紹介させていただいたこともあり、インターネットで記事をみたときもうれしかったです。

 探究に長く取り組まれてきた学校が、特に1年次の段階で、「いかに問いを立てるか?」を重視して、「哲学対話」に取り組んでいただけている、というのは、探究と哲学対話の関係を考えるうえでもすごく励みになるでしょう。今後さらに注目です。

 

宮城県の公立小中学校 「p4cみやぎ」

・だれが

 各学校の教員が、研究者・実践者のサポートを受けて実施

 校長、研究者、民間の理解者、教育委員会らによる組織「p4cみやぎ」としての活動・推進

上廣アカデミー

 

・どの枠で/どれくらい

「国語」「算数」「生活」「家庭科」「保健」「道徳」など各教科で

 

・なんのために

 “私たちは哲学対話をすることが目的ではなく、セーフティを基盤として教育をより良くしていくことを主眼にしている点で、これまでの全国の取り組みとは異なるものだと考えております。哲学的な深まりを目指すものではなく、すべての子どもたちがコミュニティの中に居場所をみつけること、対話を通じて新たな物事を探究することを大切にしています。”*7

 

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

 

 一言コメント 

現場に伺わせていただいたことはないのだけれど、2年くらい前に、公開フォーラムのような場に伺いお話を聞いたことがあります。宮城教育大学教育委員会、公立の小中学校、それぞれのトップクラスの方達が介して、p4cについて語る、というのはすごい光景だった。日本では宮城以外の地域でこれはできない。すごい。

「探究」と名前は付いているけれど、現在のところは小中学校の各教科や「考え、議論する道徳」との関係性を強調されている印象。東京書籍の道徳の教科書にも記載されました(『新しい道徳 一年』p. 102「探究の対話『p4c (ピーフォーシー )』をしてみましょう。」

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/spl/doutoku/chu_files/31_chu_doutoku_text_pamphlet.pdf))

 

 

 

 

 「探究」のどこで哲学対話をするか

まとめです。

現在「探究」に哲学対話を位置付けようとする明星学園中学・高等学校も、都立八王子東高校も、初年度に哲学対話を実施する計画をしていることがわかります。

その意味では、哲学対話には、まずは「探究活動全体の導入」としての貢献可能性があるような気がします。

 

哲学対話で、「問いを立てる」「問いを問う」「問いを深める」を繰り返し、新たな問いに行き着く。

そのこで

  • 探究に必要な思考スキル「問う」「聞く」「話す」「考える」が身につく
  • 自身の関心に気づき、「問い」として表現できるようになる

 こういった成果やねらいを強調していく、というのは、無理なくできそうな気がします。

そうだとすると、具体的なテーマや各回の対話の深まりよりも、継続して、生徒たち自身が自分の関心を言葉にし、自ら問いを立てることができるようになることを重視する、ことになるので、変に哲学対話を教師のほうで恣意的にデザインするのではなくて、むしろ哲学対話を楽しむことが大事になるはず。実践者も対話に参加する人たちも肩の力を抜いて考えることのできる場にできれば、それがいいですね。

 

まあでも、それが一番難しいわけです。学校に「考える」を取り戻す、というか。

そのあたりの難しさとかもこの本に書いてあります。みんなで勉強しましょう。

 

 

 

 

本当はもっと、「総合的な探究の時間」の指導要領などをみつつ考えられればよいのだけれど、それはまた機会があれば。

今回はここまで。

 

*1:学校HPより. 哲学教育の推進

*2:

 

kodomo-links.org

www.facebook.com

*3:

スタディキャンプ(2017.4.14-15) | 東京都立雪谷高等学校

*4:ご挨拶 | 東京都立大山高等学校 (全日制・定時制)

*5:総合探究科|明星学園 中学校 - 明星学園

*6:

www.yomiuri.co.jp

 

*7:野澤令照「序章 これって、なんだろう?」、p4cみやぎ・出版企画委員会編著『子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」』東京書籍、2017年、13頁。

教えることはもう古いのかービースタを読んだ話

 インフルエンザで自宅待機中のせめてもの進捗として読書をしました。

教えることの再発見:

教えることの再発見:

 

 知人の先生たちとやっている勉強会では昨年末に読書会をしたそうだけど、私は遠方で行けず。個人的にも読んでおきたいと思いつつ、ここまで先延ばしにしてしまっていたのでした。

目次はこんな感じ。

日本語版への序文
謝辞
プロローグ 教えることの再発見の必要性
1章 教育の課題とは何か
2章 教えることを学習から自由にする
3章 教えることの再発見
4章 無知な教師に惑わされないで
5章 不可能なことを求める――不和としての教授
エピローグ 教育に教えることを取り戻す
訳者解説(上野正道)

 

すごく長い本ではないし、プロローグなどでの問題提起は大変シンプルで力強いんだけど、中心の議論自体は結構難解で、十分に理解できたとは言い難いところ。特にレヴィナスが出てくるあたりとか。

本全体の批評や検討をする力も時間もないのだけれど、ビースタがこの本でせんとした問題提起だけは確認しておきたい。

  

ビースタの問題提起

この本の主題は、「教えるteaching」ということ。

そんなの、教育なんだからずっと昔から今まで論じられ続けてきたテーマじゃないか、という感じもするけれど、実は違う。

というのも、昨今は、教育といえば、教員が教えること、よりも学習者自身が「学習」すること=学ぶことlearningが重視されているからだ。

学習に関わる言語と論理の興隆は、教師の役割を「壇上にいる賢人」から,「〔学習者の〕傍らにいる支援者」へと変えた。[...]ある人によれば, 教師を「〔学習者〕の後ろにいる仲間」にさえ変えたのである。*1

日本でも「アクティブ・ラーニング」や「主体的・対話的で深い学び」が重視されるなかで、教師にも「ファシリテーター」としての役割が期待されている感がある。この意義はもはや自明であるし、ビースタの言葉を借りれば「学習者の共同体としての教室という考え方が魅力的で進歩主義的に聞こえる」というのはその通りに思えてしまう。

 

だけれど。

 

むしろ現在の教育の「学習化」の動向は、「教えること」や教師の仕事についての誤った理解を促進してもいる。だからこそ、立ち止まり、「学習の時代における教えることの回復recovery」そして「教えることと教師の意義と重要性を再発見するrediscovery」こそがビースタの本書での試みだ。

 

教えることと学ぶことを対比して考えると、確かに学ぶことこそ進歩主義的な新しい教育であって、教師が教えることは旧態依然とした保守主義の象徴のように思えるかもしれない。けれど、このような二項対立は間違っている。そうではなくて、ビースタが拓こうとするのは、教えることについての進歩主義的な議論、という第三の道だ。

 

こういった問題提起は、これくらいざあっとさらった感じでもやっぱり示唆に富んでいる、と思う。いろいろなところで聞くけれど、アクティブ・ラーニングか教員による一斉教授か、みたいな二項対立の問いは、まやかしなのだと思う。

 

学習を重視しないならなんのために教育するのか

教えることについて考えるビースタさんは、教えることの先に学習者による学習をみる、というすごく当たり前の感じ、にも疑問を呈している。

教えると学ぶは「教え学びteachingandlerning」と一語であるように感じられるほど必然的な結びつきに思えるけれど、それは本当なのだろうか。

じゃあ学習を目指さないとすれば、なんのために教育をするんだろうか。

ビースタは、難しい言い方だけどこう言っている。

教育の課題は, 他の人間に, 世界の中に, 世界とともに成長した仕方で存在すること, すなわち主体として存在することの欲望を引き起こすことである。*2

世界内における成長と主体化。本当はここから、この言葉の意味をビースタがどう考えているかを見なくちゃいけないのだけど、ごめんなさい、力不足。

いろいろすっ飛ばしてしまえば、この教育の課題を通して、ビースタが目指していくのは、教えることを取り戻すことによって、「生徒が自由となることができる場」を、そして「生徒が自らの自由と出会う場」を創造することだ、とは言える。

巻末の役者解説などを踏まえて、もう一つ言葉を足すならな、こういったビースタの教えることに込めた思いは、フレイレランシエールを経由して、「解放としての教育」へと向かっていく。

 

被抑圧者の教育学――50周年記念版
 

 

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

確認しておくべきは、教育される人の、主体化や自由や解放を語るときに、ビースタが重視するのは、教育される人たちのアクティブなラーニングではなくて、あくまで教師による教授だ、ということ。

教えることは、必ずしも権威者による「統制」を意味しない。

 
概念と一緒に生活したい

 じゃあ、「統制」せずに、どうやって教えるのか。

学習させることなく、教えるのか。

本書を読んでいて一番ワクワクしたのは、ビースタが、教えることから学習を取り除くために試みた実践として、自身が大学院生のために行ったセミナーでの授業を紹介しているところだったりする。

 

ここで、私が学生に思い出してもらったのは, 教育というものが, おそらくすでにそこにあるものーたとえば, 現れつつある理解ーを伸ばし深めることだけではなく, まったく新しい何か, すなわち学生がそれまでまったく経験したことのない何かとの出会いとして理解することもできるという点である。*3

 

なんかしゃれた言い方だ。教育とは、学習を通して対象について理解したり、把握したり、了解したりするような、そういうものではなくて、全く新しいなにか、未経験のなにかとの「出会い」でもあるのだ。

そのために、とにかく、学生を了解から遠ざけて、学習しないように、解釈しないように、意味を形成しないように求める必要がある。そういう了解しようとする傾向を「中断する」ための、ビースタの授業はこんな感じ。

 

学生には自分が選んだ概念を自分たちの生活の中へ取り込み, 2週間, その概念とともに生活するように求め, 2週間の最後の日に学生にその取り込みの経験について参加者の前で報告するように依頼したのである。*4

 

 

 

対象となった概念は、授業のテーマにあわせた、創造性、コミュニケーション、教えること、学習、民主主義、解放、妙技。どの概念と生活するかも、突然の出会いのほうがよいので、偶然性に任せて選んだそう。

 

全然よくわかんないけど、ものすごくやってみたい。概念と一緒に生活したい。

 

「解放」と二週間一緒に生活したら、どうなるんだろう。しかも、それを理解したり、了解しようとはしないで、って言われたら、どうなるんだろう。

概念は自分に対してなにを「呼びかけて」くれるだろうか。

 

ということで、まとめとしましては、

 

ぼくも概念と生活したい、です。

 

終わり。

 

*1:上掲書, pp. 1-2

*2:p. 12

*3:p. 55

*4:p. 56

哲学対話はアクティブ・ラーニングではない?

インフルエンザになりました。

 

学生さんたちには多分にご迷惑をおかけしてしまい申し訳ないです。。予防接種をしていたので、気を抜いていました。。

 

当日の休講なども初めてのことだったし、このあとの補講手続きとかも未知なのでだいぶしんどい。

 

 

でも、病状については、薬を飲んで寝れば一晩で熱については下がってしまうので割とあっけなくもある。今週いっぱいは寮の仕事なども同僚に代わっていただき、自宅で静養させていただきます。

 

持つべきものは困ったときに頼れる同僚。

 

論文を読みました

この秋実はこつこつ某氏と某氏と三人で二週に一回くらいのペースでスカイプにて哲学対話についての情報共有や意見交換会をしていました。

昨日がちょうどその会で、自宅で参加しました。

昨日は私からの提案で下記の論文を読むことに。

CiNii 論文 -  主体的に学ぶことは教えられるか? : 「哲学対話」の実践を通して考える

著者の古賀裕也さんは大変お世話になっている先輩です。大変懐の広い方なので、私たちが知らないところで好き勝手言っても許してくれるに違いないと確信しての選出でした。

 

以前読んだことはあったのだけど改めて読みながら、エモいなぁとドキドキしてしまう。アクティブ・ラーニング=ALが私たちに開く教育をめぐる根本的な議論として、強制と主体の問題を提示したあとで、示される根本的な問いがすでになんかエモい。

 

もし強制が隠されることなく、しかも生徒がいかなる主体措定からも遠ざけられることに成功したら、そのとき教室にいるのは一体「誰」なのか。

 

おわかりだろうか。なんかエモいのだ。

 

さて、会で話したこと全てはここには記せないけれど終わって思ったことをひとつだけ書く。

 

哲学対話はアクティブ・ラーニングではない?

 

古賀論文の味わい方はいろいろにあるはずだけれど、そのうちの一つはこの主張にあると思う。

 

論文の構成として、第1節、第2節で、アクティブ・ラーニングの説明をしつつ、フレイレを持ち出して、ここにも強制や主体をめぐる問題の隠蔽があると指摘している。(その問題の核心は古賀さんによれば先の引用部にある。)

そのうえで、第3節以降で、最近はアクティブ・ラーニング的な取り組みの一つとして理解されることも多いであろう哲学対話には問題に対して別視点から光をあてるだけの可能性があると論じている。

 

その意味では、一般的なアクティブ・ラーニングにはない可能性が哲学対話にはある、という主張をしているように読めると思う。

(あるいは、本当の意味で「アクティブなラーニング」こそが哲学対話だとも読めるのかもしれない。)

 

そのポイントは大きく分けて、

①哲学対話はあえて「うまくいかない」ことも含めて問題を問題として露わにする(強制の問題を少なくとも隠蔽しない)

②哲学対話において驚きの感情が重視されることで相互にケアする関係をもちうる「他者」との出会いが起きる

 

といった点にあると思うのだけど、ここではこれ以上は立ち入らない。

 

狭義の哲学対話と広義の哲学対話

哲学対話は「いわゆるアクティブ・ラーニング」とは違うんだ、と古賀さんがどこかで思っているとしてその気持ちはわかる気がする。

 

そして、この違いを言いたいときに、これも言い方は様々であれ、しばしば用いられるのが哲学対話は単なる方法ではなくて教育観であるのだ、というようなアイデアだ。先の論文でもこれを広義と狭義として語る箇所がある。

 

いわゆる「哲学対話」は狭義には具体的な教育実践である。だが広義には、「哲学対話」を通して共有された独特の教育観でもある。この教育観なしに「哲学対話」はあり得ない。

ふむふむ。

そして古賀論文の示すその教育観とは。

 

それは教員にとって、自らが果たす教員の本質を問い直し、授業や教育をも問い直すことである。だがそれは、単なる懐疑や破壊ではない。ただひたすらに、既成のいかなる教育観、生徒観、授業観、学校観をも遠ざけようとし続けることである。

[中略]

もし哲学対話に意味があるとしたら、新たな占有地を主張するのではなく、すでに作られてしまったそのような場を解体し続けるような禁止的措置として執拗に遂行されつづけなければならない。そのような根本的な機能を果たしてこそようやく、「哲学」の名を冠するに値するのではないだろうか。

広義の哲学対話=哲学対話の教育観とは、教育の問い直しであり、さまざまな「観」を遠ざけ、今あるものたちを解体することにある。

 

ここに参考文献等の指示がないので、他の主張や論考との関係は十分にはわからないのだけど、説得力がある。

 

この話は、多分、哲学対話をやりながら、実践者や関心を持った人たちと「なぜ哲学(対話)なのか?」とか、「哲学をすべての子供たちにやらせようとするのは危険な面はないのか?」といった問いと絡めて話し続けてきたこととつながっている。

 

哲学は哲学であるゆえに、自分自身の足場たる学校や教育そのものをも問おうとする。今国内で狭義の方法論としての哲学対話の実践に取り組む人は、この教育観に魅力を感じている人が一定程度いるのだとおもう。

 

僕自身もそうだ。

 

じゃあこれはどんな学校でも求められる?

もう終わりにするけれど、書きたかったのはここからのことで。

いろんな形で日々考えていることに突き当たる。

 

「アクティブ・ラーニングや探究活動の一種として哲学対話やりたいので手伝ってほしい」みたいな依頼が私の界隈にも最近はある。

 

でもこっちは、ある意味ではもっと意味不明な教育観としての哲学対話が気になっているし、その可能性を先生たちと考えたてみたかったりする。

 

でもでも、たいていの場合そんなことは求められていなくて、たくさんある「対話」的手法のうち、深く考えたり出来そうな「哲学」に注目が集まる。そういう、いつもの、といえばいつもの話に改めて行きつくのでした。

 

 

妻に言われる

そんなさなか、妻も古賀論文に目を通していて、あなたも論文書きなよ!と言われる。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 

休まねばと思いつつ、、

学校に置きっぱなしの資料などを取りに行きたい気持ちに駆られるも妻に静止されます。

まずは休まねばと思いつつ、授業のないタイミングでいくつかやっておきたいことが思いついてしまうのでした。。