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窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

対話か講義か

対話か講義か

第三学期を終えて第四学期に入りました。25日に授業をして、年内は終わりです。

様々な反省などはこちらから。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

対話よりも講義をもっと増やして~という声について、ずっと考えてしまっていて、精神衛生がよくない。こちらしては、高専社会科の授業で、哲学対話をやることについて、個人的な嗜好ではなく、もっと広く意味があると信じている。そのことを伝えながら、愚直に対話をやっていくこともできるのだけど、実際は対話をやってみても学生さんもあまり乗り気ではなく、全体としての満足度が上がってこない、という感じもある。

で、4学期最初の授業も、哲学対話しよー、と思って前日までは、対話をどうやったら楽しくできそうかな?なにか組み合わせられる教材はないかな?と考えるもなんともしっくりこなくて、授業のアイデアがまとまらない。そして研究室を出る直前に、ふと、もう講義してまえ!と思い至る。もともとシラバスに組み込んでいたけど、計画上後ろに来ていた授業を、前倒しでやってみることに。

基本的に講義形式で。でも映像を見せたり、スマホを使ってもらって、アンケートをとったり、クイズっぽいことをしてみたり、学生の発言を受けて少し遊びをもたせたやりとりをしてみたり、する。そして最後に大福帳に、授業内容を受けて指示したことを書いてもらう。そんなふつうの授業をする。

講義は楽?

哲学対話だときっとうまく盛り上がらないよなあと心配していたクラスも、そうやって講義をしてみると、少なくともなんとな授業の体裁を保てるし、こちらが教壇の側から語り掛けてゆるやかに反応をもらうことで、若干のウケを取りつつ、授業を進めていける。大福帳を見ても、一応話を聞いてくれていることもわかる。

でも毎回の講義がこうなる、というわけじゃなくて、今念頭に置いていた授業は、講義のなかに学生が調べたりする時間を入れたりもできて、比較的うまく組めたもの。だからそういう講義形式の授業をいくつもストックしていくのは大変だし、日々改良が必要なんだろう。それでも、講義型の授業を楽かも、と思ってしまうのは、やっぱりなにかが起きても教員の側にコントロールする余地が多く残されているからかなと思っている。

対話とかグループワークとかを私のような人がやってしまうと、どんどん学生に投げてしまうし、楽しくない人たちが増えるとその雰囲気が全体に伝播する。ふざけようと思えばどんどんふざけられる。もちろん、対話でもグループワークでもこっちがきっちりコントロールしてしまえばいいのかもしれないけれど、そういう「権威の発動」を拒否するがゆえに対話型授業をやりたいと思っている。

でも講義だと、そもそも学生のみなさまには教員が話しているときは、前を向いて、一応静かにする*1という動きが身体化されているので、多少道からずれても成立はする*2。一生懸命話せば、聞いている人もいる。そういう意味で講義は教員にとっても楽だし、授業を受ける側にとっても、きっとつまらないだろうけど、それでも気楽なんだと思う。

しかしそれでいいのか

とも思いつつ。。。

今書いたことと関係するかもしれない記事*3

nlab.itmedia.co.jp

 

週末は出張

週末は東京に出張で、高専の哲学対話の授業を見せていただき、自分もつたないながら高専社会科とモデルコアカリキュラム*4

について発表をさせてもらっていた。具体的な授業の気づきやいただいた助言ももちろん、有益なのだけれど、まずは人が授業している教室にいることができるだけでとても楽しい。そして、自分が大事たと思っている哲学対話を中心とした授業づくりに取り組んでいる方たち*5と久しぶりに顔を合わせ、あーでもないこーでもないといい、遅くまでお酒を飲める、そういうことが楽しい。

高専で文系科目をもつことがマイノリティだし、哲学対話(とかアクティブラーニングっぽい授業づくり)とかについてのお悩みとかを話せるような同僚がまだいない、ということもあって、そういう意味では基本的に孤独なので*6

 

しかし東京は...

人も物も多い。一年前はそこに住んでいたのに、もうずいぶん遠くへ来たような気もする。電車を乗らなくなって、ちょっとした移動でも車に乗るようになる、いわゆる地方での生活スタイルをこんなにも自分のものとするなんて、ほんとに思わなかった。

でも、帰りに羽田に向かっているときに、人身事故で乗っていた電車が止まったのだけど、そこですっと降りて地下鉄に乗り換える決断をできたあたり、まだ都会人っぽさを自分がもっているなとも思って、うれしかったり。

移動中に読んだ本

 半分くらいまで読み終わった。アクティブラーニングとか対話的・主体的で深い学びとか、そういう今の活動的な学びブームへの危機感を、日本の近代教育史を通してみていく本。なんとなく聞いたことのあった戦前戦後の教育の話は勉強になる。おそらく最後に現代の教育政策の方向性への危機感が示されると思うので、そこにどれくらい説得されるだろうか。

 

僕らの哲学的対話 棋士と哲学者

僕らの哲学的対話 棋士と哲学者

 

 楽しいし、読みやすいのですぐに読み切る。

なんというか、糸谷八段が戸谷さんの話を受けて「哲学カフェが~」とか言っている時点で、チョー興奮する。あと、結構政治的な話題(ネトウヨとかリベラルとか、「生産性」とか)にまで二人が踏み込んで自分の立場を話しているのもよい。

 

*1:たとえ隠れてこそこそゲームをしたとしても

*2:スマホをいじっていても静かにしてくれていればいちいち目くじらをたてなくても授業は多数の聞いてくれる学生によって成立する。でもグループワークとかだとそうはいかない

*3:筆者は某妻。

*4:高専全体の教育の到達目標などを示す指針のこと。高専には学習指導要領が直接影響しないので独自に作っている。

国立高専機構 >> 新しい高専教育

*5:「仲間」と呼びたいな

*6:いや、でも自分の授業を良いと思ってくれている学生がいるらしいことにはとても励まされている。とても。そして妻も話を聞いてくれる。

【主に学生に向けて】今期試験の講評・私のエッセイ・感想へのお返事・文献案内

学生のみなさんに配った模範解答に付けたQRコードからこの記事に飛べるようになっています。

どうでしょう。たくさんの人に読んでもらえると嬉しいのですが。。

 

これを読まなくてもひきつづき倫理や現社を楽しんでいただけると思いますし、成績で合格点は十分に出ます。優もつくことがあるでしょう。ですが、もっと余裕をもって高得点がほしかったり、小川の意図を理解して授業を楽しみたい、という方は時間のある時にゆっくり読んでみてほしいです。

 

結構長くなってしまいましたが、目次を挙げておくと、

 こんな感じです。

気になるところをご覧ください。

あとでもっと編集します。

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1. 教員の書いた哲学エッセイ

採点も迷いましたし、書く方もこれでよいのかなと迷われたと思います。

お配りした10点の方の解答をみて、納得してもらえるとよいのですが。。採点基準はこちらです。

1. 字数を満たしており、文章表現に乱れがないか。(2点)

2. 倫理:哲学者、思想家の考え方の理解や問いとの関連づけは適切か。(3点)

   現社:現代社会を考えるうえでのキーワードや考え方の理解や問いとの関連づけは適切か。(3点)
3. 問いについての自身の考えを十分に展開できているか。(5点)
・問いと書かれている内容がズレていないかどうか(問いと内容の一致)

・授業内容(講義、哲学対話…)から先に進んで自分の考えを新たに展開できているか。(オリジナリティ)

 以下はみなさんと同じくらいの時間(15分くらい)をかけて私も書いてみましたというものです。参考になればよいのだけど。。

倫理エッセイ課題をみなさんと同じくらいの時間で書いてみました

神を信じずに天国や幽霊を信じることができるのか

私は神を信じませんと表明しそうな人や宗教に対してあまり良いイメージをもっていないような人が、同時に近しい誰かが亡くなったときなどに、「あの人も空の上から見守ってくれている」とか「きっとあっちで昔の知り合いと一杯やっているだろう」と語る、ということはありがちだ。授業で扱かった宗教で、キリスト教イスラームはなんらかの死後の世界を想定していたように思う。仏教は少し違うけれど、輪廻というかたちで、少なくとも死んだら終わり、という無宗教っぽい世界観とは別の位置に立っている。こういった宗教やそれに関係するような神や世界観を信じるとき、死んでしまったあの人が今でも天国で生き続けている、と考えるのは自然なことだ。でも、最初に述べたように、神を信じずに、死後の世界のようなものを信じれるのだろうか。

できるかもしれない、と今は思う。それに身近な人の死を経験するとき、私たちの多くが現にそうしている、ともいえるだろう。ただとてもショックなことが起きてしまったからまだどこかで生きていると思いたいという「妄想」や「思い込み」なだけで、本当に信じているわけではない、そう言ってしまうのは簡単だけれど、きっと違うだろう。そうではないもっとリアルで強い「信仰」なはずだ。理屈や科学では説明できない、それでもあの人はどこかで生きているとしか思えない、だからそれをリアルに語る、信じる、そういうことなのではないか。そして、同じことを身近な人の死についてではなくて、神について考えることが神を信じること、宗教を信じることなのだと思う。…(655字)

 

10点満点つきますか?

 

過去の哲学者とどう距離をとるか(主に倫理)

10点がついた人とそうでなかった人の差として、私が思うこと。

自分で立てた問いについて、単に哲学者たちの考えを参照し、それに「私もそう思います」「私は反対です」という立場を示して終わるのか、しっかりと哲学者たちの考えから距離をとって、あるいはそこからジャンプして、自分はどう思うかを展開できているか、は大きかったように思います。

次の言葉は、私の大学院時代の先生のものなのですが、参考になればと思います。

 

この本に出てきたような哲学の問いは、それがいくら私たちの生活に身近なものであっても、私たちにはそれを考えるための手掛かりを容易に見つけることができません。ですから、哲学の古典と呼ばれる書物がいつでも尊重されるのです。強く自分の考えを貫くことで、歴史の淘汰に耐えた哲学思想は、私たちを深く考えることへと導いてくれます。あえて言えば、自分で深く考えるためには、哲学者の思索を手掛かりにすることが必要なのです。*1

 

自分で深く考えるためにこそ、哲学者の思索を手がかりにするのです。哲学者の思索にただただおんぶにだっこ、というのは、私の授業のねらいからすると、(もちろん合格点ではありますが)少し寂しいなと感じます。 

現代社会エッセイ課題をみなさんと同じくらいの時間で書いてみました

民主主義は憎しみを生むだけではないか

授業では民主主義について学習し、今回の問題文でも「人民が権力を所有し行使する政治のシステム」「すべての人を個として尊重する精神性」と言われ、基本的にほかの政治体制よりも良いものとして語られている。だが実際はどうだろうか。民主主義とは言いながら、人民つまり私たち一人ひとりが権力を所有しているような気持になれているか、と言えば全くそんなことはない。私たちがテレビで目にするのは賛成派と反対派のディベートでしかない。いや、それならまだましだが、実際は多数派が最初から勝つことが決まった茶番にも思えてしまう。だとすれば、民主主義は個を尊重するどころか、賛成派と反対派、多数派と少数派が互いに憎しみ合うという結果を生み出してしまっているのではないだろうか。

もちろん、私たちが目指す民主主義はそんなものではない。高橋源一郎は民主主義とは意見の通らなかった少数派がありがとうと言えるシステムだ、と言ったそうだ。本当に、そうあるべきだと思う。だが、現実は高橋の言うことからはあまりにも遠い。そういう風に考えると、実は私の問いは民主主義のことではなくて、「人と人とはわかりあえるのか」「意見が違う相手と仲良くなれるのか」といったもっと身近で、でも日々頭を悩ませているようなそんな問いなのかもしれないと思う。もしこれらの問いに、「絶対無理」と答えるなら、民主主義を捨ててしまいたくなるのだ。(586字)

 

 上で出てきた高橋源一郎の本はこれです。

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

 

 

10点満点つきますか?

社会の問題をどう自分事として考えるか(主に現代社会)

現社でやったテーマは、どうしても私たちにとって身近なこととして捉えづらいものばかりで、シンプルに意見を述べるだけならなんとかなるけれど、その先で「自分の考えを展開していく」というのは難しかったですね。うまく表現できないけれど、私も含めて、現社の教科書を軽くさらったくらいの知識量では、客観的な議論の水準としては決して高くないわけです。それでも、なぜみなさんにエッセイを書いてもらうのか、というと、「あなたはその現代社会の問題をあなたのこととしてどう捉えましたか」という視点が聞きたいから、でした。それが事前にうまく伝えられなかったこと、反省しております。私が↑で書いた文は、そういうつもりで書いてみたのですがいかがでしょうか。

 

次のような本は教科書よりも踏み込んで、「あなた」が考えることの参考になるように思います。 

大人のための社会科 -- 未来を語るために

大人のための社会科 -- 未来を語るために

 

 

18歳からの選択 社会に出る前に考えておきたい20のこと

18歳からの選択 社会に出る前に考えておきたい20のこと

  • 作者: 上木原弘修,横尾俊成,後藤寛勝
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2016/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 
関連するニュースとか(主に現社) 

民主主義ってなんだ?という話と絡めつつ。

globe.asahi.com

市場の限界のときに話した水道事業を民営化しやすくする改正水道法が成立しました。

早速活用を検討する自治体もあるようです。

www.sankei.com

転売の話もありました。授業中は全く意識していなかったのですが、高額転売をめぐって法律ができました。

www.kottolaw.com

 

問いを洗練するー大きな問いもいいけれど…

もうみなさんは、ふだんは考えないようなテーマについて問いを立てて、考えることができるようになりました。

「本当の自由とはなにか」「自殺は是か非か」「自衛隊は戦力か」「転売はよいことか」などなど。

このような大きな問いももちろんよいけれど、あなたが本当に気になることをうまく言い当てた問いへと問いを洗練させていきませんか。

問いが漠然としすぎていると、あなたの考えたいこともぶれてしまうかもしれません。
逆に、あなたの考えたいことにしっくりとくる問いが見つかれば、もう考える作業の山場は乗り越えたも同然です。今回も問いの工夫そのものは採点していませんが、よく考えられた問いのほうがエッセイ自体の考えの展開もよくできていたように感じます。

 

2.質問・クレーム・感想へのお返事(随時更新予定)

学生からの試験や授業についてのコメントをとりあげてお返事をします

試験のこと

試験が国語かと思った

ごめんなさい。どのあたりが国語っぽかったでしょう。問題文多すぎですか。長すぎですか。正直にいえば、リード文(小問の前提となる地の文)はしっかり読み込まなくても、ほとんどの小問については答えられます。むしろ、いくつかの問題や記述問題を考えるときのヒントになれば、くらいの気持ちもありましたが、ないほうが点数が上がるでしょうか。あるいは、シンプルな一問一答、暗記を問う、というほうがいいですか。

ただ、国語とか社会とか、どうしても違う教科として設置されていますから、なんだよ、と思われるかもしれないのですが、もちろん両者は関連のある科目です。社会にとっても適切な文章を読み、理解し、判断してもらうことは重要な能力です。なので、長文があること自体は多めに見てもらえればなあという気持ちでいます。

論述とか作文がある時点で「国語っぽい」という感想もあって、それは寂しいなあと思っています。ただ、ずっと国語とか社会とか、別々の教科として教えてきて、関連づけてこなかった教える側のせい、という面が強いです。

問題文見にくい

ああ、ごめんなさい。長文が国語っぽい、というご批判についてはある程度こたえられるかなあと思ったのですが、そもそも問題が字が小さいし、込み入っていますか。冊子にして、丁寧に作ったつもりだったので、落ち込んでいます。

正直に言えば、なんとか両面3枚の用紙におさまるように、というこちらの都合からだいぶ詰め込みました。申し訳ない。

別の方から、各設問を太字にしたりすれば見やすいよ、とアドバイスをいただきました。次に生かします。

試験時間が足りない

70分でしたが、それでも厳しかったですか。。次に活かします。

 

エッセイを書くスペースが足りない

エッセイは300字以上、でフリースペースを設けましたが、あれ以上ということになると、具体的に挙げてくれているように「追加の原稿用紙を配布する」 みたいになります。あるいは300字のマス目をもう少し小さくしてもよいですよね。ただし、それはそれでたくさん書いたもん勝ち、みたいになる心配もしています。フリースペース内で、ある程度思考をまとめる、というか、そういうこともお願いしたい気持ちもあります。

 

採点基準との不一致(現社)

 記述の用語説明のところで、採点基準には、教科書や授業内容を踏まえること、とは書いていなかったけれど、実際の採点では教科書や授業内容に沿ったかたちでのその語句の説明とは言えないものは、減点対象としました。一応、問題文には、「授業の内容を思い出しながら」という語句を入れてあったことを根拠にしました。ただし、こちらとしては教科書やプリントとは全く違うところから最初から説明を準備する、という点は想定外でしたので、採点基準がゆるかったことで混乱を生じさせてしまいました。とはいえ、その授業でやった語句だから、教科書やプリントの文脈でやってほしい、という意図はくみ取っていただきたかった!

授業のこと

講義をもっと増やしてほしい

特に現代社会の受講者の人たちに多かった感想でした。哲学対話多い、と。もちろん、哲学対話を増やしてほしい、このままでよいという人もいる。

気になって、調べてみたら、いわゆる哲学対話をやったのは、現社で3回/14回 倫理で4回/14回だった。なんだこれでも多いのか。しかし、実際はサイレントダイアログがさらに一回、グループでの質問づくりやルールの検討、みたいなワークもあるので、確かに純粋な講義は半分くらいである。

現社のほうでは、教科書の内容をもっと掘り下げて勉強したかったです、という方も何人かいました。いまさら去年のことを思い出しても、「もっと講義を」という声は確かにあった。「みなさん」*2がそんなに社会の授業を講義型で受けたいと思っているなんて知らなかった!とびっくりしたのでした。そのことをすっかり忘れていて、今になって戸惑っています。みんな講義したらしたで寝るじゃん!*3

 

試験と哲学対話のバランスがあっていない(現社)

もう少し具体的に、授業では講義:哲学対話=2:8の比率なのに、試験のときは講義:哲学対話=8:2になっている、というご批判もありました。これについてはある程度応えられると思っていて、試験でもエッセイや哲学対話の問題の割合はかなりあります。また、最終成績の評価点には、対話そのものは評価していません*4が、対話して考えたことを書いてもらう大福帳やサイレントダイアログは評価に含まれます。そういった普段の取り組みも合わせて評価しているので、私なりに気にしているつもりなのです。2:8が8:2になっている、というのは極端すぎはしませんか。

もう一つ、哲学対話やグループワークに取り組むことは、試験の内容たる知識のパートへの接続や興味関心を養ってもらう、という意味も担っています。哲学対話きっかけに講義に関心がもてたりすれば、たとえ試験や成績に直接含まれる割合が少なかったとしても、意味はあるわけです。

もちろん、それがうまくいっていない、という批判はあると思います。

 

他のクラスとの差。

現社は私が持っていないクラスもあって、講義回数が少ないゆえに、内容の深堀度合いに差が出ている、という話。

 これについてはシラバスを組む段階で、各自に基本はお任せ、というふうに言っていただいたので、好きにやらせてもらっていますが、それでも私も気にしているところでした。おそらくご指摘のことは当たっていると思います。教員の個性を生かすこと自体は認めてもらいつつ、最低限のラインをそろえていくような教員間の調整はちゃんとやっていかなくてはと思っています。今年度についてはごめんなさい。

ただ、その分私の授業だからこそ学んだり、考えたりできること、あるといいなと思ってやっています。

 

穴うめをもっとしたい、もっと書きたい

社会科楽しい、という方のご意見。プリントの空欄をもっと増やして、おいてほしいという話でした。

検討します。

 

スライドに赤で書き込まれると見づらいです 

プリントの空欄を埋めるときに、ホワイトボードに書かずに、パワポのスライド にタブレットペンで書く、というやり方でやってみていました*5。ただし、そんなにスライドが大きくないので、字が小さいし、デフォルトの色が赤なのですが、やはり見づらかったですね。ごめんなさい。「青で太い字で」という提案がありました。そうできるようにします。忘れていたら教えてください。

 

 

もっと読む活動も入れてほしい

対話とかやるけど、もっとそのテーマに関する文章を読んで考えたい、というご意見もありました。ありがとうございます。読み物は確かに大事なはずで、今学期にはそれが抜けていたことはごもっともです。

教材充実させます。

 

グロいネタはやめてほしい(倫理)

ロッコ問題を扱ったことについて、でした。すごくわかりやすく、滑稽にもみえるような話ですが、実際は生々しい話ですよね。一応、スライドで一枚、「これから人が死ぬという仮定の話をします」と出して注意喚起をしていますが、配慮が足りなかったところがあり、お詫びします。

ただ、なにならOKでなにならOUTなんだろう、という教材問題は残ります。。

 

哲学対話のこと

哲学対話、いきなりやったらわかるだろ、と思ってないか

哲学対話の説明やルール設定がない、とりあえずやってみて、楽しさを伝えようとするわたしの戦略(テキトーさ)への 批判だと思います。

うーん、思ってます。とにかくやってみるしかない、と思ってます。

 

哲学対話の内容を自分たち(学生)で決めるのはよくない

好き勝手な方向にいって、脱線する、ということですよね。

あるいは問い決めからふざける、ということですよね。

なんで、全部先生にやってもらおうとするんですか?コントロールしてほしいんですか?哲学対話とかグループワークとか、この授業に限らないですけど、みんなでなにか活動していくタイプの学びって、いうなればみんなが主役じゃないですか。その人たちが内容やテーマ決めないで、だれが決めるんですか。

...と言いたくなっちゃいますが、私ももちろん、気にしてはいます。なかには、回数が多いという人もいるようですが、こちらとしては決して多いとは思わない*6哲学対話の一回一回が印象的で意味のあるものと思ってもらえるように、もっとお手伝い(介入)したほうがいいんだろうか、と悩んでいます。。悩み続けます。一緒に悩んでくれるとうれしいです。

 

お褒めの言葉

試験すごく楽しかったです

なんと、試験を楽しいと言ってくれる方がいました。

すごいです。うれしいです。時間をかけてつくっています。

でもすごくレアケースなので、改善ももちろんがんばります。

 

哲学対話で友だちが増えました

哲学対話で発言したクラスメイトが自分と似たようなこと考えているなと思って、普段話さないのだけど授業後に思い切って話しかけてみたそう。そしたら気があって仲良くなったんだって。なんともうれしい、うれしい報告でした。ありがとうございます。

 

プリントを使っていたところが良かった

匿名アンケートのよかったところ、には複数名が書いてくださっていました。

板書じゃなくて、ということでしょうか。お褒めの言葉にしては、もっとも外形的なもので、喜んでいいのか迷いました(ほかにはよかったところがない?)、がありがとうございます。

授業楽しかったです

ありがとうございます!!!!

3.読書案内(随時更新予定)

倫理A・現代社会Aで哲学や倫理に関心を持ってくださった方は、よければさらに読書をしてみませんか?以下、おすすめの本をリストにしました。気になるものがあればぜひ手に取ってみてください。読んだら感想や考えたことをぜひぜひ教えてください。

 

哲学・倫理学への入門
史上最強の哲学入門 (河出文庫)

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

 

 授業でとりあげた哲学者たちについて、楽しく知りたいならこの本。

 

人生を危険にさらせ! (幻冬舎文庫)

人生を危険にさらせ! (幻冬舎文庫)

 

 アイドルが哲学者になろうとする本。テーマは「生きる」「自由」「正義」「愛」「大人」。突っ込みを入れながら読みたい。

 

  

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
 

  哲学者の名前とか出さずに、でもとことん哲学しようとする本。

(そういう本はたくさんあるけど代表的なもの。)

 

「いまが夢じゃないって証拠はあるか」

「たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか」

 こういう問いに引っかかる人は、おそらくあなたが思う以上にそれを掘り下げていくとどうなるか、を体験しながら、一緒に考えましょう。

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 有名な本。授業でとりあげたトロッコ問題などなど。楽しく学べます。

 

 

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

 

 功利主義についてもっと勉強したい方用。ちょっと難しいと思う。

 

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

 

 功利主義とか、嘘とか、トロッコ問題的なものとか、他者危害原則とか、カントとか、出てきます。様々な問題をもっと掘り下げよう。

マンガとか 

 「青年期」のことを考えるには、浅野いにお、なんじゃないかという気がしている。

研究室にも少し置いてあります。

  短編集。よい。

 

 継続中。良い。

 

おやすみプンプン 1 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 1 (ヤングサンデーコミックス)

 

 完結。よい。

 

 別の作者。「倫理」をテーマにした本なので。私はこの先生ほどセクシーじゃないし、個々の哲学者についてそれほど授業しないけど。研究室に置いてあります。

 

 

てつがくフレンズ 女の子の姿になった哲学者たちの哲学学園

てつがくフレンズ 女の子の姿になった哲学者たちの哲学学園

 

 古代ギリシア関係の哲学者たちについて楽しくおさらいしよう。研究室にあります。

  

その他
サルトルとボーヴォワール 哲学と愛 [DVD]

サルトルとボーヴォワール 哲学と愛 [DVD]

 

倫理でサルトルを紹介したときに予告編だけ見たやつ。

実は私も未視聴です。

ボーヴォワールも今後の授業で出てくる予定がある。

 

現社で民主主義を考えるときに見ました。

今ならAmazon primeで見れます。

 

草食系男子の恋愛学 (MF文庫 ダ・ヴィンチ も 2-1)

草食系男子の恋愛学 (MF文庫 ダ・ヴィンチ も 2-1)

 

 恋愛に悩んだら。

 ああ、表紙のイラストが浅野いにおだ。

 

 

 

radiocloud.jp

 TBSラジオ。政治を中心に今起きていることを丁寧に検証してくれていると思う。

ラジオクラウドで聞きましょう。

 

*1:御子柴善之『自分で考える勇気 カント哲学入門』, 岩波ジュニア新書, pp. 192-193.

*2:実際には、「みなさん」など教室にはいなくて、「あなた」しかいない。講義が好きな人も対話が好きな人もいる。

*3:自分の講義が面白くないことを棚に上げる

*4:対話を評価して成績にいれれば不満は解消されるのだろうか

*5:そうすると、書き込んだこととかがスライドに残せる

*6:授業の構成からいって、という意味ではなくて、哲学対話のよさや楽しさを体験してもらうために、という意味で、です。 

試験の採点を機に、評価について考える

採点作業で採点されているのは教員だ

「倫理」と「現代社会」の採点をする。

採点作業は学生を採点するというよりは自分が採点されるんだなあと思うことがしばしばある。こっちが独りよがりで教えて気持ちになっていることが、いかに伝わっていないかを思い知るという意味で、だ。

点数が取れないことを学生のせいにするのは簡単だけど、その前に自分が授業を受けている人たちの理解を確認せずに、ごりごり進めていた結果がこうなのではないか、と思うのです。

あるいは、授業中にスマホを触っていたり、居眠りをしているのを知りながらみすみす見過ごしてきた結果なのだ。もちろん、そうなってもいいとは思っていた部分があるけれど、でも答案をみながら、こういう指導でよかったのか、という思いはよぎる。

 

 過去の試験についての記事はこちら。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

日常の学びがその都度評価(確認)できていない

これは授業ごとの学習目標的なものを個々の学生がどれくらいわかってくれているか、を確認できていないということでもあるだろう。だから期末になって、驚く。小テストをこまめにやったりすれば、だいたいどれくらいわかってくれているかを把握できるはずだ。

もちろん、なにもしていないわけではなくて、おなじみの「大福帳」*1を書いてもらうことで、その記述の淡白さなどからどれくらいこちらの話が伝わっているのかは確認している。ただ、それは試験で問うような知識ベースの話ではないわけで、試験になってようやく気づくことも多いのだ。

哲学対話はどう評価しているのか

ちなみに、授業で哲学対話(やそれに類するグループワーク)をやっています*2、というと

評価はどうやっているのですか?

という質問が常になされるので、それについても一言。

・哲学対話での発言数とかをダイレクトに評価していません

・でも授業後に「大福帳」で考えたこと、印象深かったことは書いてもらっていて、それは評価の割合に入ります

・試験でも「哲学対話に関する問題」*3を出します

・試験に自分で問いを立てて考える「エッセイ」問題を出します

 

どれもこれも他の先生と試験問題の調整をしなくて済むからできることです。

これでいいのかなあと試行錯誤中です。

授業での強調点と成績評価の方法における学生の納得感はどこにあるのだろうか。

 

新科目「公共」 「公共の扉」をひらく授業事例集

新科目「公共」 「公共の扉」をひらく授業事例集

 

 

哲学対話と評価の関係については、最近出たこの本*4で村瀬先生も書いてくれている。勉強します。

 

記述問題という関門

採点の一番の山場は、自分で問いを立てて考える「エッセイ」問題*5

評価基準は大まかに示しているものの、やっぱり10点にするか9点にするか8点にするかは難しい。一生懸命書いてくれているものをネガティブに点数で評価するだけにはなりたくないので、基本的には良い点数をつけたいけれど、でも満点をつければ「ああ、これくらいでいいんだな」と思わせしまわないか、伸び代をつぶしてはいなか、という気分になるのでした。

 

かつ、エッセイを書く、ということについては「大福帳」を書いてもらう、「サイレントダイアログ」をする、くらいしか授業ではやっていないので、こちらが求めているようなものよりも、より中学校までの作文っぽいものが仕上がってくる。

 

そういうものを続けてみるに連れて(採点とはさしあたり切り離したうえで)、もっと授業にエッセイを書く、というライティングの要素を入れてあげたい、という気持ちになる。そのほうが、自分の授業でやりたいこと(すごーく平たく言えば、よりよく考えること。)に近づけるのではないか、という気がする。

 

来年度の倫理の授業はとある事情で今よりも課題を多く出す必要があるので、うまく授業の内容と課題に、「書くこと」を組み込んでいけたらいいなあと、漠然と考え中です。

 

このあたりはアトウェル先生や諸先輩方の実践から学びたい。

 

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

 

 

 

 なんのために成績をつけるのか

そして、本を読みながら、なんのために成績をつけるのか、を考える。

成績をハックする: 評価を学びにいかす10の方法

成績をハックする: 評価を学びにいかす10の方法

  

 いわゆる通知用のような数字での成績をやめ、それに変わる評価をオンラインツールの活用やポートフィリオの作成などによって提案していく、というのが大きな趣旨。

印象に残ったところその1

「ハック7:成長をガラス張りで見えるようにする」にある、

成績を平均することは、生徒の学びを一つの数字ないし記号に貶めることである*6

という言葉。あるいは別のところでは、

「生徒の作品に点数を付けると、すぐに学びは止まってしまう*7

とも、

一般的に学んだことを明らかにするために成績が使われていますが、生徒たちはというと、なぜ成績を受け取るのかについて理解していません。*8

ともある。

どれもそうだなあ、と思う。哲学対話とかやりながら、結構豊かな内容に迫りうる授業だぞー、と思いたいけれど、そこで最後の評価のところで(いくらルーブリックなどを示してみても)、数字で成績がついてしまうと、豊かになりえた学びがしぼんでしまう感じがあるのだ。

印象に残ったところその2。

「ハック9:生徒に、自分で成績が付けられるように教える」は、まずは副題が力強い。

成績を付ける権限を生徒に譲りわたす*9

そのハックで指摘される現状の問題点にはビクッとしてしまう。

・教師に見えるものは、常にすべてではない。

・成績は偏見によって影響される。

・成績を付ける過程から生徒を除外している場合、生徒が本当に知っていたり、できたりすることを見せる機会を奪っていることになる。*10

 

特に、最後の「評価プロセスから生徒を除外する」話は、言われてみれば当たり前なのに、なかなか思い至れないなあと思う。きっと学校の当たり前(成績をつけるのは先生、生徒には自分を正しく評価する力がない。)に染まりすぎているんだろう。

生徒(学生)に授業の改善に向けた発言権を与えるということ

本のいたるところで強調されるのは、教師だけが授業をコントロールすることをやめましょうという話。確かに仮にアクティブ・ラーニングへと学校が変わっていっても、最後の評価のところを教員だけが握っていては、教えたいことを上から管理しているという学校の嫌なところは消えないだろう。

責任を教員だけが担わない、というアイデアについてはこちらの本もある。

 

「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる

「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる

 

 

さて、こういうことを踏まえると今回のエッセイ課題も、私だけが読んで採点するのはそもそも非効率なだけでなく、大変もったいないなと思うようになってくる。

これを、

授業内で仮提出→学生同士読み合って相互評価→改善したうえでテストで書く→ルーブリックに合わせて自己評価→教員が読んで評価→返却時に自己評価と大きくずれている場合はミニカンファレンス 

みたいにできれば、それはよい学びになるだろう、という気がするのだ。

で、これくらいのことは大々的に教育カリキュラムを変えなくても、一度授業のなかに組み込んでしまえばそんなに大変なものではないかもしれない。現状でよしとせずに、まずはやってみること。

関連して読んだ本のこと

関連して週末に本を読む。

暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

 

ちょうとこの授業の目標だよー、といって「市民性」とか「コミュニケーション力」とか「問題発見能力」とか答案返却時に話そうかと思っているところだったので、背筋を正しながら読む。

これからの時代に必要な能力は何か?まともに探求しようとする姿勢のある知性的な人なら、そんなに軽々に「◎◎力です」などと迂闊なことを言い放つはずがない。なぜなら、それは簡単にはわからないことだからである。私たちがいえるのは、読み書きや義務教育で現在教えられているような基礎的知識・技能の必要性はしばらく続くだろうということ、そして、個別の職業や社会集団の中で必要とされる具体的な技能や能力はそれぞれの状況の中で鍛えていかなければならないだろう、という単純なことぐらいである。「二一世紀に特別に必要な、みんなに共通する能力」などという抽象的議論を好んでするかどうかが、私の中ではその知識人の探求的思考の有無を判別する便利なリトマス試験にさえなっている。*11

もっと本論自体は複雑で丁寧でアカデミックな背景をも踏まえてものなのだけれど、ここはいいまとめになっていると思う。

「これからの時代はコミュニケーション力だ!問題解決力だ!」とかあるいは「AI時代だ!」とか、そういって学生を扇動するのは簡単かもしれないけれど、そういう抽象的な能力論を延々と繰り返すこと自体が(ポストモダンではなく)後期近代社会の特徴なのだ、みたいな話。

僕たちの時代にこそ「新しい能力」が必要だ、とか思いつつ、その実、非常に普遍的で汎用的なものだったりするのだ。

 

 

 

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帰宅がじょじょに遅くなる

ちょっと仕事が溜まっていることもあり、ずるずると帰宅時間が遅くなっていて、よくない。一年目はかなりの仕事を免除してくれているのに、これはよくない。今月は論文も書きたいのに、それには手をつけられずまずい。。

 

*1:ポートフォリオって言ってもいいですか?

*2:私の授業の割合でいうと、総時間の1/3〜半分程度、直接知識を学ぶのとは別の活動をしているかもしれない

*3:

「哲学対話と似て非なるもの」の具体例を一つ挙げ、哲学対話と似ているところ、異なるところをそれぞれ述べてください。

とか

クラスで行う哲学対話をよりよいものにするためには何が必要か。新しくルールあるいは対話手法を提案し、なぜそのルールあるいは対話手法が効果的であると考えるか、理由を述べてください。ただし、みなさん自身のクラスの現状を踏まえて、後期の授業で実現可能なものとすること。

*4:また別途書評的なもの書きます

*5:配点は全体の1/6。字数300字以上。ただし、授業内容(現代社会なら学んだテーマ、倫理なら学んだ哲学者の考え)を踏まえること)

*6:p. 142

*7:p.73

*8:p. 162

*9:p. 181

*10:pp. 182-183

*11:p. 236