採点作業で採点されているのは教員だ
「倫理」と「現代社会」の採点をする。
採点作業は学生を採点するというよりは自分が採点されるんだなあと思うことがしばしばある。こっちが独りよがりで教えて気持ちになっていることが、いかに伝わっていないかを思い知るという意味で、だ。
点数が取れないことを学生のせいにするのは簡単だけど、その前に自分が授業を受けている人たちの理解を確認せずに、ごりごり進めていた結果がこうなのではないか、と思うのです。
あるいは、授業中にスマホを触っていたり、居眠りをしているのを知りながらみすみす見過ごしてきた結果なのだ。もちろん、そうなってもいいとは思っていた部分があるけれど、でも答案をみながら、こういう指導でよかったのか、という思いはよぎる。
過去の試験についての記事はこちら。
日常の学びがその都度評価(確認)できていない
これは授業ごとの学習目標的なものを個々の学生がどれくらいわかってくれているか、を確認できていないということでもあるだろう。だから期末になって、驚く。小テストをこまめにやったりすれば、だいたいどれくらいわかってくれているかを把握できるはずだ。
もちろん、なにもしていないわけではなくて、おなじみの「大福帳」*1を書いてもらうことで、その記述の淡白さなどからどれくらいこちらの話が伝わっているのかは確認している。ただ、それは試験で問うような知識ベースの話ではないわけで、試験になってようやく気づくことも多いのだ。
#高専てつがく とか言ってるくせに、今でも自分の授業で一番大きくて重要な声は教員である自分の声だと学生さんは思っているだろう。そうじゃない授業がしたいと思っていても、全然そうできていない。そもそもする気があったのかすら疑わしいくらい、かけ離れた授業をしている、そんな気分になるな。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年12月5日
哲学対話はどう評価しているのか
ちなみに、授業で哲学対話(やそれに類するグループワーク)をやっています*2、というと
評価はどうやっているのですか?
という質問が常になされるので、それについても一言。
・哲学対話での発言数とかをダイレクトに評価していません
・でも授業後に「大福帳」で考えたこと、印象深かったことは書いてもらっていて、それは評価の割合に入ります
・試験でも「哲学対話に関する問題」*3を出します
・試験に自分で問いを立てて考える「エッセイ」問題を出します
どれもこれも他の先生と試験問題の調整をしなくて済むからできることです。
これでいいのかなあと試行錯誤中です。
授業での強調点と成績評価の方法における学生の納得感はどこにあるのだろうか。
哲学対話と評価の関係については、最近出たこの本*4で村瀬先生も書いてくれている。勉強します。
記述問題という関門
採点の一番の山場は、自分で問いを立てて考える「エッセイ」問題*5。
評価基準は大まかに示しているものの、やっぱり10点にするか9点にするか8点にするかは難しい。一生懸命書いてくれているものをネガティブに点数で評価するだけにはなりたくないので、基本的には良い点数をつけたいけれど、でも満点をつければ「ああ、これくらいでいいんだな」と思わせしまわないか、伸び代をつぶしてはいなか、という気分になるのでした。
かつ、エッセイを書く、ということについては「大福帳」を書いてもらう、「サイレントダイアログ」をする、くらいしか授業ではやっていないので、こちらが求めているようなものよりも、より中学校までの作文っぽいものが仕上がってくる。
そういうものを続けてみるに連れて(採点とはさしあたり切り離したうえで)、もっと授業にエッセイを書く、というライティングの要素を入れてあげたい、という気持ちになる。そのほうが、自分の授業でやりたいこと(すごーく平たく言えば、よりよく考えること。)に近づけるのではないか、という気がする。
来年度の倫理の授業はとある事情で今よりも課題を多く出す必要があるので、うまく授業の内容と課題に、「書くこと」を組み込んでいけたらいいなあと、漠然と考え中です。
このあたりはアトウェル先生や諸先輩方の実践から学びたい。
なんのために成績をつけるのか
そして、本を読みながら、なんのために成績をつけるのか、を考える。
いわゆる通知用のような数字での成績をやめ、それに変わる評価をオンラインツールの活用やポートフィリオの作成などによって提案していく、というのが大きな趣旨。
印象に残ったところその1
「ハック7:成長をガラス張りで見えるようにする」にある、
成績を平均することは、生徒の学びを一つの数字ないし記号に貶めることである*6
という言葉。あるいは別のところでは、
「生徒の作品に点数を付けると、すぐに学びは止まってしまう*7
とも、
一般的に学んだことを明らかにするために成績が使われていますが、生徒たちはというと、なぜ成績を受け取るのかについて理解していません。*8
ともある。
どれもそうだなあ、と思う。哲学対話とかやりながら、結構豊かな内容に迫りうる授業だぞー、と思いたいけれど、そこで最後の評価のところで(いくらルーブリックなどを示してみても)、数字で成績がついてしまうと、豊かになりえた学びがしぼんでしまう感じがあるのだ。
印象に残ったところその2。
「ハック9:生徒に、自分で成績が付けられるように教える」は、まずは副題が力強い。
成績を付ける権限を生徒に譲りわたす*9
そのハックで指摘される現状の問題点にはビクッとしてしまう。
・教師に見えるものは、常にすべてではない。
・成績は偏見によって影響される。
・成績を付ける過程から生徒を除外している場合、生徒が本当に知っていたり、できたりすることを見せる機会を奪っていることになる。*10
特に、最後の「評価プロセスから生徒を除外する」話は、言われてみれば当たり前なのに、なかなか思い至れないなあと思う。きっと学校の当たり前(成績をつけるのは先生、生徒には自分を正しく評価する力がない。)に染まりすぎているんだろう。
生徒(学生)に授業の改善に向けた発言権を与えるということ
本のいたるところで強調されるのは、教師だけが授業をコントロールすることをやめましょうという話。確かに仮にアクティブ・ラーニングへと学校が変わっていっても、最後の評価のところを教員だけが握っていては、教えたいことを上から管理しているという学校の嫌なところは消えないだろう。
責任を教員だけが担わない、というアイデアについてはこちらの本もある。
「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる
- 作者: ダグラスフィッシャー,ナンシーフレイ,Douglas B. Fisher,Nancy E. Frey,吉田新一郎
- 出版社/メーカー: 新評論
- 発売日: 2017/11/17
- メディア: 単行本
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さて、こういうことを踏まえると今回のエッセイ課題も、私だけが読んで採点するのはそもそも非効率なだけでなく、大変もったいないなと思うようになってくる。
これを、
授業内で仮提出→学生同士読み合って相互評価→改善したうえでテストで書く→ルーブリックに合わせて自己評価→教員が読んで評価→返却時に自己評価と大きくずれている場合はミニカンファレンス
みたいにできれば、それはよい学びになるだろう、という気がするのだ。
で、これくらいのことは大々的に教育カリキュラムを変えなくても、一度授業のなかに組み込んでしまえばそんなに大変なものではないかもしれない。現状でよしとせずに、まずはやってみること。
関連して読んだ本のこと
関連して週末に本を読む。
ちょうとこの授業の目標だよー、といって「市民性」とか「コミュニケーション力」とか「問題発見能力」とか答案返却時に話そうかと思っているところだったので、背筋を正しながら読む。
これからの時代に必要な能力は何か?まともに探求しようとする姿勢のある知性的な人なら、そんなに軽々に「◎◎力です」などと迂闊なことを言い放つはずがない。なぜなら、それは簡単にはわからないことだからである。私たちがいえるのは、読み書きや義務教育で現在教えられているような基礎的知識・技能の必要性はしばらく続くだろうということ、そして、個別の職業や社会集団の中で必要とされる具体的な技能や能力はそれぞれの状況の中で鍛えていかなければならないだろう、という単純なことぐらいである。「二一世紀に特別に必要な、みんなに共通する能力」などという抽象的議論を好んでするかどうかが、私の中ではその知識人の探求的思考の有無を判別する便利なリトマス試験にさえなっている。*11
もっと本論自体は複雑で丁寧でアカデミックな背景をも踏まえてものなのだけれど、ここはいいまとめになっていると思う。
「これからの時代はコミュニケーション力だ!問題解決力だ!」とかあるいは「AI時代だ!」とか、そういって学生を扇動するのは簡単かもしれないけれど、そういう抽象的な能力論を延々と繰り返すこと自体が(ポストモダンではなく)後期近代社会の特徴なのだ、みたいな話。
僕たちの時代にこそ「新しい能力」が必要だ、とか思いつつ、その実、非常に普遍的で汎用的なものだったりするのだ。
試験といえば去年30分の試験時間では到底読み終わらないような問題を出してしまって、終了後某高専生のみなさまにより私のツイッターが炎上しかけたのだった。ごめんなさい、ごめんなさい。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年12月7日
帰宅がじょじょに遅くなる
ちょっと仕事が溜まっていることもあり、ずるずると帰宅時間が遅くなっていて、よくない。一年目はかなりの仕事を免除してくれているのに、これはよくない。今月は論文も書きたいのに、それには手をつけられずまずい。。
*2:私の授業の割合でいうと、総時間の1/3〜半分程度、直接知識を学ぶのとは別の活動をしているかもしれない
*3:
「哲学対話と似て非なるもの」の具体例を一つ挙げ、哲学対話と似ているところ、異なるところをそれぞれ述べてください。
とか
クラスで行う哲学対話をよりよいものにするためには何が必要か。新しくルールあるいは対話手法を提案し、なぜそのルールあるいは対話手法が効果的であると考えるか、理由を述べてください。ただし、みなさん自身のクラスの現状を踏まえて、後期の授業で実現可能なものとすること。
*4:また別途書評的なもの書きます
*5:配点は全体の1/6。字数300字以上。ただし、授業内容(現代社会なら学んだテーマ、倫理なら学んだ哲学者の考え)を踏まえること)
*6:p. 142
*7:p.73
*8:p. 162
*9:p. 181
*10:pp. 182-183
*11:p. 236