これの続き。8月26日(日)には明治大学で開かれた*1日本哲学プラクティス学会第一回大会に参加しました。
(泊まった実家の猫、と映り込む私。猫はなにを考えているんだろう?)
連絡会があるのになぜ学会なのかというモヤモヤを携えて
数年前から「哲学プラクティス連絡会」という集まりが始まっていて、そこでは研究者であるかどうかは無関係に、哲学対話の活動に関心のある人たちが自由に集まり、実践や関心を報告し、交流するゆるやかな連帯が目指されていたと思う。
それに対して、さらに「学会」を作るとなると、みんなでゆるやかに交流できていたはずなのに、なんでまた研究者とそうじゃない人を区別するような敷居の高そうな集まりを作るんだ、という気分もするし、当日もそういったモヤモヤを持ったまま会場に行くことにしていた*2。
学会だけど、連絡会みたいな「お祭り」でもあるんだから、ツイッターで実況しちゃうぞ!と思って、最初につぶやいたはいいものの、
えらいので9時から発表を聞いている。 #哲プラ
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年8月26日
それぞれの濃密な発表を聞いて自分の頭をなんとか整理しながらついていくので精いっぱいでその後はつぶやけず。。なので、少し当日のことをまとめます。えらいので。
以下とても長いです。
午前中:私の聞いた発表たち
① 9:00~9:40
稲原美苗「哲学的当事者研究の可能性——造形制作を通したピアとの対話の意義について——」
お名前は知っていて、でも、なかなか発表を聞く機会がなかった稲原さん。
病気と共に生きることは、どのように生きづらいのか
数値化・言語化できない痛みに苦しむ当事者が対話実践と造形制作を通して考える
が一つのテーマだったと思う*3。
発表が長くなってしまって最後まで発表を聞けなかった(当事者としてワークショップとシンポジウムを終えられて、それをフェミニスト現象学からどう考えるのか、が聞きたかった!)のと、質疑の時間があまりとれなかったのが残念だったけれど、それでも十分すごかった。
「当事者として自らの疼痛をイメージした造形作品を3時間×3日間で作成する」というワークショップに取り組まれた報告での、稲原さんの言葉が、重い。
稲原「この痛みは私から話す・語る・発話する自由を奪います。もう少し話したいと思うのに、痛いからもう話さないでおこう、と思ったりします。」
...
稲原「私が声を出そうとすると、その直後に激しい痛みを感じます。私は話さないほうが良いのでしょうか?」
② 9:40~10:20
辻和希「文章チュータリングに対する哲学カウンセリングの理論の援用」
早稲田の教育の方に哲プラ学会でお会いできるなんて!と思い、足を運ぶ。
早稲田大学ライティング・センターで勤務をされていたときのご自身の文章ちゅーたリングについての課題意識に対して、P. ラービの『哲学カウンセリング』の理論から何が言えるのか、を考える発表。
基本的なポイントとしては、ラービの哲学カウンセリングによれば「当面する問題の解決」と「意図的行為としての教育」(哲学のスキルを教えていく)ことが段階として分けられている。それをチュータリングにも応用し、段階を積極的に分け、かつ哲学のスキル(ほとんどクリティカルシンキングと呼ばれるものに近そうなものでもある)を教えていこう、という話だったと思う。
- 作者: ピーター・B.ラービ,Peter B. Raabe,加藤恒男,松田博幸,岸本晴雄,水野信義
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2006/06
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
質問では、
哲学カウンセリングって認知療法とかスキーマ療法とどう違うの?
書くこと(ライティング)と考えること(哲学する)の関係性はどう考える?
アカデミックライティングを身に付けさせることは、哲学すること=考えることとどう関係する?(書き手にとって良い文章にしていくことって、論理的な破綻などを修正できるようになること?)
などの質問があった。
個人的には「書き手を育てる」というチュータリングの目的からすれば、哲学カウンセリングのもつスキルの教育みたいな側面ではなく、その人はなにが書きたいのか、なぜ書きたいのか、どんな風に書きたいのか、を一緒に考え、明らかにするような、そんな面にも注目したいなと考える。
③ 10:30~11:10
桂ノ口結衣「哲学対話において「発言はしなくても OK」か?——オスカル・ブルニフィエの哲学プラクティスから——」
前評判が高かった(?)発表。要旨の時点で桂ノ口さんのプラクティショナーとしての問題意識がひしひし伝わってきていたけれど、話し方やふるまいも含めて発表からもビシビシきた。
日本の哲学対話(こどもの哲学と哲学カフェ)の実践では、よくルールのレベルで「発言はしなくてもOK」と掲げられるけれど、それは果たして「人と、共にする、考える営み」にとってどうなのか、という問題提起から始まる発表。そこで、(私の伝聞による印象では厳しさの人だったのだけれど)オスカル・ブルニフィエの哲学対話の進行を手がかりに、Stay with others, Start with minorityとしての哲学対話を考えていく、というものだった。発言を強要すること、と君と一緒に考えたいから君がなぜ沈黙しているか知りたいんだ、と呼びかけることは、まったく違うことなのだ。
なんというか、本当にそうで、確かに「発言の強要はしたくないし、話すことではなくて考えるが大切なんだ、だから発言しなくてもいいよ」ってこれまで思ってきたし、それ自体が完全に間違っているとは思わない。でも。それはいつのまにか、授業中発言しない人たちに対して必要以上にケアしないための言い訳になっていなかったか、あるいは発言しない人たちがなにを考えているか知ろうとすれば、めんどくさいし、怒らせるかもしれないし、とても時間がかかる、そういうめんどうごとを避けたい気持ちからのものではなかったか。
そんなことを自分に問われている、発表でした。
ゆっくり考える、一番遅い人に合わせて考える、ってとても大切なことだし、おろそかにしちゃいけないことなはずなのに、なんだかいろいろ言い訳をしていただけかもしれない。
そして大事なことは、多分、このStart with minorityという考えは、ただのケアとか共生とかそういメッセージであるだけでなく、哲学を本気でしようとするならそうしなければならないもの、としても考えられる、ということだと思う。
その場で起きているさらいなふるまい(だれかが発言しないということ)にも、だれかの分からなさや戸惑いにもいちいち立ち止まり、吟味をすること、これは不思議やわからなさ、謎を愛することができる哲学者のやることなのだ。哲学者こそ他の何者よりもゆっくり考えることができる、という強みがあるはず。*4
...
このあたりから、一緒に今回学会に来ることができなかった(私から強く誘ってくることができなかった)山口にいる妻のことととも重なり、頭がぐわんぐわんなりだした午前中でした。
哲プラ学会で一番聞きたかった桂ノ口さんの発表、夫に要旨を見せてもらう。最後のページの「『ことばの強さ』ではなく、『弱さをことばにしていく』というその営みをこそ、哲学対話は愛をもって支えうる」という言葉はとてもいいな。こんなふうに考える人の対話にわたしは参加してみたい。
— かしわ (@shuzo_shizuka) 2018年8月28日
④ 11:10~12:40
ワークショップ「哲学プラクティスにクリティカルシンキングはどう関わるか」(代表者:菊地建至)
3つ発表を聞いて、だいぶ披露していたので、ちょっと休憩して途中から。
菊地さんのほか、古賀さん、永井さん、神戸さん、それぞれの発表を聞く。
少し頭がボーっとしていたので細かな内容を覚えてはいないのだけれど、多分今自分が抱えている実践上の悩み(限られた授業時間で、対話をするのか、クリシンのスキルよりの時間を増やすのか、みたいなこと)とも通底する話だったはず。
神戸さんは昨年私がした実践をさらに改良したものについて発表してくれたみたい。うれしい。
⑤ 11:50~12:30
松島恒煕「対話における「問いの深まり」と「公共性」について」
ワークショップを途中で抜けてこちらの発表へ。
発表者は哲学カフェをされたり、学校で授業もされている方だけど、同時にバリバリのアカデミックな哲学の研究もされている方だから、他の4発表以上にアーレントやハイデガーの言葉の引用が多くて、大学院生のころの研究発表を思い出して、感慨にひたる。
アーレント的には、「公共性」の場では、どれだけ自分と違っても「差異」は認められなければいけない。それは対話の場で、どれだけ異なる意見であっても、その率直な表明を場としては禁止することができないことを意味する。でも、それではセーフティな場はどうやって担保すればよいのか?でも、ハイデガーは「哲学することにおいて、日常的な親密さは崩れ落ちる」とも言っている。つまり、哲学することにおいて、単にみんな違ってみんないい、とか自分が傷つかない、とかそんな優しい場が目指されるわけではないのだ。
みたいな、そんな話だったと思う。
質問では、
で、そういう「差異」に開かれた公共性の空間ってそんな簡単に出来上がらないと思うけど、それは具体的にはだれが、どうやって作るの?
とか
ハイデガーとアーレントを使っていたけれど、両者の議論はそう簡単に重ねて考えられなくないですか?
みたいなものがありました。
お昼を食べました
知り合いもいっぱいいたはずだけれど、気づいたらふらっと一人でなか卯へ。
たまたまそこで合った某先輩とおしゃべりをする、など。
午後
賛同人による総会
この学会は、立ち上げの前に、発起人の方々から、かなりの数の人たちに「賛同人」になってくれないかという案内が来ています。私もありがたい(?)ことにお声掛けいただいたので、学会の賛同人です。*5
で、総会では、設立趣旨や大会運営委員、編集委員の方々の名前が発表され、質疑と承認を行われる、というものでした。
ふつうは、シンプルに拍手で承認、という感じなんだろうけれど、私としては、最初に書いたような、なぜ学会?というモヤモヤも持ちつつだったので、なにか気になることがあれば遠慮なく質問してやるぞ、という強い気持ちで臨む。
でも、ふたを開けたら思いのほか人が多い、5,60人いたのではないか。
でもでも、勇気を出して、あまりうまい聞き方ではなかったけれど、質問もしてみた。
願わくはこの学会の存在が、だれかを苦しめたり、だれかを置いてきぼりにするのではなくて、みんなで探究をすることを助けるものでありますように。
14:10~15:40 ワークショップ「日本における「哲学プラクティス」とは何か?」(代
表者:小川仁志)
大会運営委員のみなさまによるワークショップ。
哲学プラクティスとはなにか、を考えると同時に、(その前の総会に引き続き、)この学会の方向性をみんなで考える場、でもある。
・駐在哲学者(Philosopher in Residence)として学校にいる身 「伝達・普及」と「対話」のあいだで引き裂かれるということ(土屋さん)
・哲学プラクティスとアカデミックな哲学、個人的な問題を考えることと普遍的な問題を考えること、哲学ゴミ箱説(村瀬さん)
・最狭義の哲学プラクティスの意味としての「開業」(サービスを提供し、対価を得ること)(高橋さん)
・まだ哲学という名前を使うのか。ファシリテーションスキルではなく、哲学的なexerciseとしての日々の修練(ほんまさん)
・これまでとは「別様にdiffernt」考えること 今までの自分とも、他者とも(斎藤さん)
みたいな論点を提示いただいた。
私のメモによれば、その後、「哲学プラクティスは一人でもできるのか」「そもそも一人とはなにか?」という興味深い論点が展開された模様。
ごめんなさい、疲れてきていて、あまり正確に覚えておりません。。。
(この学会で初めてお会いした同じ山口県の「哲学者の小川さん」に写真を撮っておいてくれと言われたものから一枚)
15:50~18:20 シンポジウム 「哲学プラクティスの〈場〉とは?——教育・研究・制度——」
登壇者:神戸和佳子、小玉重夫、松川絵里、司会:ほんま なほ
これが一番長くて、一番エモかったのだけれど、うまく書けない。以下箇条書きで簡単に書きます。
■ほんまさん 哲学プラクティス(哲学相談、哲学カフェ、ソクラティック・ダイアローグ、P4C)の由来について。改めて勉強になる。
■松川さん 岡山のてつがくやさん―制度のなかのニーズ
・だれかのニーズに応じて哲学する時間や機会を提供しその対価を頂戴する、という仕事。
・様々な実践の話を聞いていると、ほんとうにいろんなところにニーズはあるんだなあ、と思ってしまうけれど、別にこれはニーズだけがポンとある話ではなくて、松川さんだから生まれてくるニーズなのだと思う。だれかが急に「てつがくやさん」を名乗っても、こんなニーズがやってくるわけではない。
■小玉さん 学校で哲学プラクティスを行うことの可能性とジレンマ
・価値を注入する徳目主義から価値を越境する哲学対話へ
・専門性(秘儀性)と市民性(公共性)のジレンマ
沈黙と対話のジレンマ
→権力の関節を外す(中断、宙づりの教育学)
権力制度としての「学校」「大学」を引きこもりの場としての「アジール」「難民キャンプ」へ組みかえていく
■神戸さん 哲学プラクティショナーとともにあるというプラクティスについて
・哲学プラクティショナーの相談に乗るとき、次のような質問には答えるべき、黙るべき?
・~になったらどうしたらいいんですか?
~してもいいんですか?
・神戸さんにとって、僕たちは、「対象」なんですか? 見る/見られる
・哲学プラクティス学会って「わたしたち」も参加していいんですか?
・哲学って本質看取と共通了解のことなんですよね?
・わたし、ほんとに哲学に向いてないな。。。
・どうして、「なんでもいい」とか「そのままでいいんですよ」とかそんなこと言
うんですか!ぜんぜん、よくないのに!!
・哲学プラクティスの主たる担い手は、「わたしたち」が出会わない人たち
なにができる?なにをすべき?
ここまでが司会および3名の提題者の発表
神戸さんの話がとにかくエモくて(雑)、休憩中もしんみりしていると、隣にいた始めましての方から、「哲学カフェやっているんだけど、哲学の専門教育(大学院)を受けていない。大学院で教育を受けてきてよかったことはありますか。」と聞かれたりする。
後半の質疑(というかフロアからの言いっぱなし)も基本的に神戸発言の周囲で。
このあたりは、登壇者のお一人の松川さんのブログも参照しましょう。
私は、たまたま大学院に行っている最中に哲学プラクティスに興味をもった者として、「大きな川」で、「哲学の専門教育」とされるものを受けていない人からは「向こう側」の人、って思われているんだなあと思いながら、しんみりしていた。
さらに、衝撃的だったのは最後に発言をした関西の教員の方の言葉。その方は私からすれば哲学教育を受けているうんぬんなんて気にならないほど、長く、こつこつと、教室でじっくりp4cに取り組まれてきた方だと思っている人。でもその方が、ゆっくりと、かみしめるように、「川はある」とおっしゃったこと、大学の先生と現場の教員は否応もなく、違うのだ、とおっしゃったこと。重すぎた。
懇親会@渋谷
東京に泊まる(ないし東京に家がある)運営委員の人たちや関係者の人たち20人くらいで懇親会へ。哲学者の小川さんと弊NPO法人の代表理事ががんがん引っ張ってくれて、わちゃわちゃぐちゃぐちゃした会に。
いっぱい考えたり、哀しかったり、寂しかったりした一日だったので、しっとりだれかと話したい気持ちもあったけれど、かえってあれくらいにぎやかなのが良かったかもしれない。
そして帰宅して号泣する
翌日夕方帰宅。
哲プラ学会、結局行けばよかったと今思うけど、地方にいることが今回とてもわたしを遠ざけたなと思う。夫は行ったけど、比べて自分にはわざわざ飛行機乗って行くのにふさわしい関心や聴く態度がそこまでないのでは?って思って勝手に敬遠してしまった。そんな変な自意識が働いてずっとしんどかった。
— かしわ (@shuzo_shizuka) 2018年8月26日
知り合いがたくさんいて、みなさんに会いたいな、発表聞きたいな、そんでそのあと飲みたいな、くらいのスタンスで東京にいればとくに迷わず行ってただろうし、今回だってそんなスタンスで夫とともに行けばよかったのになと思う。とても、惜しいことをしたな。場へのかかわり方がまだわからないのだな。
— かしわ (@shuzo_shizuka) 2018年8月26日
こんな想いを抱きながら待ってくれていた妻に合う。
あまり難しいことは話さずに家で夕飯を食べながら、なるべく明るい映画を見ようということで、「マンマ・ミーア!」を見る。
見終わって、いつのまにか哲プラの話になって、シンポジウムで出ていた「大きな川」のことを私は、「線を引く」という言葉で言うようになっていて、妻の話を聞いて、自分でも話しているうちに、ひとりで号泣して、妻に慰めてもらうのでした。
*1:明治大学には今年度から文学部に「哲学専攻」が新設され、そこで哲学プラクティスも学べる。今回の大会の開催には明治の先生方のご尽力が大変大きい(に違いない)
*2:でももちろん意義はわかる。まずみんなで集まって議論できる場が増えるのは歓迎だし、もっと専門的に学んでいきたい人、しっかりとこの業界で職を得ていきたい人、にとって「学会」として認められた組織で発表を行い、論文を通す、ことは大切なことだから。でも、でも、ねえ。連絡会の翌日に学会やっちゃったら、線引きしているように見えるよねえ。
*3:配布資料がなかったので、投影されたスライドを私がメモしたものに拠っています。
*4:このことは下記にあるような日本語を母語とする人たちがあえて英語で哲学対話をする、という実践にもつながっていることのように思える。英語で考えることでゆっくりになる、みんなが待ってくれる、それは単に優しい場、なんじゃなくて、哲学するために必要なスピードを教えてくれる。
清水 将吾 - 英語での哲学対話は、もちろん英語の勉強にもなる。... | Facebook
*5:会員ではありません。
*6:小川さんの案とは、4つの円による包含関係を示した図によるもので、一番大きな円に「哲学」(言語を用いて批判的に物事の本質を探究すること)、次が「公共哲学」(「私」を社会にいかにつなぐか本質的に探究すること)、その次が「広義の哲学プラクティス」(哲学を社会に適用すること)、そして最後が「狭義の哲学プラクティス」(おもに対話という方法を用いながら、哲学的なテーマについて共同で探究する実践的な活動)だった。その場では取り上げられなかったけれど、小川さん的ポイントは「公共哲学」というものの理解でもある気がしてきている。少なくとも、「哲学プラクティス」を「公共哲学」のなかに入れる、ってかなり攻めた定義っぽい。というか「公共哲学」って聞いたことはあるけれど、この文脈で出てくるとは思わなかった。このあたりもう少し掘り下げて聞いてみたかった。