高専てつがくは発狂する

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

ライフラインのある授業ー対話したくない人はしなくていい?

GWです。

なかなか担任仕事もあったりで、落ち着いてブログを書く、という感じにはならず間が空いてしまった。

 

見学者いらっしゃる

休み前には、某法人の活動経由で知り合った方が授業に見学に来てくださる。気づいたことをコメントしていただいたり、哲学対話に取り組む自分の話を興味深く、喜んで聴いていただけるのは本当にありがたい。*1励みになります。

 

そんな方から、私の授業について、こんな言葉をいただく。

ライフラインのある授業ですね

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セーフティーネット(いらすとや)

 ライフラインって「命綱」のことで、クイズミリオネアで答えがわからないときに「テレフォン」とか「オーディエンス」とか「フィフティーフィフティー」とかに助けを求めていた印象のある言葉だ。

 

自分の授業にライフライン?と思ったのだけれど、授業についていけない人のために別の選択肢を残しておいたり、ヒントを散りばめる、みたいなことを指して言ってくれていたらしい。

たとえば、講義をしていくなかで説明にうまくついていけなくなってきた人たちのために、途中で関連するマンガを紹介して説明をすること、「自分で問いを考える」という課題の際に、以前に学生たちが書いていた「自分自身の気になること」をまとめたプリントを配布して参考にできるようにすること、などのこと。

 

哲学対話をするかしないかを選んでもらうこと

その授業では、90分の前半で講義をしたあと、後半に対話の時間を設けていたのだけれど、ライフラインと関連した新しいことにチャレンジをした回でもあった。

授業では今まで哲学対話で話さなくてももちろんOKだけど、原則40人超の全員で円になることにこだわってやってみていた。ただ、それが辛いという人もいるだろうし、無理やりやらされていると思うと集団としての集中力も下がって、私語も増えてしまう。哲学することを強制する問題。別に授業なんて、強制を伴うものなのだから、気にしなくてもよいのだけれど、それでも気になっていた。

体育の先生にヒントを得て、試してみたのは、こんなやり方。

  • 哲学対話をするか、自分(たち)で考えるか、(あるいは、哲学対話を円の外から観察して、分析・考察する)を選択してもよい。
  • 哲学対話をする人は教室でいつも通り円になる。自分で考える人は、教室のスミでやってもよいし、時間までに戻ってくれば教室外でやってもよい。
  • ただし、自分で考える人はそこで考えたことをB5用紙に書いて提出し、評価対象になる。(哲学対話を選んだ人は提出物なし)

授業は自分で問いを立てて考えることが目的で、対話はその手段の一つ、そう考えればこのやり方も認めてもらえるかなあ、という感じで、見学者がいるところで初めてやってみた。

このやり方も含めてみていただいての「ライフラインの多い授業」という感想をいただいたのだと思っている。

 

結果はというと、一つのクラスは10人くらいの人たちが、もう一つのクラスは半分くらいの人たちが自分で考えるほうを選択した。ぞろぞろ教室から出ていってしまうのは、寂しくもあるかれど、ほとんどの人がB5用紙の課題にはしっかり取り組んでくれていたみたいだったし、そうやって教室にいなくてはならないとか円になって対話しなくてはならないとか、当たり前に課していたことを疑うきっかけにはなっている。対話は、あえて残るほうを選んだ人たちとはいえ、活発に探求が進む、というわけではないけれど、それでも40人でなかば無理やりやるよりはよい感じもある。

 

本当に、対話しなくてもいいのか

 

ただし、したくないからといってさせないなんて授業としてそれでよいのか、という批判もありうると思う。それに対話的な活動に抵抗感のある人たちとも、対話を進めるなかでその意義を実感したいという想いもある。だから、哲学対話のたびにこのやり方でいくつもりもない。

 

それでも、もう何回かこのやり方を試してみつつ、様子をみてみる価値はある。哲学対話やってもいいかなという人たちが対話に慣れてきたところで、自分で考えることを選んでいた人たちとも合流できるといいなと思っていたりもするのです。

 

 

*1:勤務校の先生たちは哲学対話への理解がないとは思わないし、好き勝手やらせてもらっている。けれど、そもそもお互いの授業には不干渉なところが多いので、話をする、聴いてもらう機会自体がないのです。