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なるべく手短に、書く。
- アンパンマンで哲学対話
- 全員問いを立てる
- 「顔を食べた人はそれで満たされるのか、罪悪感はないのか」
- 「アンパンマンはなぜ人気者なのか」「なぜアンパンなのか」
- お話との距離
- 不全感があるとして、それはだれのせい?
- 誰のせいでもなく、みんなのせいでもある
アンパンマンで哲学対話
「倫理」の授業で、「正義と公正」みたいな単元を企図していて、前時の授業では、「公正なルールってどんなルール?」みたいなテーマで、一枚のピザを正しく分ける話や、社会契約論やら機会・結果の平等やらロールズやらをつまみ食いしてみたところ。
これと同じ授業構成で前期にも別のクラスで授業をしていて、そのときは講義を受けてちょっと別のワークをして、それで問いを立ててもらっていた。でも、そんなに面白かった印象がなかったことと、東京の某先輩が最近は、講義内容と哲学対話をつなぐ「媒介教材」というアイデアを温めているのを見聞きしていたこともあり、チャレンジする。
素材はアンパンマン。
アンパンマーチを流しつつ、
アニメの原作たるこれと、
さらなる出自のこれ
を読んで、問いを立ててもらう。
全員問いを立てる
これも東京の某先輩方の実践を参考にさせてもらって、問いは全員、考えて、立ち上がりホワイトボードに書きに来るよう指示する。わちゃわちゃしながら*1順番に書くので10分はかかる。
そして、もう一度全員立ち上がって一人一票、正の字で投票する。
その結果がこんな感じ。
「顔を食べた人はそれで満たされるのか、罪悪感はないのか」
問いが決まった後、4人組で話し合ってもらい、そのあと全体でシェア。もう少し対話する。哲学対話の前に前回終わらなかった分の講義をやっていたので、対話の時間はグループ、全体合わせて20分くらい。
時間もないし、ぼくは意見を言わなかった。もう少し時間があったらよかったなあ。
学生さんどうしでも質問をしたりして、お互いの意見・発言を関連づけていってほしいんだけど、なかなかそれは難しい。挙手も難しいので、ボールを持っている人が次の人を指名する。
「アンパンマンはなぜ人気者なのか」「なぜアンパンなのか」
こちらは、時間はたっぷりあったものの、問いの多数決でてまどる。多くの学生が画像にもある下ネタっぽいものに投票し、1/5くらいの学生さんは投票しなかったので、意思が見えづらい。いろいろこっちで問いの意図とかを聴きながら、複数のもので決選投票を提案してやってみるんだけど、みんなどれもしっくりこないのか、ほとんど手が上がらない。そこで仕切り直して「今日はよい問いとはなにかを考えるから、じっくり問い決めするぞー」と意気込んでみるも、こっちの空回り感もある。
それで結局この二つに決まって、それぞれ考えたいほうに移動。
ふざけだすと楽しくなっちゃうクラスで、私はそれを強く注意しないので、なかなかぐっと考えることに向かうのは大変そう。「ボール回してみんな一つずつ意見言ってー」と言うんだけど、だれも話さないとかではなくて、ほとんどの人がごくごく当たり障りのないことをいってすっと次に回す、を繰り返す。そして沈黙、あるいはちょっとふざける、みたいな感じ。
自分は二つのグループ、両方を見ながら、「こんな観点はどう?」と提示してみるのだけども、うーん、なかなか難しかった。
お話との距離
問いを出してもらった時点でもそうだけど、アンパンマンのお話の設定とか世界観についての問いが多くなっちゃう。そこから始めても、きっと正義とか公正とか、あるいはなんでもいいけど、なにかにはたどり着くのだけど、それでもいかんせん時間はかかってしまう。そして学生さんたちは案外そういう世界観にかかわる問いを選んでくる。むずい。
アンパンマン、おもしろいし、もっとみんなと考えられたらよかったのだけど。
不全感があるとして、それはだれのせい?
話し合いとかしてもらって、学生さんが楽しくなって集中できなかったりすることはある。あるいは、通常の講義でも、賑やかなクラス、賑やかすぎるクラス、反応のないクラス、はある。でも、だからといって、授業がうまくいかない感じを、「あのクラスは学生がダメだから〜」みたいに言うのは、ほんとダメ。ダメ。
でも、じゃあ教員である自分がダメだったのか。いや、もちろん、自分はもっといい実践者になれると思うし、今日ももっとなにかできたと思う。哲学対話をする雰囲気やルールの徹底とか、ボールの使い方とか、ボールをもったときに話すこととか、話すよりも考えることなんだ、とかもっと言っていけばいいのだ。だから自分のせいだ。
でも、あの場は自分だけのものじゃない。教育の場で責任を負う側の自分がどこまで言っていいのかわからないけど、でもでも、学生と一緒に作っていく場だ。だから学生のせいでも、ある。
誰のせいでもなく、みんなのせいでもある
考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)
- 作者: 梶谷真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
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この本のなかにもある梶谷先生の下記のようなスタンスが好きだ。
何でも言っていい、自由に考えていい、対話はみんなで作っていくものだとしたのであれば、対話の成り行きは、もっとも根本的なところで参加者に委ねなければならない。
誰が参加するのか、どこでいつやるのか、どれくらい時間をかけるのかによって、結果は違ってくる。うまくいく時もいかない時もある。 コントロールできるものでもないし、すべきでもない。誰のせいでもなく、みんなのせいでもある。*2
そういう意味では、哲学対話の授業を教員としてどうデザインしようか、という発想がそもそも間違っている、ということになる。それをすればするほど、学生さんたちは主体的に考えるどころか、与えられた場で指示された通りに動くお客さんになってしまう。問いがうまく決まらなかったり、だれかがふざけだしたりしたときに、教員であるこちらがなにか言ったり、止めたり、整理したり、するのを待ってしまう。*3
そういう意味では、自分に必要なのは、この授業はみんなでやるんだよ、ということをもっとちゃんと伝えること、ということになるのかなあ。
でも、それがなあ、難しいんだよなあ。。。。。。。