毎回ルールを変えること
ありがたいことに色々なところで、哲学というものに初めて触れるような人たちと哲学対話をする、という機会がある。そこではたいていは哲学対話のルールを説明するのだけど、わたしは自分用の毎回決まったルールを持っていない。
正確にいうと、そういうものがあったほうが、そしてそれを印刷してラミネートして持ち歩いた方がラク、という感じはあるのだけど、持てない。
だからいつも直前になって、今回はどんなルールにしようかな、と焦る。
別に、一人一回発言しなくちゃいけません、とか、オナラをしたら罰ゲーム、とか、わたしが手を叩いたら10回ジャンプとか、そんな新たなルールを構想しているわけではなくて、それぞれの場の人数や年齢や目的に合わせて、ほとんど同じルールでも表現を少しずつ変えてみたりする。あとは、シンプルにやりたいときは2つや3つのルールでやることもあるし、あえて「意見が変わってもいい」や「わからなくなってもいい」を明示することもある。
ルールがブレブレなんてどうなんだろうと思わなくはないけれど、どこでだれとやるかが違うのだから変わって当然な気もする。
さて、今回、某小学校に伺うに当たって、アーダコーダの川辺さんの本を読み返していて、川辺さんのこども哲学教室でのルールの文言で、今までほとんど通り過ぎていたのだけど、改めて見ると気になるものがあった。
参考までにNPO法人こども哲学・おとな哲学アーダコーダで紹介している5つのルールを書いておきます。
ルール
- ひとが話しているときはきく
- 相手が考えているときは待つ
- 自分の思ったことを言う
- ひとの嫌がることをしない
- 何も言わなくていい*1
どれもパっとみると、哲学カフェとかでもよく見かける文言を、川辺さんのこどもたちへの目線から、すうっと入ってくる言葉づかいに変えられたものなんだ、というくらいに理解していけそうな気もする。さすが川辺さんだ。
でも、なんとなく今回見返して、「自分の思ったことを言う」ってなんだ?という気になった。ので、書く。
自分の思っていないことも人は言えるのか
自分の思ったことを言う
うんうん、って感じもするけど、頭の中に疑問が湧いてきて立ち止まってしまいそうになるルールでもある。
そりゃあ自分が言うことなんだから、自分が思ったことを言うよ!というか、思わないなら言えないよ、と思う。今そう思ったから言えたんだ(書けたんだ)。だから当たり前すぎてなぜそれがルールなのかわからない。自分が思っていないことを自分が言う、ということなどあるというのか。
いや、まあでも冷静になれば思い出すのは、「思ってもないようなことを言う」という表現がすでに私たちには意味の通るものとして通用していることだ。
それに、この文言を敢えてルールに入れようと思う気持ちはわかる。
第一に、大人も子どもも、なにかを言うとき、場の雰囲気や周りの視線をとても意識する。子どもなら、学校の先生、周りから見ている親、今微妙な関係にある友だち、などさまざまなものへの配慮などから、「思ってもないようなことを言う」のだ。
第二に、哲学カフェなどのルールでもよくある「専門用語を使わない」「自分の言葉で話す」との関係でも、わかる。問いについて考えを言うときに、「だれだれが言っていたんだけど」とか「テレビで見たんだけど」とか「デカルトによれば~」とか、が枕にくることがある。そこでも、おとなも子どもも自分が「思ってもないようなことを言う」ことがある。
哲学対話の場では、上記のような意味での「思ってもないようなことを言う」ことが(そういえばなぜだか)歓迎されない*2。
なのに、学校は特にそうだけれど、それ以外の様々な対話の場ではとても、とても「自分の思ったことを言う」ことが難しい。
中川さんのこの言葉が響く。
私は不思議な方向から学校に関わり始めた。確かに、初めから教員免許をとる気ではいたのだが、なかなか学校の教員になるという選択に前向きになれなかった。自分が経験した学校は 〈本当に考えていること〉を話せない場所だったからだ。そういう窮屈な場所を自分がつくるのだと考えると嫌になった。*3
だから、当たり前(というか、そうとしかできないよう)に思えるような「自分の思ったことを言う」がルールとして提示されるのだ。
「今の発言はあなたが本当に思ったことかな?」
だから*4多分、「自分の思ったことを言う」というルールは、瞬間瞬間で自分の思いついたことを瞬発的にすぐに言うことを奨励するようなスピーディーな対話を志向しない。
むしろ、今自分の心のなかに思いついた考えは、本当に自分が思ったことなのか、というような精査を含むような、ゆっくりとした進み方を要求するのかもしれない。
もちろん、これは対話を通してやればいいのであって、すでに話されたことについて、
今の発言はあなたが本当に思ったことかな?
聞いていく、というのがありうると思う。
この質問ばかりが飛び交うのもなんだか異様だけれど、実は私たちがなにかを発話する、ということは思ったことを言っているようで意外とそうではない、のだ。
だから、丁寧に、お互いがお互いに、「それは本当に私が/あなたが/私たちが思ったことなのか」と問いかけながら考える、という可能性がある。
...
でもこれは参加者に対して、というよりも教師やファリシテーターであるときの自分に対して課すべきルールかもしれない。
対話をしながら、自分は自分に
それはお前が本当に思ったことなのか
と問われているし、問いかけている。
この前は、自分の思ったことが言えていたかな。
パレーシア?
ブログを書きながら、関係があるのかなあと思っていたのは、こどもの哲学を論じるときにフーコーの「パレーシア」についての議論を参照する人たちのこと。
まだちょっとうまく関連づけて論じることはできないのだけれど、
実際は「自分の思ったことを言う」というルールを設けたくらいで、自分の思ったことは言えるようにならないだろう。
そこで中川さんは、それでもなお「考えたことをや感じたことを率直に語るのが難しい」「学校という場」で「あえて<率直に語る>ことがそういった様々な問題を乗り越える力を持っているのではないか」という立場に立つ。*5
これは安心した場でなければできないし、かつ勇気がいること。
学校のなかに学校のそとをつくる
学校でやる哲学対話のスローガンとして私が一番気に入っているものの一つをさらに思い出す。
このこともまたどこかで考えましょう。
*1:
自信をもてる子が育つ こども哲学 - “考える力"を自然に引き出す - pp. 14-15.
*2:「自分の思ったことを言う」ルールは、「自分の思ったこと(だけ)を言う」のであって、「自分が思ってもないようなことは決して言ってはならない」ということですか?論理学わかんない。
*3:
www.jstage.jst.go.jpp. 15
*4:どう「だから」なんだ
*5:上掲, p. 16.