4月最終週:締め切りを守れました
今週は某書類の締め切りが半ばにありましたが、なんとかできました。
某書類とお別れ。さようなら!
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年4月25日
今週も哲学対話
あとはコツコツ授業をしつつ。哲学対話も、学生さんたちに問いを立ててもらってやってみる。
某先生、先輩方によるこども哲学本のなかから一節を読んで、そこから問いを出す。*1
まだまだ、深く深く考えられてすごい!というよりも、みんなで考えるのって難しい、ってことを実感してもらう部分も大きいけど、そういうものだし、実はそれしかできない、くらいに思って続けてみよう。
「子どもの自由を大人が決めるものなのか」
この問いは、あるクラスで出たもの。
最初は私はよく意味がわかんなかったのだけれど、子どもが自由にできる範囲を大人たちの裁量で決めてしまってよいのか、といういわば「籠の中の鳥」的な話だった。
グループに分けたりして話をしてもらうと、かなりの学生が(自分たちのことをゆるやかに子どもの側に置きつつ、)
「大人が決めるのはしょうがない」
「子どもはまだ判断力がないから、そういうものだ」
という意見が多くて、もどかしかったので、「じゃあ担任の先生に席替えとか、制服とか、髪の色とか、コントロールされるのはいいわけ?」と聞いてみると、それは嫌だと口々に。
学校の先生をやってい側の人間が、先生たちによって日々「指導」を受けている学生たちに向かって、「大人にいろいろ指導されておかしいと思わないのかよ!」と言うのは、なんとも微妙で、なんとも無責任な言動かもしれないのだけれど、あえてやってみるのでした。
教室で、授業のなかで、先生でいることにいかに守られているか
上の話とゆるやかにつながるのだけれど、授業時間になって教室に行って教卓を挟んで学生の前に立てば、なんだかんだいってもまあ話は聞いてくれるし、指示をすれば(もちろん程度の差はあれ)ついてきてくれる。そういう安心感に守られて、教室でははっきりと大きな声が出せていると思う。聞いてくれるのをいいことについついいい気分で話してしまう。もしかしたら自分は(下手くそなりにも)授業を進めるのが上手なのかな、と思ってしまったりもする。
でも、それは教室で、授業のなかで、教卓を挟んで、授業をちゃんと受けないと成績を下げるという圧倒的な力をもった「先生」としているからこそのことなのであって、自分の力でもなんでもないのだ、と思う。
それを痛感するのは、授業外の別の場面で授業では会わない学年の学生と接して指導する必要のある場面。授業中なら、あんなに話せたのに、教室外で面と向かってみると、声が喉をつっかえるし、(教室以上に)なよなよ、してしまう。
ああ、教室という箱の力よ
いや、そこまでわかっているなら、教室外の指導の方をもっとちゃんとしなくてはならないのだけど。ごめんなさい、ごめんなさい。
もちろん、学生指導という観点なら、教室でやれているように外でもちゃんと「先生」しなくてはならないというわけだけど、どうしても逆のことも考えてしまう。
教室外でなよなよしてしまうなら、むしろ教室という箱で自分が四十人の学生に対して偉そうにしゃべっている、そちらの方が変なのだと。このギャップは、教室外ももっと「先生」らしくする、ことでも解消できるけれど、その逆で、教室での授業をもっと、なよなよするというわけではないけれど、なんというか、ふだんどおりの声でしゃべることでも解消できるのではないか、とも思ってしまう。
教室というのは「大人が子どもの自由を制限する」大変象徴的なケースなのだから、そこに自分自身が疑問をもつのなら、行うべきは後者の解消法な気もするのだ。*2
*1:第二巻本も出ていますよ!
*2:いや、まあしかし、そもそもそんなギャップ埋めなくてもよい、という風にも言えるのかもしれない。授業では怖い先生(あるいは話がつまらない先生)でも、廊下で会って話すととてもよい人(面白い人)だ、みたいなのはよくある話っぽい。