授業でできることと授業外でできることー放課後対話の会をやる
放課後の対話の会のこと
今年の授業の最終日である25日の放課後、主に授業で担当している学生さんたちにお声掛けして、ゆるやかな対話の会を開催しました。
【学内向け】ごめんなさい。下記ツイートについてですが、18日(火)に会議があるようでした。25日(火、月曜時間割)の放課後にさらっとやるくらいに変えたいと思っています。私も18時ごろには帰ります。よろしくお願いします。 https://t.co/7S1My1Dgqs
— おがぢ (@ogadi_ogadi) December 12, 2018
こちら。心配は杞憂に終わり、5名の学生さんと1名のゲストで無事終了しました。楽しかったー。お越しいただいた方はもちろん、気にしてくれていた方もありがとうございます。次は恋愛をテーマにしたい、との声がありました。やりましょう、やりましょうとも。 pic.twitter.com/dB6dHY8RuF
— おがぢ (@ogadi_ogadi) December 25, 2018
特に予約もなにもないので、興味ありますと声をかけてくれていた数名の方が忘れずに来てくれることを願って、どきどきしていたのだけれど、ふたをあければちょうどよい人数、性別も学年も異なっている人が集まってくれて、とてもとてもよかった。
かっちりと哲学対話を始めるんじゃなくて、お菓子を食べながらぬるぬるっとどこからともなく話し始めてみるも、みんな思うことや気になることを話してくれてうれしい。
問いがつながっていく
ぬるぬるっと話しながらも私のほうで、少しずつ問っぽいものをくださいとお願いする。それがみんなも意識してなのかどうかわからないけど、前に発言した人の問いとゆるやかにつながるようなものになっていくのが楽しい。
読んだ本の内容を忘れる話から、物事への集中力の話になり、一度推薦入試の想い出に話が飛んだかと思いつつ、「なぜ飽きるのか」という問いに行きつく感じ。最初から「なぜ飽きるのか」という問いが設定されて始まる場とは、全く違う景色が広がっていた。
そして、そのあともいろんなことを話しながら、ときにうーんと沈黙も交えながら、結局予定時間を越えて2時間くらいみなさんと一緒に過ごす。
うれしかったのは最後のほうに恋愛の話題(二人を同時に愛せるか、など集中や飽きの問題として)になっていって、ある参加者から自然と、
次は、恋愛をテーマにしたいです。
という言葉があったこと。
おお、次、があったのか!次、をやってもいいということですね!と、一人でわなわなしてしまった。こちらからお声掛けをして仕掛けたもので、定期開催の有無については言及していなかったのだけど、それでも「次」という言葉が出てきたことで、ああやってよかったなあと素直に思えたのでした。
少しずつ
同様の回は今年も前期に二、三回ほど(ほとんど集まらなかったけど)。
昨年も非常勤先の学校で二回ほど、やってみました。
放課後の哲学カフェには予想を超える人が集まってくれました。問いは「人はなぜ平等に固執するのか」でしたが、授業でやったのとは全く違う展開になりました。対話といく、議論を嚙みあわせるのはそれでも難しいし、自分がもっと整理する役を買ってでなきゃいけないのかなとも思います。 #高専てつがく pic.twitter.com/eqvW954Hux
— おがぢ (@ogadi_ogadi) December 20, 2017
精神界はあるか、から始まって、精神科医に行って、人工知能の話になって、人間を超えるとはなにか、の話になりました。試験前に来ていただいた皆さんありがとう。2月もやりたいですか。 #高専てつがく pic.twitter.com/cBrC4i9KMY
— おがぢ (@ogadi_ogadi) January 29, 2018
日時決めたり、告知したり、時間を割いたり、面倒な部分もあるけれど、なにか具体的に用意しなきゃいけないものはないので、そこは大変ラク。その割に、人が集まってその場で起きることはとても面白いので、臆せずもっとやっていきたいと思う。
授業でできることと授業外でできること
今回集まってくれた人たちは、授業中に対話でたくさん話すという方たちばかりではない。それでも、少人数で、放課後なら、行ってみたい、話してみよう、考えたい、と思ってくれていたことはとてもうれしいことだ。
授業の外でできることはある。
でも、もちろん、それだけになってしまってはいけなくて、やっぱりわざわざ放課後にまで出てきてくれるほど関心のない人たちのほうが多いわけで、授業で届けなくちゃいけないことのほうが多いのだ。なので、ちゃんと授業がんばります。
それでも、授業外でゆっくり学生と話す機会をもてる、というのは自分の方向性が間違っていないことを確認させてもらえるような、大変貴重な場であることもまた確かなのだ。