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今日の哲学対話はどうすればよかったんだろう

ブログの総アクセス数が12000を超えたぞー。きっとみんなのブログはもっとすごいスピードでアクセスされているのかもしれないけど、こつこつ見てくれている方がいるなら、うれしいなあ。

 

なるべく手短に、書く。

アンパンマンで哲学対話

「倫理」の授業で、「正義と公正」みたいな単元を企図していて、前時の授業では、「公正なルールってどんなルール?」みたいなテーマで、一枚のピザを正しく分ける話や、社会契約論やら機会・結果の平等やらロールズやらをつまみ食いしてみたところ。

これと同じ授業構成で前期にも別のクラスで授業をしていて、そのときは講義を受けてちょっと別のワークをして、それで問いを立ててもらっていた。でも、そんなに面白かった印象がなかったことと、東京の某先輩が最近は、講義内容と哲学対話をつなぐ「媒介教材」というアイデアを温めているのを見聞きしていたこともあり、チャレンジする。

素材はアンパンマン

アンパンマーチを流しつつ、

アニメの原作たるこれと、 

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

 

さらなる出自のこれ 

十ニの真珠 (ふしぎな絵本)

十ニの真珠 (ふしぎな絵本)

 

を読んで、問いを立ててもらう。

 

全員問いを立てる 

これも東京の某先輩方の実践を参考にさせてもらって、問いは全員、考えて、立ち上がりホワイトボードに書きに来るよう指示する。わちゃわちゃしながら*1順番に書くので10分はかかる。

そして、もう一度全員立ち上がって一人一票、正の字で投票する。

その結果がこんな感じ。

 

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問いは「顔を食べた人はそれで満たされるのか、罪悪感はないのか」に。

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すったもんだありつつ、「アンパンマンはなぜ人気者なのか」「なぜアンパンなのか」に

 

「顔を食べた人はそれで満たされるのか、罪悪感はないのか」

問いが決まった後、4人組で話し合ってもらい、そのあと全体でシェア。もう少し対話する。哲学対話の前に前回終わらなかった分の講義をやっていたので、対話の時間はグループ、全体合わせて20分くらい。

時間もないし、ぼくは意見を言わなかった。もう少し時間があったらよかったなあ。

学生さんどうしでも質問をしたりして、お互いの意見・発言を関連づけていってほしいんだけど、なかなかそれは難しい。挙手も難しいので、ボールを持っている人が次の人を指名する。

 

アンパンマンはなぜ人気者なのか」「なぜアンパンなのか」

こちらは、時間はたっぷりあったものの、問いの多数決でてまどる。多くの学生が画像にもある下ネタっぽいものに投票し、1/5くらいの学生さんは投票しなかったので、意思が見えづらい。いろいろこっちで問いの意図とかを聴きながら、複数のもので決選投票を提案してやってみるんだけど、みんなどれもしっくりこないのか、ほとんど手が上がらない。そこで仕切り直して「今日はよい問いとはなにかを考えるから、じっくり問い決めするぞー」と意気込んでみるも、こっちの空回り感もある。

それで結局この二つに決まって、それぞれ考えたいほうに移動。

ふざけだすと楽しくなっちゃうクラスで、私はそれを強く注意しないので、なかなかぐっと考えることに向かうのは大変そう。「ボール回してみんな一つずつ意見言ってー」と言うんだけど、だれも話さないとかではなくて、ほとんどの人がごくごく当たり障りのないことをいってすっと次に回す、を繰り返す。そして沈黙、あるいはちょっとふざける、みたいな感じ。

自分は二つのグループ、両方を見ながら、「こんな観点はどう?」と提示してみるのだけども、うーん、なかなか難しかった。

 

お話との距離

問いを出してもらった時点でもそうだけど、アンパンマンのお話の設定とか世界観についての問いが多くなっちゃう。そこから始めても、きっと正義とか公正とか、あるいはなんでもいいけど、なにかにはたどり着くのだけど、それでもいかんせん時間はかかってしまう。そして学生さんたちは案外そういう世界観にかかわる問いを選んでくる。むずい。

 

アンパンマン、おもしろいし、もっとみんなと考えられたらよかったのだけど。

 

不全感があるとして、それはだれのせい?

話し合いとかしてもらって、学生さんが楽しくなって集中できなかったりすることはある。あるいは、通常の講義でも、賑やかなクラス、賑やかすぎるクラス、反応のないクラス、はある。でも、だからといって、授業がうまくいかない感じを、「あのクラスは学生がダメだから〜」みたいに言うのは、ほんとダメ。ダメ。

 

でも、じゃあ教員である自分がダメだったのか。いや、もちろん、自分はもっといい実践者になれると思うし、今日ももっとなにかできたと思う。哲学対話をする雰囲気やルールの徹底とか、ボールの使い方とか、ボールをもったときに話すこととか、話すよりも考えることなんだ、とかもっと言っていけばいいのだ。だから自分のせいだ。

 

でも、あの場は自分だけのものじゃない。教育の場で責任を負う側の自分がどこまで言っていいのかわからないけど、でもでも、学生と一緒に作っていく場だ。だから学生のせいでも、ある。

 

誰のせいでもなく、みんなのせいでもある

 この本のなかにもある梶谷先生の下記のようなスタンスが好きだ。

何でも言っていい、自由に考えていい、対話はみんなで作っていくものだとしたのであれば、対話の成り行きは、もっとも根本的なところで参加者に委ねなければならない。

誰が参加するのか、どこでいつやるのか、どれくらい時間をかけるのかによって、結果は違ってくる。うまくいく時もいかない時もある。 コントロールできるものでもないし、すべきでもない。誰のせいでもなく、みんなのせいでもある。*2

 そういう意味では、哲学対話の授業を教員としてどうデザインしようか、という発想がそもそも間違っている、ということになる。それをすればするほど、学生さんたちは主体的に考えるどころか、与えられた場で指示された通りに動くお客さんになってしまう。問いがうまく決まらなかったり、だれかがふざけだしたりしたときに、教員であるこちらがなにか言ったり、止めたり、整理したり、するのを待ってしまう。*3

 

そういう意味では、自分に必要なのは、この授業はみんなでやるんだよ、ということをもっとちゃんと伝えること、ということになるのかなあ。

 

 

でも、それがなあ、難しいんだよなあ。。。。。。。

 

 

*1:わちゃわちゃしてたら私のタブレットPCの電源コードに学生さんの足がひっかかり、落ちた!液晶が割れてしまう。申し訳ない。。

*2:pp. 245-246

*3:哲学対話で「待つ」ことは大事だけど、この待つは、違う。

授業再開ー授業事例集ってどうやって使うんだ?

年末年始もちょこちょことブログを読んでくださっている方がいたようでうれしいかぎりです。今年もよろしくお願いします。

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お正月、東京での初詣。
本日より授業再開

新年ではあっても新学期ではないので、粛々と授業の日。

久しぶりだからかなんなのか、パソコンがうまく使えなかったりしてご迷惑をおかけする。90分授業なのですが、べたべたとしゃべる。

 

教職員は朝、業務のない人だけが某理事長(ビデオ会議)および校長からの年始のあいさつを。

理事長のあいさつと言えば、こんなニュースもあり、今日の授業(たまたま「労働」がテーマ)で早速紹介してみたり。

 

 

そうだ!授業事例集にヒントを!

年末年始に時間があるのだからやればよかったのに、授業準備のストックがほとんどない。今日あらためて、今週来週なにしようかなと考える。

でも、今年の目標はぐだぐだと時間をかけないことなので、気づく。

そうだ、最近買った授業事例集にヒントをもらおう!

 

具体的にはこの二冊。

話し合いでつくる中・高「公民」の授業

話し合いでつくる中・高「公民」の授業

 

  ↑

単なる「対話」や「話し合い」ではなく、「交渉(決定・合意のための話し合い)」をキーワードに、政治、法、経済、国際政治・経済、情報、倫理と高校「公民」のテーマを網羅しながら30近くの実践例が並んでいる。すごい。

「交渉」というだけあって、具体的なCASEがどの実践においても最初に来るのがよい。そこをネタにする、というだけでも楽しそう。

 

新科目「公共」 「公共の扉」をひらく授業事例集

新科目「公共」 「公共の扉」をひらく授業事例集

 

新学習指導要領で設置される新科目「公共」の教科書づくりを見据えて、先取りして作られた事例集。哲学対話な人もたくさん参加している。すごい。えらい。

ワークシートまでつけてくれている。

 

どちらも知っている先生たちがたくさん関わっていて、自分が今授業で取り組んでいるサイレントダイアローグや哲学対話の実践もある。自分が今求めているようなテーマ(ジェンダーとか、公正とか。。)もある。とても丁寧なので、丸々そのまま授業に採用しなくても、たくさんのアイデアをもらえそうでもある。

なのに、読んでいるうちに少しずつ思考が止まる感じもある。なんでだろう。

 

あれ?授業事例集ってどうやって使うんだっけ?

今日の自分の体調とか、コンディションにも原因がある気がするのだけれど、

でも、よく他の先生たちがいうような

 授業実践例って、すごいんだけど、自分が使うって感じにはならないんだよねー

 的な意味がわかる気もしてきた。

当初は、「それは、自分のやりたいこととかけ離れた<すばらしい>実践ばっかだからでしょ。その乖離が原因だよ、そうそう」なんて感じで思っていたのだけれど、いざ自分になってみるとそうとも言えない気がする。先の二冊の本は、自分の今の授業よりもはるかに面白いし、自分がやりたいような授業を実現していると思えるからだ。

それなのに、まだ授業実践例は、なんだか遠い。

自分のなかの抵抗感は「時間がない」

そしてパッと浮かぶ自分のなかの抵抗感は、

いやー、いい実践だけど、今の授業のスケジュールだとこの事例どおりにやってる時間はないなあー。難しいなー。いやー。他に教えていこともあるしなー。いやー。

 みたいなものだったりする。

なんと。哲学対話とかさんざんやっているくせに、である。

これじゃあ、アクティブ・ラーニングやりましょう!といったときに返ってくる「それじゃあ既存の教科書の知識を十分に教える時間がなくなっちゃうよ!」という反論をする人たちと同じではないか。

愕然とする。

 

とはいえ、少し書いたみたいにアイデアをもらったり、ときには勇気を出して(?)ほとんどすべてをお借りしてくる回があってもよいと思ってます。やってみるつもりはある。

 

哲学対話のマニュアル本や事例本はどうやって読んでもらえばいいんだろう?

じゃあ、と翻って、自分の分野でも、哲学対話のマニュアル本や実践集やハンドブック的なものがあったほうがよい、という話題があり、実際にそれに近い本もある。

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

 

 これはその代表だ。

 

私が抱いたのと同じような感じを、哲学対話についても抱かれているかもしれないなあと思う。いや、まず抱かれているに違いないでしょう。

じゃあ、どうしたらいいんだろうか。

 

続きません。一度終わり。

 

授業でできることと授業外でできることー放課後対話の会をやる

放課後の対話の会のこと

今年の授業の最終日である25日の放課後、主に授業で担当している学生さんたちにお声掛けして、ゆるやかな対話の会を開催しました。

特に予約もなにもないので、興味ありますと声をかけてくれていた数名の方が忘れずに来てくれることを願って、どきどきしていたのだけれど、ふたをあければちょうどよい人数、性別も学年も異なっている人が集まってくれて、とてもとてもよかった。

かっちりと哲学対話を始めるんじゃなくて、お菓子を食べながらぬるぬるっとどこからともなく話し始めてみるも、みんな思うことや気になることを話してくれてうれしい。

 

問いがつながっていく

ぬるぬるっと話しながらも私のほうで、少しずつ問っぽいものをくださいとお願いする。それがみんなも意識してなのかどうかわからないけど、前に発言した人の問いとゆるやかにつながるようなものになっていくのが楽しい。

読んだ本の内容を忘れる話から、物事への集中力の話になり、一度推薦入試の想い出に話が飛んだかと思いつつ、「なぜ飽きるのか」という問いに行きつく感じ。最初から「なぜ飽きるのか」という問いが設定されて始まる場とは、全く違う景色が広がっていた。

そして、そのあともいろんなことを話しながら、ときにうーんと沈黙も交えながら、結局予定時間を越えて2時間くらいみなさんと一緒に過ごす。

うれしかったのは最後のほうに恋愛の話題(二人を同時に愛せるか、など集中や飽きの問題として)になっていって、ある参加者から自然と、

次は、恋愛をテーマにしたいです。

という言葉があったこと。

おお、次、があったのか!次、をやってもいいということですね!と、一人でわなわなしてしまった。こちらからお声掛けをして仕掛けたもので、定期開催の有無については言及していなかったのだけど、それでも「次」という言葉が出てきたことで、ああやってよかったなあと素直に思えたのでした。

 

少しずつ

同様の回は今年も前期に二、三回ほど(ほとんど集まらなかったけど)。 

 昨年も非常勤先の学校で二回ほど、やってみました。

 

 

日時決めたり、告知したり、時間を割いたり、面倒な部分もあるけれど、なにか具体的に用意しなきゃいけないものはないので、そこは大変ラク。その割に、人が集まってその場で起きることはとても面白いので、臆せずもっとやっていきたいと思う。

 

授業でできることと授業外でできること

今回集まってくれた人たちは、授業中に対話でたくさん話すという方たちばかりではない。それでも、少人数で、放課後なら、行ってみたい、話してみよう、考えたい、と思ってくれていたことはとてもうれしいことだ。

授業の外でできることはある。

でも、もちろん、それだけになってしまってはいけなくて、やっぱりわざわざ放課後にまで出てきてくれるほど関心のない人たちのほうが多いわけで、授業で届けなくちゃいけないことのほうが多いのだ。なので、ちゃんと授業がんばります。

それでも、授業外でゆっくり学生と話す機会をもてる、というのは自分の方向性が間違っていないことを確認させてもらえるような、大変貴重な場であることもまた確かなのだ。