高専てつがくは発狂する

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

複雑でよくわからん世界で生きる

年があけてからもう10日近いぞ、まずいまずい。

今年はなんとかがんばりたい。

 

年末はこんな感じで過ごしていました。

 4月から先生をやってきたはずなのに、「通勤」というより「通学」気分になることもしばしばある。でもそれも悪くないのかなと思ったり、思わなかったり。

 

 高校3年生と話す

高校3年生は大学入試の関係で12月で授業は一度終わった。最後の授業近くなって何度か話していた話がある。どう伝わったかはよくわからないけれど、最近私が考えていることにも、授業で哲学対話をやる意味にも、つながっていると思うのでメモ。

 

大学に行って専門性をもって勉強したり、研究をしたりすることって、どういうことか

もちろん、いろんな切り口はあるだろうけれど、哲学対話の意義とも絡めて言えば、世界は自分たちが思っている以上に複雑なんだと気づくこと、は一つあるのかなと思っている。

高校までの勉強の多くは、今まで自分が知らなかったことについての知識を得ていくこと、わからなかったことがわかるようになること、が、理系文系かかわらず大半だと思う。

大学も教養科目の勉強なんかはそうだけれど、自分の興味のあるものについて知りたい!と思って究めんとしていくと、むしろそこからは「わからなさ」の連続なんじゃなかろうか。関心のあることを掘り下げて掘り下げていくと、実はそこで行き着くのは、世界ってこんなに複雑で、わからないことに満ちているのか!という体験なのではなかろうか。

なかろうか。

 

わかっていたつもりのことが実はよくわかっていなかったのだと気づくこと。*1

 

世界は思ったより複雑だ

勉強をたくさん進めていくと、自分の専門の分野について、「わかる」ようになることがいかに難しいかがわかる。この経験は、きっと他の分野や世界で起きていることにも類推できるのではなかろうか。

 

世界は複雑だ*2。そう簡単にわかるようにはならないのだ。だから、難解な事象に対して安易に答えを与えようとする言説や余りにもシンプルすぎる説明は遠ざけなくちゃいけない*3。少なくとも疑ってかからなくちゃいけない。わかったつもりはおそろしい。

 

もちろん、放っておけば私たちは、難しいことを考えずにテキパキと判断をしながら生きていく。そういう意味では、複雑な世界をシンプルに整理して、生きていくことはきっとできる。でも、きっと時に、どうしても考えざるをえない悩みや問題に出会うこともあると思う。だって世界は複雑でよくわからんものだから。

 

だから、実は大学に行ったり、あるいは他の場所でも、好きなこと、関心のあることを突き詰めていった結果、身につけられるようになるものは、(その分野の専門性の他に)、知的な謙虚さ、ではないか。

偉ぶって様々なことに答えを与えていったら、シンプルな理解を示すことではなくて、世界は思ったよりもはるかに複雑でそう簡単には私たちには理解できないものなんだという態度で、周りに起きていることに向き合うこと、そんな態度。

自分の理解していることもまた複雑な世界を前にしては間違っている可能性のある、よくわからんものなのだという思って生きる態度。高校とは違う勉強のステージで、そういう態度につながる体験に出会ってもらえたら、とても嬉しいなと思うのです。

 

ちなみに、ここまでの話は、哲学をすることとか、ソクラテス無知の知とか、そのあたりへの私の理解の一つの現れであると思う。

 

でもお正月に起きた「無知」をめぐるこういう問題をどう考えたらよいかはわからない。

 

閑話休題

私は棚田が好きです。棚田サポーターになりたい。

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東後畑棚田の農業 ©うえのゆり クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)*1

もっと生徒を信頼しなくてはいけなかったという反省

 

こういう話を、まじめな最後のメッセージとして話したつもり。思ったよりしっかり聞いてくれていて、うれしいコメントをくれる生徒が複数いた。

 

これは生徒たちにも伝えたことなのだけれど、私の反省は、もっと生徒を信じて自分の伝えたいことを話すことだったかもしれないなあと思う*4

 

どのクラスの人たちも、「倫理や現社を受験と紐づけて考える人しかいないだろう。あつまり、センターで使う人はその情報だけを求めているし、そうでない人はなるべく楽に過ごすことだけを考えているだろう」と思っていた。なので、授業冒頭の導入も最初のころは、授業内容と直接関係のない雑談でいかにウケをとるか、みたいな、授業者にとっては逃げのようなことを考えることに実はかなりの労力を割いていた気がする。

だけれど、それははっきりとした誤算で、授業の後半になってから、授業内容や私が哲学や倫理について日々考えていることを話していて、むしろそういう話題でこそ、真剣に話を聞きながら考えてくれる人たちがどのクラスにいることにようやく気づく。そういう意味では当初から、もっと授業内容を洗練させ、哲学トークを一緒にするなかで勝負すべきだったのだ。
  

今回のブログは、そんな高3生の皆さんの目にいずれどこかで触れたらいいなと思い書き留めました。なにはともあれ、もう今週末がセンター試験。大学選びだけで人生が決まるなんて、ちっとも思わないけれど、目の前の試験に今は一生懸命取り組みましょう*5

 

良い春が迎えられますように。応援しています。

*1:もちろん、広すぎて扱えないものではなくて、適切な範囲に問いを定めて、しっかりと研究方法を決めて、それに沿って丁寧に論理を組めば、その範囲で「わかる」ことはある。学問とはそうやって少しずつ前に進んでいくものだ。多分。

*2:これを「世界は複雑だ仮説」と呼びます。

*3:少し話は違うけれど、シングルストーリーの危険性を話す、チママンダ・アディーチェの話は良かった。

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*4:いや、でも最近、自分の伝えたいことを伝えるという授業をやめて、なるべく自分は後ろに退きたいという立場の先生の存在も知り、悩んでいる。

*5:どうか倫政で足を引っ張りませんように!