窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

初めて哲学対話をやった先生たちは何を感じるのか

体験授業とか教員研修とか

大変僭越ながら、所属NPO経由や東京の先生経由で、哲学対話についての体験授業をしたり、教員のみなさまにお話をさせていただく機会をいただくことがあります。

 

 

先日、某高校で体験授業ということで、先生方と生徒さんたちに、同時に哲学対話を体験していただきました。高校生20人+教員2,3名で1グループ。あらかじめ用意した問いの候補から、一つに絞り、コミュニティボールを見よう見まねで使って、話してみるというチャレンジ。(複数グループが同時展開だったので)大変残念ながら私は外から観察。

 

その後ワークショップっぽいかたちで、感想を共有したりするのをメインにした教員研修。

 

そこで出たご質問やご感想を思い出せる限り、挙げてみようかなと思います。

なので、文言自体は私がアレンジしています。

 

哲学対話を初めて生徒さんたちと体験した先生方の率直な反応が現れていて、とても貴重なものな気がするからです。どれも至極まっとうな、反応だ、と思いました。

どの反応もとても大切なものばかりで、「わかる~~!!私もよくわかりません!!」って感じです。本当はいくらでも語り合えるのだけれど、一言ずつコメントをつけます。

 
哲学対話を体験したばかりの先生方からの反応集 

対話中、沈黙が起きると、どうしても自分自身がしゃべってしまう。教師が待てないなと感じました。

私も待てません。でも、教師が自分事として本気で考えている姿を見せるのならば、しゃべること自体を自制しすぎる必要はないのではないでしょうか。

 

  

ボールを使うと、ボールを投げ合う人たちがいるのだけれどそれでいいのでしょうか。

ある程度ルールを定めておくべきかもしれません。でも、ルールでがんじがらめの対話ある程度、気が済むまで見守ることもあります。

 

 

女子生徒はマスクをしたまま話す人がいます。外させるべきなのか、悩みました。

超学校っぽくて、生々しくて、些細にみえて、実は大切なお悩み!声が聞こえづらい人の発言のときはチャンスな気がしています。「もう少し声が聞こえやすいように円を小さくしよう」とか言って、みんなが身を乗り出して聞き出すきっかけになる、とか。

 

 

哲学対話は学校でのどういう場面で使っていけるものでしょうか。

先生方の学校と生徒さんたちの状況や願いに合わせて、ぜひ自在に導入してください!

あまり固定的な役割を求めすぎないほうが、楽しいとは思います!

 

 

対話には参加していない生徒でも、最後のふりかえりでは楽しかったと手を挙げていたことが意外でした。

意外ですよね。でもあるあるでもあります。そもそも参加するってどういうことでしょうか。発言していないことと参加していないことは同じではないですよね? 

 

 

今回は生徒は20人でしたが、適切な人数はありますか。

 そりゃあ10人くらいの方が話しやすいとは思います。でも、授業でやるうえでは、現実的ではないので、最近はあまりそういうことは考えなくなりました。

 

 

時間が来たら終わる、以外に対話の終わり方はありますか。

時間内に、答えが出て、終わってしまう、ということもありますか。

 対話の最後に、「新しい疑問やよくわからなかったことを教えてください」と何人かに話してもらう、とかでしょうか。時間内には、終わらないはずなので、終わりそうになったら、あえて反論したり、問いを展開させたり、できたらいいですね。

 

 

対話のなかで、問いが変わっていくことがあるように思いますが、それは許容してよいのでしょうか。

もともとの問いは、たいていはその場でぱっと出された不完全なものなので、問いの前提への問い直しが起きたり、その場の関心に応じて問いがスライドしていくのは歓迎すべきことだと思います。ただし、まじめな生徒さんにありがちですが、問いからずれることを警戒したり、イライラする人もいます。あるいは、問いがずれることで置いていかれてしまう人もいるかもしれません。話がずれていきそうなときは、今なにが話されているかについて、確認をして、置いていかれている人がいないかは確認したいです。

 

 

どうしてもその場にいたくない、話したくない、という生徒に対してはどういった対応をすべきでしょうか。

 この質問が一番答えづらいなと思いました。たくさん考えなくてはいけないことがあるけれど、一つだけ。なんで、他の授業については、あまりこういう質問が出ないのに、哲学対話のときにはこういう質問が来るのか、気になります。数学の教室にも、そう思う人がいるかもしれません。体育とかも。

 

初めてということもあってか、近くに座っている仲良しの子どうしで、相談してから話をしている様子を見かけました。その人1人の意見になっていないと思うのですが、それはよいのでしょうか。

 友だちとのおしゃべり一切禁止!とかを最初の段階から言われて、安心して考えられるような気がしないので、いいのではないでしょうか。もちろん、長い目では「ほかのだれかと相談した意見ではなくて、あなたが考えていることが知りたいんだよ」というメッセージは発し続けていきたいですが、同時に「そりゃそうだよねえ、答えがよくわからない問いについて意見を求められても、緊張や不安があるよね。周りと相談したくなるよね」って思います。ふつうの反応なのではないでしょうか。

 

 

哲学対話の成果はどうやって捉えればよいでしょうか。

 大人や偉い人たちを向いて、それっぽく語ることもできるでしょうが、それよりも、何回も何回も対話を重ねるなかで、先生自身が進行のことなどを気にせずに、一人の参加者として考えることに集中できるような空間になったとしたら、それは大きな成果とは言えませんか。

 

 

こども哲学、と指すときのこどもとはどういう幅を持ちますか。小学生と高校生では問題関心も周囲とのコミュニケーションのとりかたも違うように思いますが。。

 全然違うところがあると思います。でもあえて幅をもたせた「こども」という言い方も、悪くはないと思います。それに、みんな気になっていること、疑問に思っていることがあるはず。それを話そう、考えよう、というコンセプトは一緒です。

 

 

 

 

50分の研修で、これだけの質問や感想のやりとりができるなんて、すごい。

 

哲学の先生であることへの様々な反応のこと

ぼちぼち年度末...

 

今年度はもう少し続くけれど、授業や試験など私が関わる学生関係のことはひと段落したので、ふりかえりもしていきたい時期。

  

 

アンケートや大福帳を見ながら、思うのは、まだ一年でしかないけれど、哲学(対話)の先生であろうとしたことの効果*1というか、見えてきたことがあるので、いくつか取り上げてみる。

 

 

哲学の先生はロンリ的に話す?

匿名アンケートの「直すべき点」のほうにこういうコメントがありました。

先生がロンリ的に発言するので正しいがこわい。(たまにおもしろい)また、正しいことだと思って(知って)いるので、(ほんの)ちょっとイラつく

この学生さんが私のどういう発言をロンリ的と思われたのかもわからないし、他の先生はロンリ的には話さないのか、という疑問もあるけれど、結構印象深いコメント。

私の解釈では、他の先生の授業や、学生同士のおしゃべりではあえて踏み込まないような話題にまで、時々は踏み込んで、事実を指摘する、みたいなことなのかな、と。

たとえば、ジェンダーをとりあげた授業では、大変ドキドキしながら、ほぼ男性、女性一名の比率のクラスで、男性陣に向かっていろいろな話をした記憶がある。そういうことかなあ。

いずれにせよ、他の先生とは違う特徴として、↑のようなことを受け止めてくれるのは、哲学の先生としてはよいことな気がしている。

でも直すべきところなので、それはそれで検討しなくてはいけないのだけれど。。

 

哲学の先生の試験はめんどくさい?

試験や評価については、どの先生にとっても課題だと思うのだけれど、自分も例にもれず悩んでいます。そんなに厳しい評価にはしない、ということを決めているから、大きなクレームはほぼなかったけれど、それでもアンケ―トには、 試験についての様々なご批判が並ぶ。もちろんそのなかには、もっとこうだったら勉強しやすいのに、という学生の側の要望もあるのだけれど、それでも、気にはなる。

もちろん、その逆で、「考えながら解く問題で好きです」というごくわずかな肯定的なコメントもあり、励まされもします。

哲学の先生の試験にふさわしいのはどんな試験なんだろう。

哲学の先生は成績を人質にして授業するんだろうか。

 

哲学の先生はつらそう?

自由に哲学対話のテーマを決めるのはやめたほうがよい。学生も適当だったし、先生もつらそうだった

哲学の先生は教室でつらそうにする、というのはいろいろ棚にあげて、一周廻れば、悪くない気もしてくる。

授業の自由度を高めたいと思っているけれど、それはみんなで安心して考えるためのことのつもりで、でも学生さんたちからしたら適当にふるまえる空間にもなってしまう。別に適当が悪いとも思わないけれど、やはり不快な適当はある。それでも、こちらがコントロールしよう、しようと思うからつらいのかもしれない。

 

倫理が嫌い?

僕は倫理が嫌いですとのコメントもありました。みんなに授業科目を好きになってなんてもらえない、当然です。でもその理由が興味深い。

話し合っても答えが出るわけではないし、違う問いも浮かんでくるから。終わった後になんだかモヤモヤします

 ああ、私が授業でやりたいことがこの方にはまっとうに伝わっている、でも、私が伝えかったそのことを、この方はネガティブに捉えている。

 

「モヤモヤを感じられるなら、なんらか楽しい体験なはずだ」という暗黙の前提がこちらにあることに気づかされました。

でもこれはだいぶ根本問題で、みんなで考えその結果モヤモヤしたり、新しい問いに行きつくことは、わりと楽しい学びの経験なはずだ、という強めの信念があるから、授業でそういう活動を仕掛けられている、という面がある。

でも、哲学の先生がいきなり今までの「問いがあって、答えがある」授業とは違うことをやり始めたんだとしたら、起こりうる率直で正当な反応だと思いました。

 

...... 

今あげてきた要素や反応についてはどれももっと丁寧に検討していかなくてはいけない。ただ、まずは、こういう反応がある、ということでもって、自分が学生と一緒に哲学しようとする先生でいたいと思ってしてきた実践はなんらか学生さんたちに伝わっていたんだ、という風には評価しておきたい。

 

 
他方で、ご褒美のような時間もある

哲学対話、やっぱり難しい。

でもやってよかったと思うことももちろんある。

年度最後の授業の日の放課後、希望者のみの参加の哲学対話の場を設定してみる。

今年度は、計4回か5回目。

テーマは昨年末に来てくれた人たちが希望した「恋愛」。

日々おつかれのところ、学生7名、学生以外2名が来てくれて、1時間半、とても楽しい時間になった。こういう風に、普通に先生もするけど、一年間で哲学する仲間に出会えたのは、一番のご褒美だったりする。

 

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みんなで出した問い。決まったのは、「1人の人を愛し続けるにはどうしたらいいのか」。

 

欲を言えば、こういう場が継続していくといいし、それは私が声をかけることではなく、学生さんたちどうしが自主サークルみたいに自分たちで動かし始めてくれるとうれしいけど、それをこちらから仕掛けるのは多分まだ早い。

 

先生であることに抵抗する
 

できれば、先生の要素を外して、ただの「哲学の人」になりたいんだけど、それは難しい。来年からは担任を任される可能性もあり、きっと油断するとすぐに、どんどん先生っぽくなっていくだろうという危機感もある。

こんなちょっとカッコよすぎる学生さんのコメントにも、励まされます。

 授業中って教師と生徒、お互いに「人間」であることを忘れる瞬間があると思ってる。でも、先生の授業は生徒が人間であることを認めてくれ、先生が人間であることも忘れなかった。すごいと思う。

 

もちろん、先生をするのが仕事なんだけど、それでもできるだけ先生であることに抵抗して、「人間」であり続けたいのです。

*1:実は、勤務校での研究テーマは「「哲学する教師」をモデルとした現代の教師像の構築​」だったりする。まだなにも研究としての成果は出ていないのだけれど。。

哲学対話の会に行ってきた話

昨日で年度内の授業が終わりました。おつかれさまでした。

またそのことはブログに書きます。

 

妻を誘って哲学対話へ

山口県にはあまり哲学対話の場はない*1のもあり、日曜日、はるばる二時間、福岡まで。

地方格差。

某法人のファシリテーター講座を受けていただいたときにお会いした方が、街場で哲学対話の場を継続的に開かれていることを知り、一月にも参加したかったのだけれど、直前にインフルになってしまい断念したので、リベンジマッチでした。

ありがたいことではあるけれど、最近は、哲学対話というと、授業内外かかわらず、自分がメインの進行役をする機会がほとんどになってしまっていて、他の人の実践を見る機会がない。

でも、他の方の実践参加して自分の実践をふりかえりたいし、そもそも気楽に一参加者として哲学したい。

ありがたい機会でした。

 

tetsugakutaiwafukuoka.jimdofree.com

 

問いを決める

参加前から印象深かったのは、一般に哲学カフェって事前に問い(や少なくともテーマ)が決まっていることが多いのだけど、その会では参加者が一から問いを出して、そこから一つに問いを決める、という”プレーンバニラ”スタイルをとっていたこと。

実際にその日も全体の半分の一時間を使って問いを決めていた。

わたしはそれくらいの時間の使い方、好きです。

 

あんまり人の話を聞けていない自分

特に問いを出す時間のとき、人の話、聞けてないなあと思ったのでした。

というのも、問いを出す時間には、同時にその問いを出した人に対して確認的な質問をしたり、簡単なコメントをすることがその会では認められていて、みなさんゆるやかに対話を始めている。

でも、私は自分の最近気になっていることを思い出し、それをどういう問いにしたらうまく伝わるかを必死に考えている。

そこで話されていることも気になるんだけど、よい問いを出したい気持ちのほうが強くて、だめでした。

当然、自分の対話の場でも、そうやって、自分の気になるところや引っ掛かりについて考えているうちに、目の前の対話からは離れていってしまっている人がいるのだろうと、思いました。

 

イライラする自分

対話の場、特に進行役を含めてほとんどの人どうしが初対面の場では、それはそれはいろんな人がいて、いろんな気分で参加しているので、そんなにすんなり対話が進むわけではない。

もし自分が進行役だったらこうするだろうな、と思ったりしながらそこにいることもよくある。別にそれはある特定の進行役や場がうまくない、ということを言いたいわけではなくて、

むしろ、ふだん、いかに自分が自分の考えやすいペースや対話の内容でやらせてもらっているか、を思い知るという感のほうが強い。参加者にはそれに付き合ってもらっている、という面も否めないのかもしれない。

だから、自分が考えたいなと思う通りにはいかないなんて当たり前なのに、そのことへの態勢がなくなっているようで、イライラもする。

 

今回も途中から、進行役っぽい発言もしながら自分の考えやすいペース・話題にもっていこうとするのでした。(よくない)

 

高専生、えらい

今回の参加者はみなさん、年齢的には「大人」だったけれど、だからといって超レベルの高い対話*2が展開されるわけではない(素朴で楽しい時間だった)。高専生と変わらない。

 

ふだん、高専生と授業でだけ哲学対話をしていると、うれしいことも落ち込むことも、もうそれが当たり前になっているのだけれど、実は高専生、えらいのだ。

 

対話の態度とかスキルとか、「大人」とそん色がないし、むしろ少人数で集まった会の対話的な姿勢や内容の楽しさはかなりレベルが高くなっている。*3

 

そんな話をしていたら、妻が、

高専生は、ふだん授業で哲学対話をしていて、スキルや態度を身に付けているからだよ

と言ってくれる。

もし私の授業を経て、そういうスキルや態度を身に付けてくれた人がいるのだとしたら、年度終わりにとてもうれしい発見をさせてもらったなあと、思うのでした。

 

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会場の施設にあった昭和のテレビ

 

前回出かけた哲学対話の場はこちら。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 

*1:”哲学者の小川さん”は精力的に活動をなさっている

*2:「超レベルの高い対話」ってなんだ 

*3:次のブログで書く