窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

ライフラインのある授業ー対話したくない人はしなくていい?

GWです。

なかなか担任仕事もあったりで、落ち着いてブログを書く、という感じにはならず間が空いてしまった。

 

見学者いらっしゃる

休み前には、某法人の活動経由で知り合った方が授業に見学に来てくださる。気づいたことをコメントしていただいたり、哲学対話に取り組む自分の話を興味深く、喜んで聴いていただけるのは本当にありがたい。*1励みになります。

 

そんな方から、私の授業について、こんな言葉をいただく。

ライフラインのある授業ですね

f:id:p4c-essay:20190423111849p:plain

セーフティーネット(いらすとや)

 ライフラインって「命綱」のことで、クイズミリオネアで答えがわからないときに「テレフォン」とか「オーディエンス」とか「フィフティーフィフティー」とかに助けを求めていた印象のある言葉だ。

 

自分の授業にライフライン?と思ったのだけれど、授業についていけない人のために別の選択肢を残しておいたり、ヒントを散りばめる、みたいなことを指して言ってくれていたらしい。

たとえば、講義をしていくなかで説明にうまくついていけなくなってきた人たちのために、途中で関連するマンガを紹介して説明をすること、「自分で問いを考える」という課題の際に、以前に学生たちが書いていた「自分自身の気になること」をまとめたプリントを配布して参考にできるようにすること、などのこと。

 

哲学対話をするかしないかを選んでもらうこと

その授業では、90分の前半で講義をしたあと、後半に対話の時間を設けていたのだけれど、ライフラインと関連した新しいことにチャレンジをした回でもあった。

授業では今まで哲学対話で話さなくてももちろんOKだけど、原則40人超の全員で円になることにこだわってやってみていた。ただ、それが辛いという人もいるだろうし、無理やりやらされていると思うと集団としての集中力も下がって、私語も増えてしまう。哲学することを強制する問題。別に授業なんて、強制を伴うものなのだから、気にしなくてもよいのだけれど、それでも気になっていた。

体育の先生にヒントを得て、試してみたのは、こんなやり方。

  • 哲学対話をするか、自分(たち)で考えるか、(あるいは、哲学対話を円の外から観察して、分析・考察する)を選択してもよい。
  • 哲学対話をする人は教室でいつも通り円になる。自分で考える人は、教室のスミでやってもよいし、時間までに戻ってくれば教室外でやってもよい。
  • ただし、自分で考える人はそこで考えたことをB5用紙に書いて提出し、評価対象になる。(哲学対話を選んだ人は提出物なし)

授業は自分で問いを立てて考えることが目的で、対話はその手段の一つ、そう考えればこのやり方も認めてもらえるかなあ、という感じで、見学者がいるところで初めてやってみた。

このやり方も含めてみていただいての「ライフラインの多い授業」という感想をいただいたのだと思っている。

 

結果はというと、一つのクラスは10人くらいの人たちが、もう一つのクラスは半分くらいの人たちが自分で考えるほうを選択した。ぞろぞろ教室から出ていってしまうのは、寂しくもあるかれど、ほとんどの人がB5用紙の課題にはしっかり取り組んでくれていたみたいだったし、そうやって教室にいなくてはならないとか円になって対話しなくてはならないとか、当たり前に課していたことを疑うきっかけにはなっている。対話は、あえて残るほうを選んだ人たちとはいえ、活発に探求が進む、というわけではないけれど、それでも40人でなかば無理やりやるよりはよい感じもある。

 

本当に、対話しなくてもいいのか

 

ただし、したくないからといってさせないなんて授業としてそれでよいのか、という批判もありうると思う。それに対話的な活動に抵抗感のある人たちとも、対話を進めるなかでその意義を実感したいという想いもある。だから、哲学対話のたびにこのやり方でいくつもりもない。

 

それでも、もう何回かこのやり方を試してみつつ、様子をみてみる価値はある。哲学対話やってもいいかなという人たちが対話に慣れてきたところで、自分で考えることを選んでいた人たちとも合流できるといいなと思っていたりもするのです。

 

 

*1:勤務校の先生たちは哲学対話への理解がないとは思わないし、好き勝手やらせてもらっている。けれど、そもそもお互いの授業には不干渉なところが多いので、話をする、聴いてもらう機会自体がないのです。

新年度の授業びらきと哲学対話

新年度、初担任についつい気をとられてしまいますが、授業も開始。

 

f:id:p4c-essay:20190411085805j:plain

勤務校にて。前日の風雨でだいぶ散った。
授業びらきになにをするか

他の教員ブログを見ていても、初回授業には気を使われているのがわかる。

私は、というと、そんなに考え込み、作り込んでいるわけじゃないけれど、それなりに、やはり気にしてはいる。まずそもそも、自分が受け入れてもらえるのか緊張するし、毛糸のボールを作るとか、円になって対話とか、付き合ってくれるのか、ドキドキして教室に入る。

 

今年度も、教員の自己紹介を簡単にして、シラバスをもとに概要を簡単に話したあとは、早速ウォーミングアップと称して40人を超える人たちにイスだけの円になってもらい、コミュニティボールを作った。

作り方の手順は別サイト*1に譲るけれど、今年の私のお題はこんな感じ。

1.名前(あだ名)

2.好きな〇〇とその理由

3. 生きてきて一番びっくりしたこと

この三つを毛糸を巻きながら言ってもらって横に回す。

クラス持ち上がりの二年生たちでも、高専はそんなにお互いに話さない人たちもいるようで、それなりに楽しく全員やってくれていたのかなという感じ。

そして出来上がった3クラス分のボールがこれ。

 

f:id:p4c-essay:20190411085617j:plain

クラスごとに色が違うので、こちらは忘れがちだけど、学生たちは案外覚えている。

 

 

そして最後に、

1. e-ラーニング利用に向けた電子機器の所持状況(所持していない人にはこちらからタブレットを貸し出す予定)

2. 最近疑問に思っていること

3. 担当教員へのメッセージ 

を書いてもらって、終わり。

これでほぼ90分。初回の授業。

 

ボールづくり、やっぱり楽しい時間なので、HR担任のクラスでこそやりたいのだけど、なかなか時間が取れず5月か6月までできなさそうなのが残念。

 

初哲学対話

二回目の授業でも教科書は開かない。

授業の最大の特徴となる哲学対話について、こちらから少し説明をしたあと、また円を作る。

今年はランダムに4,5人組をつくったあとで、質問ゲームとか相互質問法とか呼んでいるワークをやってみた。

一人の人がお題の問いに意見を言ったあと、残りの人たちが順番にその人の考えを掘り下げるための質問をしていく、というもの。

お題は「てつがくおしゃべりカード」から一人一枚。

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

 

一人3分×4,5人なので説明を入れて20分くらい。うまく質問ができない、思いつかない人たち、雑談になるグループもあるけど、なんとか励ましながらやっていただく。

 

それから、哲学対話の問い決め。各グループで自分たちの手元にある4,5枚のカードから1枚、みんなで話してみたいものを選んで、ホワイトボードに書きに来る。出てきた約10個の問いから投票で一つに絞る。そして15分弱、40人で丸くなって対話をしてみる。

挙手を優先するとは言っているけど、なかなかそれだけだどどうにもならないので、「話を聞いてみたい人にはボールを渡してもいいよ」ということは伝えておく。

 

あるクラスは、

 ナメクジを全部やっつけられる?

 という、かなりの変化球に票が集まった。二択なので、まずは意見と理由を言いやすいようで、自分たちでボールを投げ合いながら、発言はしてくれる感じ。途中、私も「やっつけること」と「種の絶滅」みたいな話をして話題をややこしくしてしまったのだけど、それを受けて話してくれた人もいてうれしかった。

また別のクラスは、

一番なぐさめてあげたいのはどんなサッカー選手?

に、票が集まる。発言者は多くなかったけれど、「試合に出場して一生懸命プレーしたけれど、全然活躍できなかった人」と、「大事な試合の前でケガをしてしまった人」という観点が出てきて、そこには努力(自力)と運(偶然)のどっちをなぐさめてあげたいと言えるのか、みたいな観点の対立があることがなんとなく明らかになったような気が(私には)した。

もう一つのクラスは、 

なにも開けられなくてもカギはカギ?

 になったのだけれど、

男子学生の多いにぎやかなクラスで、茶化しあったらもするのだけど、挙手をしてボールを受け取ってくれる人が複数いた。終わり間際、ちょっと沈黙が続いて、もう終わりどきかなと思ったらまただれかが手を挙げて新しい観点を出してくれて、ついつい予定よりも長引かせてしまうほど。

 

最後に10分弱時間をとり、「大福帳」初回のところに、その日の問いについて考えたことや、二回の授業を終えて感じたことを書いてもらう。

これで90分。

 

話しづらさ、質問しづらさ、は何によるのだろう

大福帳の感想をパッと見ても、楽しい、好意的な時間と捉えてくれる人が一方で、話すのが苦手という人にとっては4人組でのワークも「少し辛かった」ようで、申し訳ない気持ちになる。

あるいは、質問したり、されたり、考えたりするのがとても「難しかった」という人も多かった。ふだん、当たり前にしているようで、実はしていないことだから、そうだよね、初回から難しかったね。

 

初回からきつかったり、難しい思いをさせてしまったなあという反省の想いもありつつ、他方で、「私は、(多くの)人と話すのが/考えるのが、苦手なので~」と書いてくれるのだけど、本当にそれはあたなが苦手なことなのだろうか、とも思う。

 

話すことや質問を考えることは、あたな個人の得意不得意では必ずしもなくて、教室や集団のもっている環境の要因もあるのではないのかな。だから、あなた一人がこの授業で「次回はもっと話せるようにがんばります」となるのではなくて、教室全体が<何を言ってもよい>と思える空間になっていくことをみんなで目指していけたら、いいのにな、と思います。

 

ただ、それがいかに難しいことか、もよくわかっているので、絵に描いた餅なのかもしれないけれど、それでも哲学対話のもっている理念のようなものを大事にしようとする限り、空間づくりをみんなでやっていく、という視点は持ち続けていたい。

 

授業でこんな話を伝えてみたいけど、うまく話せるかなあ。。

変えないこと、変えること

「倫理」は半分は基本的に昨年度のものをベースにしてやらせてもらうつもりなのだけど、もう半分は、学校のカリキュラムが変わったこともあり、変更を迫られている。昨年度のものに手を加えたり、課題などを増やしたりする必要があるので、検討しなくちゃいけない。

反転学習のために、学校のe-ラーニングシステムも使いたいので、触ってみて勉強しているところ。

最初は億劫だけど、だれも本格的に使わなければ学校全体への浸透も遅れるのだから、えいや、とやるのだ。

 

 

迎え入れる

あっという間に新年度、明けて1週間が経ったようだ。今日はお花見ピクニック。週末でリフレッシュして週明けから本格的にがんばらないと。

f:id:p4c-essay:20190406154006j:image

 

 

入学式とか

新入生のみなさんご入学おめでとうございます。担任なのだ。

式での呼名やら保護者への挨拶やらHR教室の準備やら初めてのことばかりだけれど、周りに助けてもらいながらなんとか。

新入生のみなさんはこうやって待つ準備をしていると、なんだかどんどん愛おしくもなってくるもので、ちょっとした親心の発動を感じる。

 

昨日最初の授業日も終えてみて、実際みなさんまずはスタートを切れそうでよかった。

 

今年の目標とか

高専なのにほかの中高のように、3月の時点で学年目標を決めていた。

締切厳守

なんのひねりもないし、これを定める意味はあるのかと思ってしまうけど、中学校との違いを強調するときなどには学生にも保護者にも伝えやすくて、意外と悪くないかなとも思っている。

 

自由には責任がつきものです

 

みたいな言い方はあまり好きではなくて、自分から学生には言いたくない。(そもそも、自由には責任が伴うとは限らないのではと思っているし、学校なんて不自由なところで自由も責任もあったもんではない)

 

最初のHRでは、クラスとして、

43人全員が一年後も、「ここにいてもいいな」と思えるような空間にするにはどうしたらいいか、 一緒に考えていきましょう

と言ってみる。

 

とてもクサイけど、わりと本気ではある。そのための支援をしたいのだ。

本校では五年間クラス替えはない。

一致団結、はいらないけど、横の人が困っていたら助けてあげられるような感じにならないと、つらい。

 

 

担任っぽさのこと

ご存知のように私は学校とか学級とかクラスとかそういう形式に批判的な人のつもりで、そういう意味では担任とかもよくよく考えながらやりたいと思ってはいる。

いる、つもりなのだけれど、同時に、学校や学級で生きることを強いてしまっているからこそ、クラスの人たちとなんとか一緒に生き抜いていってもらわないもいけないという気持ちも強くて、最初は結構丁寧に「担任」しているかもしれない。

でもそれは、いわゆる「学級王国」とは違うし、違わなくてはいけないはずで、でもでも、それでも、担任ごとのカラーが明らかにクラスに出るであろうという予感をも、すでに感じていたりもする。

 

***

 

こんなことを考えながら、花見をして、ブログを書いている。

youtu.be

妻にこの曲を聴かせたら、横で泣き出してしまった。