窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

最近読んだ本などー<われわれ>は<彼/彼女ら>を教育することができるのか

 2月、3月あたりで手に取った本などの備忘録

数が少ない。。でもこれでも授業期間と比べたらマシなほう。

読書の時間、確保しなくてはいけない。

 

 

ジェンダーのこと
82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

妻がSNS等で知って、買っていた本。とても力のある本で、どれだけ日常に、当たり前に、ちょっとした言説に、女性を抑圧し、閉じ込める構造があるか、がフィクションの文体で示されている。多分、読む人によって、引っかかるところ(=これがまさに問題なんだと思うところ)が違うと思う。それに、自分は読み飛ばしているところにも、実は差別や抑圧があったかもしれない。

先日の韓国出張でこの本の話をしてみたら、当然?、男性の先生たちもご存知のようだった。韓国は女性の進出、みたいなのは遅れているとおっしゃっていたと思う。

 

学校でのハラスメント 

新年度を前に。

具体的な事例について勉強になる。「教育は良いもの」という前提によって覆い隠されるものがたくさんある、という指摘も納得。自分の専門や関心から言えば、事例もそうなのだけど、この前提の話をもっと考えてみたいところ。

この本で紹介されていて買ったのが↓

実際の加害者、被害者への取材をもとに作られたルポなので、なかなか重たい。

どう言及したらよいのかわからないけれど、これも教育という権力構造の関係性に要因がある以上、自分や自分の周りと無関係だとは考えていられない。

学校という異空間が事件を生み、隠蔽し、被害者を追い込んでいる。

今、教員として学校にいる自分が、「学校という異空間」の維持、強化に手を貸していないか、考えなくちゃいけない。 

 

学校での哲学対話 

上の流れからすると、 新教科「てつがく」の構想は、「学校という異空間」に対するチャレンジだ、というようにも映る。先生方が試行錯誤されながら取り組んでくださっていたことがよくわかる良質な本。「哲学対話」といっても、一つの型なんてないんです。いいんです、それで。

 

 <われわれ>と<彼/彼女ら>
教育と他者――非対称性の倫理に向けて

教育と他者――非対称性の倫理に向けて

 

この本は個人的には当たり。タイトルにひかれて買って、中身が「国際教育開発」 をテーマにしたものだと知りちょっとがっかりし、けれど序文を読み始めて、そのまま数日で読破した。

 

様々な教育活動のなかでも、(「先進国」と「途上国」の格差に起因する)非対称性が強調されやすいテーマを取り上げて、<われわれ>が<彼/彼女ら>を教育することができるのか、できるとすればそれはいったいいかにしてなのかを問おうとするもの。

結果的に一冊を通して、研究者であり、語る側であり、援助をする側である<われわれ>の資格を問い続けることになっている。積極的な答えよりも、現在進行中の政策に対して理論の側から、立ち止まること、問うこと、逡巡することを求めていく姿勢も納得。

<われわれ>は教育のあり方を恣意的に選択することができる。<われわれ>はそうすることのできる位置を占めている。それゆえに<われわれ>に求められているのは、そして国際教育開発に求められるのは、ありえたかもしれない教育のあり方をありえなくさせていることへの後ろめたさであり、教育への躊躇であり、教育への逡巡である。<彼/彼女ら>のもとを立ち去ることもできる<われわれ>は、<彼/彼女ら>への教育を前に、いったん立ち止まらなければならない。

すべてが同じ構造とまでは言えないけれど、自分自身が教室で哲学対話を行うときにも、どのような資格で、わたしは彼/彼女らに哲学を教えることができるのか、と問うことに対する対抗的な示唆をたくさんもらったと思っている。

 

 

 

 同じ著者が分担執筆しているこの本も購入。まだ全部は読めていない。

現代の学校を読み解く: 学校の現在地と教育の未来

現代の学校を読み解く: 学校の現在地と教育の未来

 

 余談めくかれど、この本の著者の一人の畑康裕さんを通して、こういう学校および事件(?)があったことを知った。不勉強である。

ja.wikipedia.org

 

 エッセイ
ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地

 

妻に勧めてもらった。今読んでいるところ。

もう一冊、より有名なタイトルの本がある方のエッセイ。 

 

死にたい夜にかぎって

死にたい夜にかぎって

 

ブログ、好きで読んでいました。

<俺の前を通り過ぎていった女たち>的な、モラルとか道徳とかとはかけ離れた、でも血の通った、エッセイ。

これは高専の図書館にあったらしく、びっくり。

 
 おしまい

初めて哲学対話をやった先生たちは何を感じるのか

体験授業とか教員研修とか

大変僭越ながら、所属NPO経由や東京の先生経由で、哲学対話についての体験授業をしたり、教員のみなさまにお話をさせていただく機会をいただくことがあります。

 

 

先日、某高校で体験授業ということで、先生方と生徒さんたちに、同時に哲学対話を体験していただきました。高校生20人+教員2,3名で1グループ。あらかじめ用意した問いの候補から、一つに絞り、コミュニティボールを見よう見まねで使って、話してみるというチャレンジ。(複数グループが同時展開だったので)大変残念ながら私は外から観察。

 

その後ワークショップっぽいかたちで、感想を共有したりするのをメインにした教員研修。

 

そこで出たご質問やご感想を思い出せる限り、挙げてみようかなと思います。

なので、文言自体は私がアレンジしています。

 

哲学対話を初めて生徒さんたちと体験した先生方の率直な反応が現れていて、とても貴重なものな気がするからです。どれも至極まっとうな、反応だ、と思いました。

どの反応もとても大切なものばかりで、「わかる~~!!私もよくわかりません!!」って感じです。本当はいくらでも語り合えるのだけれど、一言ずつコメントをつけます。

 
哲学対話を体験したばかりの先生方からの反応集 

対話中、沈黙が起きると、どうしても自分自身がしゃべってしまう。教師が待てないなと感じました。

私も待てません。でも、教師が自分事として本気で考えている姿を見せるのならば、しゃべること自体を自制しすぎる必要はないのではないでしょうか。

 

  

ボールを使うと、ボールを投げ合う人たちがいるのだけれどそれでいいのでしょうか。

ある程度ルールを定めておくべきかもしれません。でも、ルールでがんじがらめの対話ある程度、気が済むまで見守ることもあります。

 

 

女子生徒はマスクをしたまま話す人がいます。外させるべきなのか、悩みました。

超学校っぽくて、生々しくて、些細にみえて、実は大切なお悩み!声が聞こえづらい人の発言のときはチャンスな気がしています。「もう少し声が聞こえやすいように円を小さくしよう」とか言って、みんなが身を乗り出して聞き出すきっかけになる、とか。

 

 

哲学対話は学校でのどういう場面で使っていけるものでしょうか。

先生方の学校と生徒さんたちの状況や願いに合わせて、ぜひ自在に導入してください!

あまり固定的な役割を求めすぎないほうが、楽しいとは思います!

 

 

対話には参加していない生徒でも、最後のふりかえりでは楽しかったと手を挙げていたことが意外でした。

意外ですよね。でもあるあるでもあります。そもそも参加するってどういうことでしょうか。発言していないことと参加していないことは同じではないですよね? 

 

 

今回は生徒は20人でしたが、適切な人数はありますか。

 そりゃあ10人くらいの方が話しやすいとは思います。でも、授業でやるうえでは、現実的ではないので、最近はあまりそういうことは考えなくなりました。

 

 

時間が来たら終わる、以外に対話の終わり方はありますか。

時間内に、答えが出て、終わってしまう、ということもありますか。

 対話の最後に、「新しい疑問やよくわからなかったことを教えてください」と何人かに話してもらう、とかでしょうか。時間内には、終わらないはずなので、終わりそうになったら、あえて反論したり、問いを展開させたり、できたらいいですね。

 

 

対話のなかで、問いが変わっていくことがあるように思いますが、それは許容してよいのでしょうか。

もともとの問いは、たいていはその場でぱっと出された不完全なものなので、問いの前提への問い直しが起きたり、その場の関心に応じて問いがスライドしていくのは歓迎すべきことだと思います。ただし、まじめな生徒さんにありがちですが、問いからずれることを警戒したり、イライラする人もいます。あるいは、問いがずれることで置いていかれてしまう人もいるかもしれません。話がずれていきそうなときは、今なにが話されているかについて、確認をして、置いていかれている人がいないかは確認したいです。

 

 

どうしてもその場にいたくない、話したくない、という生徒に対してはどういった対応をすべきでしょうか。

 この質問が一番答えづらいなと思いました。たくさん考えなくてはいけないことがあるけれど、一つだけ。なんで、他の授業については、あまりこういう質問が出ないのに、哲学対話のときにはこういう質問が来るのか、気になります。数学の教室にも、そう思う人がいるかもしれません。体育とかも。

 

初めてということもあってか、近くに座っている仲良しの子どうしで、相談してから話をしている様子を見かけました。その人1人の意見になっていないと思うのですが、それはよいのでしょうか。

 友だちとのおしゃべり一切禁止!とかを最初の段階から言われて、安心して考えられるような気がしないので、いいのではないでしょうか。もちろん、長い目では「ほかのだれかと相談した意見ではなくて、あなたが考えていることが知りたいんだよ」というメッセージは発し続けていきたいですが、同時に「そりゃそうだよねえ、答えがよくわからない問いについて意見を求められても、緊張や不安があるよね。周りと相談したくなるよね」って思います。ふつうの反応なのではないでしょうか。

 

 

哲学対話の成果はどうやって捉えればよいでしょうか。

 大人や偉い人たちを向いて、それっぽく語ることもできるでしょうが、それよりも、何回も何回も対話を重ねるなかで、先生自身が進行のことなどを気にせずに、一人の参加者として考えることに集中できるような空間になったとしたら、それは大きな成果とは言えませんか。

 

 

こども哲学、と指すときのこどもとはどういう幅を持ちますか。小学生と高校生では問題関心も周囲とのコミュニケーションのとりかたも違うように思いますが。。

 全然違うところがあると思います。でもあえて幅をもたせた「こども」という言い方も、悪くはないと思います。それに、みんな気になっていること、疑問に思っていることがあるはず。それを話そう、考えよう、というコンセプトは一緒です。

 

 

 

 

50分の研修で、これだけの質問や感想のやりとりができるなんて、すごい。

 

哲学の先生であることへの様々な反応のこと

ぼちぼち年度末...

 

今年度はもう少し続くけれど、授業や試験など私が関わる学生関係のことはひと段落したので、ふりかえりもしていきたい時期。

  

 

アンケートや大福帳を見ながら、思うのは、まだ一年でしかないけれど、哲学(対話)の先生であろうとしたことの効果*1というか、見えてきたことがあるので、いくつか取り上げてみる。

 

 

哲学の先生はロンリ的に話す?

匿名アンケートの「直すべき点」のほうにこういうコメントがありました。

先生がロンリ的に発言するので正しいがこわい。(たまにおもしろい)また、正しいことだと思って(知って)いるので、(ほんの)ちょっとイラつく

この学生さんが私のどういう発言をロンリ的と思われたのかもわからないし、他の先生はロンリ的には話さないのか、という疑問もあるけれど、結構印象深いコメント。

私の解釈では、他の先生の授業や、学生同士のおしゃべりではあえて踏み込まないような話題にまで、時々は踏み込んで、事実を指摘する、みたいなことなのかな、と。

たとえば、ジェンダーをとりあげた授業では、大変ドキドキしながら、ほぼ男性、女性一名の比率のクラスで、男性陣に向かっていろいろな話をした記憶がある。そういうことかなあ。

いずれにせよ、他の先生とは違う特徴として、↑のようなことを受け止めてくれるのは、哲学の先生としてはよいことな気がしている。

でも直すべきところなので、それはそれで検討しなくてはいけないのだけれど。。

 

哲学の先生の試験はめんどくさい?

試験や評価については、どの先生にとっても課題だと思うのだけれど、自分も例にもれず悩んでいます。そんなに厳しい評価にはしない、ということを決めているから、大きなクレームはほぼなかったけれど、それでもアンケ―トには、 試験についての様々なご批判が並ぶ。もちろんそのなかには、もっとこうだったら勉強しやすいのに、という学生の側の要望もあるのだけれど、それでも、気にはなる。

もちろん、その逆で、「考えながら解く問題で好きです」というごくわずかな肯定的なコメントもあり、励まされもします。

哲学の先生の試験にふさわしいのはどんな試験なんだろう。

哲学の先生は成績を人質にして授業するんだろうか。

 

哲学の先生はつらそう?

自由に哲学対話のテーマを決めるのはやめたほうがよい。学生も適当だったし、先生もつらそうだった

哲学の先生は教室でつらそうにする、というのはいろいろ棚にあげて、一周廻れば、悪くない気もしてくる。

授業の自由度を高めたいと思っているけれど、それはみんなで安心して考えるためのことのつもりで、でも学生さんたちからしたら適当にふるまえる空間にもなってしまう。別に適当が悪いとも思わないけれど、やはり不快な適当はある。それでも、こちらがコントロールしよう、しようと思うからつらいのかもしれない。

 

倫理が嫌い?

僕は倫理が嫌いですとのコメントもありました。みんなに授業科目を好きになってなんてもらえない、当然です。でもその理由が興味深い。

話し合っても答えが出るわけではないし、違う問いも浮かんでくるから。終わった後になんだかモヤモヤします

 ああ、私が授業でやりたいことがこの方にはまっとうに伝わっている、でも、私が伝えかったそのことを、この方はネガティブに捉えている。

 

「モヤモヤを感じられるなら、なんらか楽しい体験なはずだ」という暗黙の前提がこちらにあることに気づかされました。

でもこれはだいぶ根本問題で、みんなで考えその結果モヤモヤしたり、新しい問いに行きつくことは、わりと楽しい学びの経験なはずだ、という強めの信念があるから、授業でそういう活動を仕掛けられている、という面がある。

でも、哲学の先生がいきなり今までの「問いがあって、答えがある」授業とは違うことをやり始めたんだとしたら、起こりうる率直で正当な反応だと思いました。

 

...... 

今あげてきた要素や反応についてはどれももっと丁寧に検討していかなくてはいけない。ただ、まずは、こういう反応がある、ということでもって、自分が学生と一緒に哲学しようとする先生でいたいと思ってしてきた実践はなんらか学生さんたちに伝わっていたんだ、という風には評価しておきたい。

 

 
他方で、ご褒美のような時間もある

哲学対話、やっぱり難しい。

でもやってよかったと思うことももちろんある。

年度最後の授業の日の放課後、希望者のみの参加の哲学対話の場を設定してみる。

今年度は、計4回か5回目。

テーマは昨年末に来てくれた人たちが希望した「恋愛」。

日々おつかれのところ、学生7名、学生以外2名が来てくれて、1時間半、とても楽しい時間になった。こういう風に、普通に先生もするけど、一年間で哲学する仲間に出会えたのは、一番のご褒美だったりする。

 

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みんなで出した問い。決まったのは、「1人の人を愛し続けるにはどうしたらいいのか」。

 

欲を言えば、こういう場が継続していくといいし、それは私が声をかけることではなく、学生さんたちどうしが自主サークルみたいに自分たちで動かし始めてくれるとうれしいけど、それをこちらから仕掛けるのは多分まだ早い。

 

先生であることに抵抗する
 

できれば、先生の要素を外して、ただの「哲学の人」になりたいんだけど、それは難しい。来年からは担任を任される可能性もあり、きっと油断するとすぐに、どんどん先生っぽくなっていくだろうという危機感もある。

こんなちょっとカッコよすぎる学生さんのコメントにも、励まされます。

 授業中って教師と生徒、お互いに「人間」であることを忘れる瞬間があると思ってる。でも、先生の授業は生徒が人間であることを認めてくれ、先生が人間であることも忘れなかった。すごいと思う。

 

もちろん、先生をするのが仕事なんだけど、それでもできるだけ先生であることに抵抗して、「人間」であり続けたいのです。

*1:実は、勤務校での研究テーマは「「哲学する教師」をモデルとした現代の教師像の構築​」だったりする。まだなにも研究としての成果は出ていないのだけれど。。