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P4Cとフェミニズムが気になる

P4C(こどものための哲学Philosophy for children)とフェミニズム

この二つは結構古くから結びつけて論じられてきたらしいということを最近知る。

実際にP4Cの初期の代表的な論文集*1でも、1994年と1997年の二度にわたってP4Cとフェミニズムについての論集が組まれている。すごい。日本の実践者がP4Cを知るようになるだいぶ前からもうP4Cの実践はこういう展開をしていたのだ。

 

このことがとても気になっていて、今の国内での実践にとっても、以前からP4Cとフェミニズムを結びつけて考えようとしていた人たちとともに考えることは大事な気がしている。それを論じてみたい気がしながらうまく問題として捉えられない。ので、以下少しメモをします。

 

 

アン・マーガレット・シャープさん

そもそもP4C(こどものための哲学Philosophy for children)は1960年代後半から70年代にかけてマシュー・リップマン「が」始めた、というこれまでの国内の説明だと与えてしまっているかもしれないけれど、事実はそうではない(らしい)。

邦訳書が2冊あるけれど、

 

子どものための哲学授業: 「学びの場」のつくりかた

子どものための哲学授業: 「学びの場」のつくりかた

 

こっちはご覧の通り、共著者がいる。 ついつい文献表などでも省略してリップマン「ら」と書いてしまうのだけれど、そのなかに実は初期からP4Cとフェミニズムの関連性を指摘してきた人物がいる。アン・マーガレット・シャープさん(1942-2010)。

日本語でもこちらの本で読めます。

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

 

 人となりは、

彼女[シャープ]はリップマンとともに「こどものための哲学」を創設した第一世代であり、「ケア的思考」を重視している。[...]歳を重ねてもこどもらしさを失わないピュアな精神の持ち主(わたしたちはそれを「P4Cマインド」と呼んでいる)で、彼女の立ち居振る舞いから、こどもたちの対話の経験の豊かさが滲み出ていた。*2

 

 

アンは、マーサ・ヌスバウムアマルティア・センなどに言及しながら、こどもには、精神的だけでなく身体的統一感や性的志向にも配慮され、尊厳を持った存在として平等に扱われる権利があり、そうした環境の中で、自尊心をもち、自己表現や考える力を養っていくことが重要であると述べた。IAPCの研究は授業方法や評価についての研究など教育学的なアプローチが多いと思っていたので、アンがこどもの権利についてフェミニズム、人間開発などの観点から意見を述べたことは新鮮に感じられた。*3

 

リップマンやマシューズ*4 のことを第一世代と呼んで、シャープさんのことを第二世代と呼ぶこともあるようだけれど*5、初期からの活躍っぷりからしたら第二世代にはいれられないだろうという感じがする。

 たとえば、シャープさんの貢献を受けてこういう本も出ているくらい。買った。

In Community of Inquiry with Ann Margaret Sharp: Childhood, Philosophy and Education (Routledge International Studies in the Philosophy of Education)

In Community of Inquiry with Ann Margaret Sharp: Childhood, Philosophy and Education (Routledge International Studies in the Philosophy of Education)

 

 そこのイントロでは、こんなことが紹介されている。

  • シャープさんは、リップマンの『ハリー』を読んで感銘を受け、1973年ごろアポイントをとり、リップマンに初めて会う。そこから「子どものための哲学推進研究所(Institute for the Advancement of Philosophy for Children, IAPC)」を舞台に35年の協同研究が始まったそう。
  • 「探究の共同体」という(プラグマティズムの)哲学的な観念を、教育的な実践のモデルへと再構築するというアイデアは、シャープの功績であることをリップマンは認めている。

 

そしてそんなシャープさんの関心事の一つに、フェミニズムがあったことは明らか。上記の本でも、フェミニズムを中心主題とする節があるし、冒頭で述べたThinkingの特集号の担当はどちらもシャープさんだ。

 

うろ覚えだけれど、リップマンのP4Cにおける「多元的思考力」=3C, Critical/ Creative/ CaringのアイデアのうちのCaringについてはシャープさんの貢献度が高いという話も聞いたことがある。

そういうことを思うと、なおさらP4Cとフェミニズムのことが気になってくる。

 
いくつかの論文

まだ精読できていないものばかりなのだけれど、論文の冒頭部で概要をしゃべっていそうなところをざっと訳してみる。

 

  • Sharp, Ann Margaret, "Peirce, Feminism, and Philosophy for Children", in: Analytic Teaching, Vol. 14, No. 1, pp. 51-62.

この論文全体の目的は、以下の3つの関連するテーマを探究することである。

(a)フェミニスト哲学とこどものための哲学はpedagogy、包括的な方向性そして可謬的だが批判的な認識論らを含む多くの共通点をもっている。

(b)フェミニズムとこどものための哲学はパースを精密に読むことから恩恵をうけている。だが、こどものための哲学だけが明示的にパースに依拠している。

(c)上記の共通点ゆえに、フェミニスト哲学とこどものための哲学はポストモダン流のテキストへの引きこもりに反対する立場を提示する

  • Collins, Louise , "Philosophy for Children and Feminist Philosophy", in: Thinking: The Journal of Philosophy for Children,  Volume 15, Issue 4, 2001.

以下では、possible novelやthinking storyからいくつかのシーンを描いてみせる。その小説や物語では、こどもたちとその教師たちとをフェミニスト哲学者たちによって議論されてきたいくつかの話題を考えるよう駆り立てることが意図されているものだ。さらに、マニュアル的な活動のためのいくつかのアイデアも提示する。

本論に入る前に重要な注意がある。フェミニスト哲学内部には、あるいはただアメリカ国内ですら、健全な論争が続いている。そえゆえ、私が「フェミニスト哲学」という名のもとで主張を行うとき、それぞれの主張には正確に言えば以下のような前書きがつくこととなる。「少なくとも有意なだけのいくにんかのフェミニスト哲学者は以下に賛同するだろうが...」。私が「フェミニスト」に言及するときも同様である。

 

  • Bleazby, Jennifer, "Philosophy for Children as a Response to Gender Problems", in: Thinking: The Journal of Philosophy for Children, Volume 19, Issue 2/3, 2009

伝統的な教育学が、考えることの男性的な理想を促す一方で、女性的なものを締め出し、汚してきたような様々な手法を概観する。その先で、伝統的なものとは異なる教育学であるP4Cが、伝統的なジェンダーステレオタイプの基礎をなしているようなジェンダー化された二元論(精神と身体、理性と感情、個人と共同体)を再構築することを示す。結果としてP4Cは伝統的なジェンダーステレオタイプを再構築し、数学や科学において女子が平均点以下になること、そして「女性的な」芸術や人文学の価値を下げることに貢献してきたような学校の教科の伝統的なジェンダー化に対し挑んでいるのである。同時にP4Cは男子の教育的なパフォーマンスについての、特に読み書きや行動上の問題と関係するような、目下の関心を克服するだけの価値を特に有しているかもしれないことを示していく。

 

 

  • Yorshansky, Mor, "the community of inquiry a struggle between self and communal transformation for female students ant the other", in: Thinking: The Journal of Philosophy for Children, Volume 19, Issue 2/3, 2009.

若い女性が、女性の知ることについての方法を表現すること、そして、平等の公共の表現/代表を獲得することはとても難しいと思う可能性がある。このことがP4Cにおいて十分に発展してきた正義の理論と社会的な影響の教育的な実践のあいだのありうるギャップをふりかえることへと私たちを導く。この論文では、これらの問いを仮に反省してみることを試み、P4Cの運動のなかでそのようなイシューを議論するための決定的な理論的枠組みを示す。

 

  • María Teresa de la Garza, "Education for liberation", In: Community of inquiry with Ann Margaret Sharp. Childhood, Philosophy and Education, 2017, pp. - .

この章で、María Teresa de la Garzahaは教育の哲学と哲学的な探究の共同体の実践とを社会正義、フェミニズム理論そしてこども期の哲学へと関連づけたシャープの功績を評価していく。教育のタスクは、部分的には、抑圧された人々を公平に扱うようにという求めによって明確にされるものである。シャープは女性とこどもに、自身の経験について哲学することで、パウロフレイレが「沈黙の文化」と言及したものに対して干渉していけるよう励ましてきた。探究の共同体は解放の実践としてみなされることが可能であり、「批評家としてのこども」をもたらすものだ。社会批評の空間としての探究の共同体の教室についてのシャープの理想は、多文化主義的な教育がたやすく歴史的に対立してきた文化的、宗教的、政治的な信念や生き方を互いに一致した関係へともたらしうるのだ、というような浅はかな楽観主義への防御手段となることである。シャープの教育理論は非帝国主義的で、相対的で、文脈的な、彼女のフェミニズム倫理学へのかかわりによっても形成され、そして日々の生活の具体的な詳細へと焦点を向けられてきた。

 *6

 

  • Sharp, Ann Margaret, Gregory, Maughn Rollins, "Towards a feminist philosophy of education: Simone Weil on force, goodness, work, method and time", In: Community of inquiry with Ann Margaret Sharp. Childhood, Philosophy and Education, 2017, pp. - .

この章で、シャープとグレゴリーは、力、善、仕事、方法そして時間といった概念に関するシモーヌ・ヴェイユの著作を利用することで、必然性の文脈内で自己決定的で創造的な仕事のなかに自由を見つけ出すような教育のフェミニスト哲学を明示する。彼らは、いかにしてこういった教育の哲学がこどものための哲学の実践のなかですでに現れているか、またいかにしてさらにこの実践をに影響を与えうるかを説明している。

 

フェミニズムと教育関係で気になって読んでいるもの

そもそも元はと言えば、某土屋さんがこの本を薦めてきたのがきっかけだったかもしれない。

とびこえよ、その囲いを―自由の実践としてのフェミニズム教育

とびこえよ、その囲いを―自由の実践としてのフェミニズム教育

 

確かにとてもよい本だ。

黒人女性で研究者でもあるフックスさんが主に自身の教師としての経験をベースに正直に語る本。

従来のものとは全く異なるような思想をベースにした教育をしていくことに伴う葛藤や希望、そして理論と実践の関係性みたいなことを考える。こどもの哲学を学校でやる、ということと置き換えながら読める。

 

そこからいろいろ気になって読んできた(いる)本たち。

フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学 (ウイメンズブックス (2-1))

フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学 (ウイメンズブックス (2-1))

 
同じ著者の本。こちらは教育というよりもフェミニズムについてのエッセイ。2000年前後の状況がわかっておもしろいし、勉強になる。これも新しいことをするときの運動論、革命論としても読める。
 
バッド・フェミニスト

バッド・フェミニスト

 
軽快なフェミニズム、ポッポカルチャー批評。
完璧なフェミニストにはなれないけれど、それでもフェミニストではいられる。
肩の力を抜いてくれる本。
 
早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

 
妻と購入。川上未映子責任編集。日本国内を中心とするけれど、古今東西の女性作家の文学作品、批評が並ぶ。
 
説教したがる男たち

説教したがる男たち

 
『災害ユートピア』とかで有名な著者の本。
マンスプレイニングという言葉の発祥にもなっているらしい。
 
自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 
 

 上のソルニットの本で教えてもらって読み始めたところ。

大事な本だと思う。

 

 

戦う姫、働く少女 (POSSE叢書 Vol.3)

戦う姫、働く少女 (POSSE叢書 Vol.3)

 

 国内外のポップカルチャーに登場する女性の姿を、現代のフェミニズム批評的な感じから読み解き、解釈する。楽しい本。あと理論的なことも勉強になりました。

 

それで、わたしはなにが気になっているのか

 

妻にも言われて、その通りだと思うのだけれど、P4Cとフェミニズムはどちらも対等であること、平等であることを志向する点で共通点がある、というのじゃあ、あまりにも素朴すぎる気がする(もちろんそれを研究のかたちで、日本語で、指摘するのは十分な仕事だとも思うけれど)。上で見てきたような論文では明示されないように思うけれど、その次に挙げたような本にはあるような視点で、私が気になっているのは、P4Cは単なる教育手法や理論に留まるものじゃなくて、常に哲学の「実践」であり、「運動」であり、しかも革命的でラディカルななにかだ、という、あたりのことかもしれない。

 

あとは、(上のことともほのかに関連するような気がするのだけれど)Philosophy for everyoneとstart with minorityは同じことなのか、みたいなことも気になっている。

この教育をなるべく多くの学校の「みんな」に向けて行おうとすることと、教室のなかにいる、あるいは教室にも足を踏み入れられないかもしれないようなただ一人の「あなた」に向けて行おうとすることは同じなのか。

教室で哲学対話を行う意味をだれか一人にとっての<救い>として表現する人がいる(ことがある)。自分の実践はそのような実践であれるのか。

こういうことはフェミニズムとともに考えることで考えられませんか?

 

*1:

Thinking: The Journal of Philosophy for Children - Montclair State University

全目次はこちら(pdf)。

https://www.montclair.edu/media/montclairedu/cehs/documents/iapc/Thinking-Journal-Complete-Index-Vols1-20.pdf

*2:上掲書, p. 47. 著者は本間さん。

*3:上掲書, p. 62-63. 著者は高橋さん。

*4:この本の人。

哲学と子ども―子どもとの対話から

哲学と子ども―子どもとの対話から

 

 

子どもは小さな哲学者 合本版

子どもは小さな哲学者 合本版

 

*5:Vansielegehem, Nancy,  Kennedy, David,  "Introduction. What is Philosophy for Children, What is Philosophy with Children—After Matthew Lipman?", in;Philosophy for Children in Transition: Problems and Prospects (Journal of Philosophy of Education, Wiley-Blackwell, 2012, pp. 1-12.

*6:ここの要旨より。最後の1文が訳せなかった。。

"One of the least-studied aspects of Sharp’s scholarship is the way she incorporated these political and ethical aspects into her philosophical stories and novels for children."

In Community of Inquiry with Ann Margaret Sharp | Childhood, Philosophy and Education | Taylor & Francis Group

レポート課題を考える

翌年度以降の単位認定システム

勤務校では、必修科目を一つや二つ落とした時点で自動的に留年になる、というシステムを採用していない。たとえば必修科目である「倫理A/B」が不合格だったとしても、次の学年のカリキュラムに進むことができる。でも、そのまま5年間(高専なので)を過ぎても当たり前だけど卒業はできない。そこで、必修科目の単位を翌年度以降に取得するための試験課題というのが毎年課され、そこで基準を満たす、という過程が教員と学生のあいだで行われている。

今日はそんなシステムのなかで行ったレポート課題の話。

 

倫理の単位を与えるための適切な課題がわからない

私は今年新任なのだけれど、前年度の担当の先生が少々厳しめだったようで、総勢100名分の課題を考えねばならないという仕事がやってきた。ただ、前年度どんな授業が具体的になされていたかはわからないし、学生たちの状況も知らない。数学とかでは試験をするみたいだけれど、倫理で試験というのも知識に偏重してしまうなあと思ったのでいろいろ悩んだ末下記のレポートを課題として出しました。

 

課題:以下の3つの条件を満たすレポートを執筆してください。

      執筆時には3つの条件を満たしていることがわかるように適切な見出しをつけること。

  • 以下A)〜H) の「問い」のうち1つを選び、その問いに関心を抱いた理由や背景、身近なエピソードなどを書く
  • その問いと関係する哲学者や思想家を取り上げ、教科書やその他文献を参照し、紹介する。特にその問いとどのように関係しているかを重点的に説明する。
  • 1)および2)を踏まえて問いに対するあなた自身の考えを書く。

問いの候補

  1. スマホを好きなときに好きなように使う行為は自由と言えるのか。
  2. 高専生は大人か子どもか。
  3. みんなが納得するルールを決めるにはどうすればよいか。
  4. 神や仏を信仰することは友人を信用/信頼することとどう違うのか。
  5. どうせいつか死んでしまうのになぜ生きるのか。
  6. 嘘をつくのはいつでも悪いことか。
  7. いつの時代でも絶対に変わらない確実なこと(真理)はあるか。
  8. その他(オリジナルの「問い」を自身で設定する)

字数:2000字~3000字程度

 

下記のような表記一例も付けた。 

 

f:id:p4c-essay:20180920105512p:plain

レポート課題を考えるときは、この本をいつも眺めている。 

学生を思考にいざなうレポート課題

学生を思考にいざなうレポート課題

 

 

剽窃が起こる1つの原因は、学生の側に、素材をもとにどのような創意工夫を発揮すればよいか理解が得られていないということになります。*1

今回は事前の授業や説明会などがなかったので、こちらの課題の出題意図などが十分に伝えられなかった。なかなかそんな丁寧な取り組みは難しいかもしれないけれど、双方のためにも、課題の出題意図や学生になにをしてほしいのかを伝える時間はあったほうがよいなあ。

さらにもう1つの原因は、「まとめなさい」「説明しなさい」という論題では、(題材にもよりますが多くの場合)回答のための素材がたやすく入手でき、さらにその素材を加工しなくても、そのまま書き写したり、コピペするだけで、論題に答えることができてしまうということにあります。手間をかけて調べたり考えたりしなくてもはるかに低いコストで、同じ回答、あるいはより良く見える回答が簡単に入手できてしまうならば、自分で考えようという動機を学生が持つことは難しくなります。*2

その通りで、前提となる授業なしに、いきなり「まとめなさい」「説明しなさい」じゃ、そりゃあやる気も出ない(「この論題でコピペせずに何をすればいいの?」)し、ネットで調べればコピペをしたくなるようなそのまんまの説明なんかがごろごろ出てくるのだ。

倫理的な問題はさておき、ネットを調べれば答えが書ける論題を問う意味はどこにあるのでしょうか。もはや「剽窃やコピペはいけない」という指導だけではなく、インターネットを活用することを前提とし、それでも問う意味のある論題について教員側が工夫をする必要があるのではないでしょうか。*3

 こういった文言を反芻しながら、単にコピペしたり、参考文献丸写ししたりではできないような、(私の授業を受けていない学生からしたら)ちょっとひねったように見える問いを設定することで、工夫を促したつもりである。

 

蓋を開けてみると

提出前に課題について聞こえてきた声を思い出すと、「難しそう」「文字数が多い」「わかんない」「自分の考えでいいならいくらでも書ける」などなど。

実際に夏休み前の提出日には95%以上の人が提出してくれた。

今回は単位を認定するか、しないか、の二択のシンプルな評価で、こちらの求めた課題を満たしていればOkにするつもりだったので、まずは第一段階クリアーでホッとしていたのだった。

 
実際に読んでみると

こちらの課題設定の甘さをいろいろ痛感した。

まず課題提出日の時期。夏休み前、というのは学期末の試験直後、でもある。当然、学生はまずは目の前に試験に追われて、そこから急いで課題を仕上げる。まあ、時期を一に設定しても直前にやる人はやるのかもしれないけれど、しかしこの設定の仕方だとそりゃあそうなるよね、という急造の内容があったこと。

次に課題の、「与えられた問いに対して、哲学者を一人選んで、その思想を紹介する」というもの。ここは、なんとうか、さきほどの引用にもあったような感じで、「この期限の設定で、文字数で、論題で、コピペせずに何をすればいいの?」というような心の声を聞いた気がした。

こちらとしては、ひねった問いに対する哲学者の答えをつなぎあわせるところで、個々人ががんばるのでは、と思ったのだけれど、そもそもの問いに工夫が足りなかったかもしれない。

たとえば、「嘘をつくのはいつでも悪いことか。」という問いだと、かの有名なカントの議論がネットで検索するとすぐに出てくる。だから、この問いを選んだ人は参考webサイトとして同じ方の文章を参照していた。そこに、カントの議論を、嘘についての問いに適用する、という工夫はなかったと思う。

でもこれはこちらが悪くて、この問いを考えた時にはカントの議論が念頭にあるわけで、ひねりがなかった。

あとは、課題の「1)および2)を踏まえて問いに対するあなた自身の考えを書く。」。

ここをメインにしてほしかったのに、文字数や割合についての言及や指示を全くしなかったために、さらっとここを通り過ぎてしまう人が結構な割合でいたのが、寂しい。しかし、これもこちらの指示や意図を伝えられなかったことに起因する。

そして、そもそも哲学者の考えをもとに自分で文章を書く、という「引用」の基本の作法を学生たちが知らなかったということ。おそらく「参考文献やwebサイトを載せないとコピペや剽窃になるよ!ダメ絶対!」とは指導されたことがあるのだけれど、それがどういう意味でよくないのか、そしてそれを踏まえてではどういう風に文章を書いていったらいいのか(書くことが求められているのか)、をそもそも丁寧に説明されてはいないのだ。

このことは、本校が高専という理系あるいは専門性をもった技術者教育を念頭にした授業を中心にしている、ということも関係があるのかもしれない。アカデミック・ライティングの作法は、大きくは変わらないと信じるけれど、各授業単位での「レポート」の意味としては、もしかしたら調べたことや授業で学んだことをとにかく四の五の言わずにまとめる、自分の意見や考察は後回しで、客観的な理解を求める、ことが中心かもしれない。というか、そういうことを求めるレポートも十分にありうる。

ただ、私のレポートでは、そういうことよりもあなたが問いに対してどう考えるか、考えたかを知りたいんだ、そういうタイプのレポートなんだ、ということを伝えるのだった。だからこそ、哲学者の考えと自分の考えを引用の作法を適切に使って切り分けなくてはいけないんだ(別にどんなタイプのレポートでも本来はこの作法は適切じゃなくちゃいけないんだけれど、ほかの高校や高専ではどの程度ここを徹底して教えているのあだろう)*4

 

 

教員にとっても学生にとっても有意義なレポートをば

総合的な反省事項としては、もっと準備すべきだなあということ。

 

 

よいレポートが生まれるためには、学生を、「剽窃やコピペを繰り返す悪意をもった者」としてとらえるのではなく、 「積極的に学ぼうとする主体」ととらえるのがまず重要だと思っています。そして、学生のその主体性が充分に発揮できるような環境設定をすることが何よりも重要だと考えています。

そのとおりで、でもだからこそ難しい。

まず、一生懸命出した(つもりの)レポート課題を延々と読んでいるなかで、不満な出来のものを見ると、そこに悪意を勝手に読み込んでしまいそうになって、学生の学びたさを信じられなくなってくるかもしれない。

それに、環境設定は、けっこうめんどくさい。学生のレベルを把握し、授業の意図と接続させ、場合によってはレポートの意図について説明する場を設け、出す課題がインターネット上に転がっていそうなものでないかをチェックして、、、みたいな話がある。

でも、やらなくては。

あと学生だけじゃなく、人間は悪意があるかどうかとは別に、なるべく楽な方へと傾きやすいのだ、ということは認めたい。

ずる――?とごまかしの行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ずる――?とごまかしの行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

この本はそういう感じが出ていて、面白かった。

しかも、案外単純なことでズルから遠ざかることもできる、可能性も書かれていた。 

誓約書の署名*5を申告や回答内容の上部にもってくると、ごまかしが減少する、というもの。

これらの実験結果を考え合わせると、署名は一般に情報を確認する手段と考えらているが、(そしてこの手段として大いに効果があるのは間違いないが)、用紙の上部に署名を求めることは、道徳心が薄れないようにする予防薬としてもはたらくことがわかる。*6

 これをふまえて、レポートのフォーマットにコピペしませんとかそういう文言を含む誓約文を表紙としてつけることを指示したらよいのでは、と思ったりしていたところ、似た先例がすでにあった。

新しいレポートの「指定の表紙」 – 江口某の不如意研究室

 

参考にしたいところ。

 

 

 

ちょっともう分量が増えすぎて、書いててつかれてきてしまった。

 

 

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

 

 

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

 

 

カフェパウゼで法学を―対話で見つける〈学び方〉

カフェパウゼで法学を―対話で見つける〈学び方〉

 

 

 

 

このあたりのものも参考にしながら、レポートを書いてもらう、ということの意味を考えつつ、後期の授業内でのレポートを意識したいです。

 

*1:上掲書, p. 45

*2:

*3:上掲書, p. 11.

*4:形式や作法について語ることは単に倫理的な基礎の話(技術者リテラシー)の話なのではなくて、そもそもの論題や出題意図ということと関係している、という話。

*5:「ここに記入した内容が真実であることを約束します」

*6:上掲書, p. 67.

「自分の思ったことを言う」というルール

毎回ルールを変えること

ありがたいことに色々なところで、哲学というものに初めて触れるような人たちと哲学対話をする、という機会がある。そこではたいていは哲学対話のルールを説明するのだけど、わたしは自分用の毎回決まったルールを持っていない。

 正確にいうと、そういうものがあったほうが、そしてそれを印刷してラミネートして持ち歩いた方がラク、という感じはあるのだけど、持てない。

だからいつも直前になって、今回はどんなルールにしようかな、と焦る。

 


別に、一人一回発言しなくちゃいけません、とか、オナラをしたら罰ゲーム、とか、わたしが手を叩いたら10回ジャンプとか、そんな新たなルールを構想しているわけではなくて、それぞれの場の人数や年齢や目的に合わせて、ほとんど同じルールでも表現を少しずつ変えてみたりする。あとは、シンプルにやりたいときは2つや3つのルールでやることもあるし、あえて「意見が変わってもいい」や「わからなくなってもいい」を明示することもある。

 
ルールがブレブレなんてどうなんだろうと思わなくはないけれど、どこでだれとやるかが違うのだから変わって当然な気もする。

   

さて、今回、某小学校に伺うに当たって、アーダコーダの川辺さんの本を読み返していて、川辺さんのこども哲学教室でのルールの文言で、今までほとんど通り過ぎていたのだけど、改めて見ると気になるものがあった。

参考までにNPO法人こども哲学・おとな哲学アーダコーダで紹介している5つのルールを書いておきます。

ルール

  • ひとが話しているときはきく
  • 相手が考えているときは待つ
  • 自分の思ったことを言う
  • ひとの嫌がることをしない
  • 何も言わなくていい*1 

  

 どれもパっとみると、哲学カフェとかでもよく見かける文言を、川辺さんのこどもたちへの目線から、すうっと入ってくる言葉づかいに変えられたものなんだ、というくらいに理解していけそうな気もする。さすが川辺さんだ。

でも、なんとなく今回見返して、「自分の思ったことを言う」ってなんだ?という気になった。ので、書く。

  
自分の思っていないことも人は言えるのか

自分の思ったことを言う

うんうん、って感じもするけど、頭の中に疑問が湧いてきて立ち止まってしまいそうになるルールでもある。


そりゃあ自分が言うことなんだから、自分が思ったことを言うよ!というか、思わないなら言えないよ、と思う。今そう思ったから言えたんだ(書けたんだ)。だから当たり前すぎてなぜそれがルールなのかわからない。自分が思っていないことを自分が言う、ということなどあるというのか。

 
いや、まあでも冷静になれば思い出すのは、「思ってもないようなことを言う」という表現がすでに私たちには意味の通るものとして通用していることだ。

それに、この文言を敢えてルールに入れようと思う気持ちはわかる。

第一に、大人も子どもも、なにかを言うとき、場の雰囲気や周りの視線をとても意識する。子どもなら、学校の先生、周りから見ている親、今微妙な関係にある友だち、などさまざまなものへの配慮などから、「思ってもないようなことを言う」のだ。

第二に、哲学カフェなどのルールでもよくある「専門用語を使わない」「自分の言葉で話す」との関係でも、わかる。問いについて考えを言うときに、「だれだれが言っていたんだけど」とか「テレビで見たんだけど」とか「デカルトによれば~」とか、が枕にくることがある。そこでも、おとなも子どもも自分が「思ってもないようなことを言う」ことがある。

 

哲学対話の場では、上記のような意味での「思ってもないようなことを言う」ことが(そういえばなぜだか)歓迎されない*2

なのに、学校は特にそうだけれど、それ以外の様々な対話の場ではとても、とても「自分の思ったことを言う」ことが難しい。

中川さんのこの言葉が響く。

私は不思議な方向から学校に関わり始めた。確かに、初めから教員免許をとる気ではいたのだが、なかなか学校の教員になるという選択に前向きになれなかった。自分が経験した学校は 〈本当に考えていること〉を話せない場所だったからだ。そういう窮屈な場所を自分がつくるのだと考えると嫌になった。*3

だから、当たり前(というか、そうとしかできないよう)に思えるような「自分の思ったことを言う」がルールとして提示されるのだ。

 

「今の発言はあなたが本当に思ったことかな?」

だから*4多分、「自分の思ったことを言う」というルールは、瞬間瞬間で自分の思いついたことを瞬発的にすぐに言うことを奨励するようなスピーディーな対話を志向しない。

むしろ、今自分の心のなかに思いついた考えは、本当に自分が思ったことなのか、というような精査を含むような、ゆっくりとした進み方を要求するのかもしれない。

 

もちろん、これは対話を通してやればいいのであって、すでに話されたことについて、

今の発言はあなたが本当に思ったことかな?

 聞いていく、というのがありうると思う。

この質問ばかりが飛び交うのもなんだか異様だけれど、実は私たちがなにかを発話する、ということは思ったことを言っているようで意外とそうではない、のだ。

だから、丁寧に、お互いがお互いに、「それは本当に私が/あなたが/私たちが思ったことなのか」と問いかけながら考える、という可能性がある。

 

...
でもこれは参加者に対して、というよりも教師やファリシテーターであるときの自分に対して課すべきルールかもしれない。

 対話をしながら、自分は自分に

それはお前が本当に思ったことなのか

 と問われているし、問いかけている。

この前は、自分の思ったことが言えていたかな。

 

 

 

パレーシア?

ブログを書きながら、関係があるのかなあと思っていたのは、こどもの哲学を論じるときにフーコーの「パレーシア」についての議論を参照する人たちのこと。

 

まだちょっとうまく関連づけて論じることはできないのだけれど、

実際は「自分の思ったことを言う」というルールを設けたくらいで、自分の思ったことは言えるようにならないだろう。

そこで中川さんは、それでもなお「考えたことをや感じたことを率直に語るのが難しい」「学校という場」で「あえて<率直に語る>ことがそういった様々な問題を乗り越える力を持っているのではないか」という立場に立つ。*5

 

これは安心した場でなければできないし、かつ勇気がいること。

学校のなかに学校のそとをつくる

 学校でやる哲学対話のスローガンとして私が一番気に入っているものの一つをさらに思い出す。

 

このこともまたどこかで考えましょう。

 

f:id:p4c-essay:20180913123840j:plain

*1: 

自信をもてる子が育つ こども哲学 - “考える力

自信をもてる子が育つ こども哲学 - “考える力"を自然に引き出す -

 pp. 14-15.

*2:「自分の思ったことを言う」ルールは、「自分の思ったこと(だけ)を言う」のであって、「自分が思ってもないようなことは決して言ってはならない」ということですか?論理学わかんない。

*3:
www.jstage.jst.go.jpp. 15

*4:どう「だから」なんだ

*5:上掲, p. 16.