窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

五月病になりつつ高専で社会科を教える

五月病

GWも明けてしまって、今週はこちらも少しずつマンネリ気味だったり。

とはいえ、月末には最初の試験が近づいて来ているし、授業のストックも切れつつあるし、それぞれの教室の雰囲気に合わせて授業の見直しもしていかなくちゃいけない。

 

哲学対話も毎回ではないけれど試行錯誤しながらやっています。

そして哲学対話をするとやっぱり教室のいろんなことがあらわになります。

最近読んだ某本*1にもこうあります。

普通の学校の授業で、教科の内容を勉強し、それに関連することを話しているだけなら、あるいは教師や大人のコントロールの下で発言が管理されるなら起こるはずのないことが、そこでは起こる危険がある。自分の家庭や今までの生活のこと、今切実に感じている思いを話すこと、誰かのそうした発言に応じて発言し、思わぬ形で相手の人生に踏み込んでしまうこと、コミュニティボールを使った対話では、教師が発言をコントロールしないことによって、ボールが渡る人に偏りが生じるなど、授業では見えないクラスの人間関係の綻びが見えてくることもある。*2

私の場合は、いわゆる「授業」でやっているとはいえ、ボールを使って、なんでも話してよいよと言って基本的に放っておくと、「綻び」もよく見えるし、いろいろと不満も出てくる。

きっと他の先生方からすると、かなり危うくて「脆い」実践で、その割に目に見える実りが少ないものに見えるかもしれない。もっと管理しておけば楽なものをなぜわざわざ綻びを露わにするのかと言われるかもしれない。

でも、先の著者も述べているように*3、その「脆さ」から始めることしかできないようにも思っている。

 

あるクラスではこういう問いの提案もあった。 

学校とか教員の管理的な発想の脆さとか危うさを付いてくる問いだと思う。

恐れずやってみたいな。

 

クラスという単位のこととか

上記のことと関連して、気をつけているのだけれど、自分としてもしてしまいがちな思考が、授業のしやすさとかをクラス単位で語ることだ。

学校の先生って、すぐ「あのクラスはやりやすい」とか「あのクラスは問題だ」とか(教員間で)口にする。

もちろん、そりゃあ今の制度だと仕方ないし、確かにやっぱりクラス単位で授業のやりやすさ、やりにくさ、とか雰囲気って感じるのだけれど、なんか本当は学生が個々で見てあげたいのに、クラス単位でしか見れないってとても寂しい。

それに、哲学対話とかをやってみると、やりやすいと言っていたクラスにだって、いろいろな綻びがあることだってわかるし、問題があると言われることがあるクラスにもまっとうな主張や合理的理由があることもわかる。

クラス単位でなにかを決めてしまうほど、単純ではないのだ。

繰り返しだけれど、現状ではどうしても教室に入ったときに感じる空気感とか、そういったものが授業者側に与える影響ってやっぱり大きいので、クラス単位で印象を抱くのはしょうがないのだけど、それだけで40人の個人を見失わないようにはしたいのだ。

読んだ本:『高専教育の発見』と『哲学しててもいいですか?』
高専教育の発見――学歴社会から学習歴社会へ

高専教育の発見――学歴社会から学習歴社会へ

 

そんなこんなで高専で少しずつ教えつつある自分にとってなんともタイムリーな本。昨年の高校の同僚に紹介してもらいました。ありがとうございます。

 

これまで公の統計などでもほとんど注目されてこなかった(高専を客観的に論じるエビデンスがなかった!)高専教育の成果や実態に対して、著者らが「高専卒業生キャリア調査」を行い、それをもとに編まれた論考。調査対象は13高専、アンケート送付は1万2000件近く(回答数は28%)にもなるという大規模な調査に基づいている。

 

私のまだまだ拙い実感を補強してくれる結果もあれば、新しく知ることもたくさんあり、とても勉強になった。これからの高専での授業や教育、制度について考えるときには、大変重要なエビデンスになるし、個人的にも研究でお世話になることがありそう。

 

たとえば、一般科科目に在学中関心をもっていた人たちのキャリア形成とか、在学中およびそれ以降に専門書以外の思想書などを読むことを続けている人の就職後の満足度とか、そういうものも見えてくることになる。高専での学びが社会に出てからどれくらい「役に立ったか」と考えているか、もわかる。

 

このあたりは、技術者養成を目指した高専で、あえて社会科、特に哲学や倫理を教えることの意味を論じるうえで、常に参照すべきものになりそう。

 

ありがとうございます、ありがとうございます。

 

 また、時間があればこの本だけで一記事書かないとな、という感じ。

 

哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

 

 高専教育が「役に立つか」という論点を先の本で見たときに、連想したのが、四月の前半に読んでいたこの本。

著者自身の大学教育の場での実感を出発点にしていて、うんうん、と思うことも多い。

 

哲学をはじめとする文芸学部不要論に対して、著者は

 

哲学が「手に職をつけたい」と願う人びとの要望に応え、「箱の中ですぐに通用する」何かを提供するわけではないということが、即座に「哲学は社会の役に立たない」ことを意味するわけではない。*4

という立場から主張を展開している、と思う。

 

哲学は役に立たないけど役に立つ、確かにそう言えると思う。

 

授業をするうえで、なんで倫理や哲学を学ぶのか?という当然の疑問に答える必要があり、日々試行錯誤している身からすれば、次の授業での説明の助けにさせてもらいたいものも多くあった。

一方で、先の「高専教育役に立つ問題」と合わせて考えると、高専教育における哲学・倫理は、実際すぐに技術者として就職していく人たちを前に、「役に立たないけど役に立つ」というだけで、済むのか、という問題は自分のなかに残っている。現時点で、基本線は、大学教育でも高専教育でも変わらないとは思っているけれど、自分のおかれた立場で、目の前の学生たちに対して、授業をするうえでは、本書を読みながら、また考えてみなくては。

 

 

......

人文学が役に立つのか問題に関しては、最近はネット上で某研究費をめぐっていろいろな言説を目にして、心が日々ざわざわしています。

 

*1: 

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

 

改めて感想は別途書きます。

*2:鷲田清一監修, 高橋綾・本間直樹著『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』, 大阪大学出版会, 2018, pp. 342-343.

*3:同書, p. 343

*4:三谷尚澄著『哲学しててもいいですか?文系学部不要論へのささやかな反論』ナカニシヤ出版, 2017, p. 134

GWといただいた本など

GWでした

 

GW前半は車を買ったり(!)、空手を再開したり(!!)して過ごしました。

 

GW後半は家でのんびり過ごしたり、近くの商業施設に来たコウメ太夫を見たりしました。

 

温泉にも行きました。 

 

中原中也記念館にも行きました。

湯田温泉は中也の故郷です。

あゝ おまへはなにをして来たのだと••••••

吹き來る風が私に云ふ

「帰郷」では20歳で帰省中の中也に故郷の風が語りかけるのでした。

 

妻の知り合いの知り合いが学芸員としていらしたらので、ご挨拶もできてよかった。

 

 

 

 

 

 テレビでも有名な女将劇場、70歳超えの女将とサポートをするおばちゃん二人と、無表情で太鼓を叩いたり踊ったりして一緒に芸を披露してくれる若いみなさんの調和が最高だった。すごい芸とくだらない芸が混在していて、どう受け止めたらいいのか頭がぐちゃぐちゃになりながらいつのまにか女将ワールドに飲み込まれたしまう感じ。1時間めちゃめちゃ笑って元気をもらいました。

 

女将がずっと笑顔ですばらしかった。

 

落ち込んだらまた見に行こう。

 

 

  

いただいた本*1など
この世界のしくみ 子どもの哲学2

この世界のしくみ 子どもの哲学2

 

著者のお一人からいただきました。ありがたい。*2

前回のブログでも書いたように、この第一巻は先日授業で使ったばかり。小学生向けの文章だけど、「考える」という意味では中高生と一緒に考えるきっかけにしたって十分。3人の考えを踏まえて、さらにそれを乗り越えたり、そこにはない視点を出しましょう、という課題を出したとしたら、多分かなりムズイ。

本作はマツカワさんが加わり、パワーアップしているし、「無知の知」「人間は考える葦である」「我思う故に我あり」という、「私が哲学する」うえではとても大切な哲学者の言葉についても、ほかの問いと同じ形式で考えてくれているのもよい。難しすぎない言葉で、哲学者の言葉について、単なる解説じゃなくて考えてみてくれるのはとても貴重だと思う。

ゴードさんによる「はじめに」、ツチヤさん*3による「おわりに」も必読。

 

ぼくたち、なんで生きているんだろう 実況「子どもの哲学」教室

ぼくたち、なんで生きているんだろう 実況「子どもの哲学」教室

 

 私自身も二年間(だったかな、忘れた)ほど関わらせていただいた神奈川県関東学院小学校でのこども哲学の実践でのやりとりから生まれた本。本のなかで、膠着した対話を、自分の恋人の話を出すことで切り抜けたアシスタントとして登場するのが私です。

 

著者である杉田さんは本の紹介ページによれば「二つの小学校で哲学の授業を始めて6年」になるという。そう、実は関東圏で相当初期*4からこどもの哲学をやっている学校の一つがここなのです。回数は決して多くなくて、私がかかわっていた当時で年間6回程度でしたが、4,5,6年生で実施させてもらえたことで、計18回。こどもたちにとって「哲学」という言葉が身近に感じられるようになるには十分。

 

ちなみに杉田さんのファシリテーションは、達人技。(ご自身ではこどもたちの声が聞こえづらいことを理由にされているけれど、)20数名のこどもたちの円の真ん中に立って、その場で出た問いとこどもたちの発言を受けて、自分も考えて、おかしな考えがあれば率直に批判し、うるさい子どもたちにはときに叱る。でも全部、一緒に真剣に考えようとする姿が伝わるから、そこには「哲学」が生まれる。そんな時間でした。

 

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こちらは書籍ではないけれど、東洋大学京北中学高等学校で行われている「哲学教育」および毎年の学習の集大成「哲学の日」についてまとめた冊子とDVDを担当の先生から送っていただきました。ありがとうございます。ありがとうございます。

 

個人でコツコツ、周りに疑問符をたくさん突き付けられながら哲学教育をするのも大変だけど、学校全体で哲学の旗を掲げてやるのって、やっぱりすごく大変なんだろうと思う。

 ・ふだんの哲学の授業を専門の教員だけでなく多くの教員が担当されて取り組まれていること

 ・ゲストを読んでのトークセッション

 ・生徒を審査員にした哲学エッセーコンテスト

 ・(それだけならよくありそうな)課外学習を「哲学」と絡めて行うこと

それでもどんどん進化している取り組み、ゆっくり勉強させていただきます。

 

 webでも当日の様子や取り組みが読めます。

第3回「哲学の日」を行いました | 東洋大学京北中学校

 

 

仕事再開

さあ五月の後半には初めての試験もありますし、研究活動もさすがにスタートさせなくてはいけません。無理は禁物ですが、少しずつがんばります。

*1:今回よりamazonアフィリエイトとの連携をしています

*2:実はもらえないかも、とも思っていたし、もらうのを待つのも悪いので、個人的に注文していました。家に二冊あるので、一冊は甥っ子にあげます。甥っ子の一人は前作を一緒に読んできになった問いの気になった著者一人に向けて、反論を含む手紙を書こう、という勉強もやった。本人にお渡しし、お返事ももらった。その節はありがとうございます。

*3:前作では「コーノくん」「ツチヤくん」「ムラセくん」だったのに、今作では全員「さん」付けになっている。ジェンダー

*4:といっても6年だけど

ああ、教室という箱の力よ

4月最終週:締め切りを守れました

今週は某書類の締め切りが半ばにありましたが、なんとかできました。

 

今週も哲学対話

あとはコツコツ授業をしつつ。哲学対話も、学生さんたちに問いを立ててもらってやってみる。

某先生、先輩方によるこども哲学本のなかから一節を読んで、そこから問いを出す。*1

子どもの哲学 考えることをはじめた君へ

子どもの哲学 考えることをはじめた君へ

 

 

まだまだ、深く深く考えられてすごい!というよりも、みんなで考えるのって難しい、ってことを実感してもらう部分も大きいけど、そういうものだし、実はそれしかできない、くらいに思って続けてみよう。

 

「子どもの自由を大人が決めるものなのか」

 この問いは、あるクラスで出たもの。

最初は私はよく意味がわかんなかったのだけれど、子どもが自由にできる範囲を大人たちの裁量で決めてしまってよいのか、といういわば「籠の中の鳥」的な話だった。

グループに分けたりして話をしてもらうと、かなりの学生が(自分たちのことをゆるやかに子どもの側に置きつつ、)

「大人が決めるのはしょうがない」

「子どもはまだ判断力がないから、そういうものだ」

 

という意見が多くて、もどかしかったので、「じゃあ担任の先生に席替えとか、制服とか、髪の色とか、コントロールされるのはいいわけ?」と聞いてみると、それは嫌だと口々に。

学校の先生をやってい側の人間が、先生たちによって日々「指導」を受けている学生たちに向かって、「大人にいろいろ指導されておかしいと思わないのかよ!」と言うのは、なんとも微妙で、なんとも無責任な言動かもしれないのだけれど、あえてやってみるのでした。

 

教室で、授業のなかで、先生でいることにいかに守られているか

 上の話とゆるやかにつながるのだけれど、授業時間になって教室に行って教卓を挟んで学生の前に立てば、なんだかんだいってもまあ話は聞いてくれるし、指示をすれば(もちろん程度の差はあれ)ついてきてくれる。そういう安心感に守られて、教室でははっきりと大きな声が出せていると思う。聞いてくれるのをいいことについついいい気分で話してしまう。もしかしたら自分は(下手くそなりにも)授業を進めるのが上手なのかな、と思ってしまったりもする。

 

でも、それは教室で、授業のなかで、教卓を挟んで、授業をちゃんと受けないと成績を下げるという圧倒的な力をもった「先生」としているからこそのことなのであって、自分の力でもなんでもないのだ、と思う。

 

それを痛感するのは、授業外の別の場面で授業では会わない学年の学生と接して指導する必要のある場面。授業中なら、あんなに話せたのに、教室外で面と向かってみると、声が喉をつっかえるし、(教室以上に)なよなよ、してしまう。

 

ああ、教室という箱の力よ

 

いや、そこまでわかっているなら、教室外の指導の方をもっとちゃんとしなくてはならないのだけど。ごめんなさい、ごめんなさい。

 

もちろん、学生指導という観点なら、教室でやれているように外でもちゃんと「先生」しなくてはならないというわけだけど、どうしても逆のことも考えてしまう。

 

教室外でなよなよしてしまうなら、むしろ教室という箱で自分が四十人の学生に対して偉そうにしゃべっている、そちらの方が変なのだと。このギャップは、教室外ももっと「先生」らしくする、ことでも解消できるけれど、その逆で、教室での授業をもっと、なよなよするというわけではないけれど、なんというか、ふだんどおりの声でしゃべることでも解消できるのではないか、とも思ってしまう。

教室というのは「大人が子どもの自由を制限する」大変象徴的なケースなのだから、そこに自分自身が疑問をもつのなら、行うべきは後者の解消法な気もするのだ。*2

*1:第二巻本も出ていますよ!

この世界のしくみ 子どもの哲学2

この世界のしくみ 子どもの哲学2

 

*2:いや、まあしかし、そもそもそんなギャップ埋めなくてもよい、という風にも言えるのかもしれない。授業では怖い先生(あるいは話がつまらない先生)でも、廊下で会って話すととてもよい人(面白い人)だ、みたいなのはよくある話っぽい。