窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

「太陽は四角いのよ」とママが言いました。

 

今日は「ねこてつ」(ねりま子どもてつがく)さんにお声かけいただいて、親子で哲学対話。

 

全容はこちらから。

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ポスターを作って、告知や会場もとっていただいて、年長から小学3年生までのお子さん12名とその保護者の方達で計25名くらいと大盛況。僕は当日行って楽しくお話しして帰ってくるというなんとも役得な日曜日でした。

 

 

題材選びから結構クレイジーだった

 

今日は、まずは*1、みんなで「なんでもバスケット」をしてウォーミングアップをしたあと、

「太陽は四角い!」というタイトルのお話(これについては後述)と、「くいしんぼうのあおむしくん」という絵本から気になる方を選んでもらったのだけど、

かたやただのコピー用紙に字ばっかり印刷してるのと、素敵な見た目の絵本。

そりゃあ絵本が選ばれるのだろうと思っていたのに、僅差で「太陽は四角い!」が選ばれたのでした。

 

今日の参加者はクレイジーでした。

 

お話のあらすじ 

土倉の中でめんどりとひよこが飼われていた。めんどりはひよこたちに「「わたしたちは四角いお部屋で暮らし、四角い太陽を浴びて、最後は四角い鉄板に乗せられていく。それはとてもしあわせなことだ。」と教え、みんなはそれを信じてしあわせに暮らしていた。ある日1匹のひよこが脱走し、驚いて土蔵に戻ってきて、みんなに太陽は丸いことを教えた。他のひよこはそのひよこをいじめて目を潰した。そして皆で四角い太陽を信じて末永く幸せに暮らした。 – あの本のタイトル教えて!(児童書板)まとめ

 

そこから読み聞かせをして、問い決めをしたわけだけど、結構長くて絵もあまりなくて、複雑な内容なのに子どもたちがしっかり聞いて内容を把握してくれたおかげで、こんな問いが出ました。

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投票で負けてしまったかわいそうなあおむしくん。

www.ehonnavi.net

 

 

そとのせかいをしらないほうがしあわせ?

対話もとっても楽しかったのだけど、丁寧にまとめるほどちゃんと覚えていないので細かくは書きません。でも少しだけ。

 

ぼくは前半は、年長、小学1年生チームで、後半はそのチームにおうちの人を加えたチームで対話をしたのだけど、直前まで「興味なーい」って感じだったはずなのに、なんか急にスイッチが入ってみんなめちゃくちゃしゃべってくれた。圧倒された。

 

もう人間に食べられてしまって今は亡き母めんどりが命がけで12羽の子どもたちに伝え続けた「太陽は四角いものだ」という教え。それを頑なに信じ続けるのか、外を見てきた兄弟の「実は太陽は丸かったんだよ!」という経験を信じるのか。

 

子どもたち自身も「外の世界に出て本当のことを知ることは幸せなんだろうか」ということについて、そして「お母さんのいうことはいつでも信じなくてはいけないのだろうか」ということについて、すごく頭を使ってくれてた。

 

 

 

とてもとても楽しかったです。

コウグチさまはじめ、ねこてつのスタッフのみなさん、参加いただいたみなさん、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

出典のわからないなぞのものがたり

 

 さて、今日のお話、そもそも出典をコウグチさんもご存知ないらしい。 

 

クレイジーな参加者たちと日曜日の午前中にたっぷり哲学をしたその素材が一体どこの誰が書いたお話なのかがなぞ、というなんともこれまたクレイジーなおまけつきでした。

 

 

 

*1:正確にはその前に少しこども哲学の説明をしている。こんな話をしたつもりだけど、どれくらい伝わったかしら。

「こども哲学とは?」

おとなもこどもも一緒になって、みんなの気になる問題について、ゆっくり話して、よーく聞いて、じっくり考える時間です。

1+1=?2だよね。これには答えが一個しかない。もしこの答えを3て書いたら?間違ってるよね。今みんながいるのはなんて国か知ってる?日本だね。ここのことを言いや違うよ、ホニンだよとかニンホだよ、って言ったら間違ってるよね。みんなが普段考えてる問題ってこうやって答えが一個しかないものがあるね。

 でも今日考えるのは、そうじゃないよ。たとえば、友達ってたくさんいた方がいい?ってことを哲学では考えることがあるけど、これに絶対正解の答えはあるかな?あまりなさそうだよね。こども哲学では、こんな風に答えが一つにすぐは決まらないものを、みんなでゆっくり考えるよ。おとなもこどもも答えを知らないんだ。僕も知らない。こういうことを考えるのは、きっと楽しいよ!説明はここまで、とにかくやってみよう!

昨日の授業で言おうと思っていたけどどれくらいうまく言えたかわからないこと

昨日の哲学対話の授業のクラスは、今年最後の授業。10数回一緒にやってきたけど、僕の方から何か対話の中身以外で生徒たちに話したことはほとんどなかった。でも最後くらいちょっとは何か話してみたいと思って、行きの電車でメモしたことを残しておきたい。

 

.....

今日で二年生の哲学対話の授業は終わりです。どうでしたか。
 
哲学対話の授業ってみなさんにとってどんな時間なのでしょうか。他の授業と比べたらラク?楽しい?それとも話すの強制される感じがあってめんどくさい?
 
僕としては、この一年、特になにもしなかったと思ってるけど、でも哲学対話の授業がみんなにとって落ち着いて過ごせたり、楽しく考えることのできるとこだといいなと思ってやってたけど、どうだったでしょう。
 
哲学対話の授業は、考えようとしてればなんでもありだと思ってて、結構自由なことが多いでしょう。
この学校でもほかの授業では考えるっていっても、やっぱり先生の指示に従って勉強の範囲で考えるって感じになっちゃうと思うんだけど、哲学対話はぼくが授業としてだいたいのやることは指示するけど、実際に考える中身は結構自由なところがいいところだと思ってます。
 
だから、すぐには哲学対話やってみんながなにか力が身についたってことはないと思うんだけど、まあみんなは来年もやるはずだけど、哲学対話でやったような問いはバカにされたり考えるのが無駄な問いなんかじゃなくて、どれも大切な問題だし、それをときどきは人と一緒に考えるのは楽しいことなんじゃないかなって気持ちくらいはもってもらえていたらうれしいです。
 
で、今日が最後の授業なんだけど、あと一つだけ。
 
僕がこの一年みんなと一緒に輪っかに入っていて思うこと。
やっぱりだれかの話をちゃんと聞いて、それにちゃんと反応してあげるって難しいね。ちゃんと人の話は聞きなさいって言っちゃえば、すごくふつうのお説教みたいになるけど、そういうわけじゃなくて、やっぱり哲学対話の授業ではほかの授業なんかよりもしっかりきっちりしっかり人の話を聞いてほしいのです。なんでかっていうと、哲学対話の授業では、自分で考えたことを、自分の言葉で話すでしょう。それってやっぱり結構大変なことだよ。
 
でも人の話聞くのって難しい、僕だって難しい。僕が1番難しいのは、実は彼女の話を聞くことで。なんでかって、まあもうすぐ結婚するんだけど、いろんなことを決めなくちゃいけなかったり、お互い相手に言いたいことがたくさんあってさ。だから彼女がなにか話してるのはもちろん聞いてるけど、いつのまにか次に自分はなに話そうかとか、なんでこいつはこんなよくわかんないこと言ってるんだっていらいらしたり、ちゃんと彼女の言いたいことを理解しようとしてない、っていうのかな。だからケンカもするわけだけど。
 
まあそれはそれとして、ようは人の話をちゃんと聞くって難しい。でも哲学対話の授業でみんながしっかり考えるためには、みんながしっかり聞く姿勢をしてくれることがやっぱり絶対大事なのです。普段の関係の延長線で少しくらいヤジが飛んだり、いじったりするのは構わないけど、でも、話そうと思ってる人が、もう話すの嫌だなって思ったり、一生懸命話してもしょうがないなって思うような雰囲気は作ってほしくない。そこだけは大切なことなので、覚えておいてほしいし、来年もこの授業をやるときに意識していってほしいなと、思います。
 
はい。そんな感じ。
 
それでは、一年間ありがとうございました。
じゃあ、みなさんにお任せします!どうぞ!
 

.....

 

実際の授業ではこんな長々と話さなかったし、生徒たちに何をどのくらい伝えることができたかはなぞだけど、学校での哲学対話のなかで教師がどこでどれくらい出ていくかを模索するなかでの昨日でした。

 

......

 

その日の授業の問い。

 

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もう1クラスは「イケメンと美女の定義とは?」だった。黒板に問いを書いておいたのだけど、司会をしていた生徒が板書を使う際に消されてしまった。

 

どのクラスも生徒の中から司会をやってくれた子がいて、奮闘してくれた。

 

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あるクラスの司会の生徒はみんなの発言をこんな感じでメモをとりながら、とても的確に進めていて、「ファシリテーション」って感じだった。すごい。

授業中にみんなで食べるお菓子は格別か

先日のとあるクラスでのP4Cは、事前にグループで話し合いたいテーマややり方を決めてもらってのものだったのだけど、一つのグループはクラス全体で「授業中にみんなで食べるお菓子は格別か」という問いをやることになっていた。

 

この問いが決まった経緯はこんな感じ。

いろいろ話し合っている生徒たちに向けて僕が「他のクラスではお菓子を食べながら話し合いたいって案も出てるよ、」って言ってみる。

それに食いついた一部の生徒が盛り上がる。

僕が「でも、哲学対話の授業でお菓子を食べる理由はちゃんと言えるようにして、担任の先生の許可も自分たちでとってね」と伝える。

お菓子を食べる理由になりそうな問いを考え出して、先生に相談。OKをもらう。

やったぜ。

 

.....

で当日、進行役は生徒の一人がやってくれることになっていて、大人は対話に入らないでやるとのことだったので、僕は基本的にずっと円の外からみんなのことを見ているだけ。

 

クラスのほとんどの子が何かしらお菓子を持ってきていて、みんなで円になってガヤガヤお菓子を食べるところからスタートして、本当に15分くらいただお菓子食べるタイムである。

 

なんだかなあとも思うけど、少なくとも普段の哲学対話の授業とは違う雰囲気をみんなも楽しんでいたみたい。

多分普段の仲の良いグループで話しながら食べてるだけで、クラス全体でまとまってるわけではないのに、サークルのなかに漂う緩やかな一体感。

お菓子すごい。

 

 

お菓子を十分楽しんだ後に、哲学対話が始まって司会の子が、食べてみての感想を聞くところから始めてくれたんだけど、みんな、味は「普通」とか、「辛(から)かった」とか、そんな感じの反応で、あまり話は広がらず。

 

でも外から見てたらやっぱ授業中のお菓子って何かしら「格別」っぽい感じはあった。なんかみんなすごい表情が緩んでたよね。うん。

 

結局対話自体は停滞してしまって、司会の子や何人かの子がなんとか対話しようと奮闘しているのを時々こそっと応援をしつつ、円の外から見ていたのでした。

 

.....

今回の哲学対話は失敗だったのかしらと思うと、いやいやそうじゃないと言いたいし、こういう授業を生徒たちに任せた自分が失敗じゃないと強く言えないとやらせちゃいけない授業だったとも思う。

 

僕の授業はこういう失敗っぽい哲学対話をやりっぱなしにしておくことが少なくなくて、そこはもう少しなんとかして打率をあげていかなきゃいけないんだろうと思う。

今日は超哲学したぜ!って対話はそんなに多くなくて9番ピッチャーの打率くらいのものかもしれない。

 

でもそもそも学校の授業でやる哲学対話の打率が四月の開幕仕立てのころのリーグの首位打者のそれくらいだったらそれはそれで気持ち悪い感じもする。

 

だから少なくとも今回の授業がこの打率を挙げるためのなにがしかになってればそれで成功だ、って言いたいし、

あるいは打席に入ってりゃいつかはヒットを打ったり、時々はホームランが出るのだから、生徒と一緒に打席に入れたと思えればそれはそれでもう成功なのだ。

 

などと言ってみる。

 

...

ある先生にその日の対話のことを話したら、「全然いいじゃん。授業中にみんなでお菓子食べて対話するなんてやられたことないことやってみて、グダグダになるってわかっただけで、超面白いじゃないですか」(意訳)と言ってくださった。

 

ああ、もうそんな感想を聞いたら、励まされちゃいます。