窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

Thinking is fun!問題。

今年最初の中学校の哲学対話の授業だった。

 

とはいっても、今日もほとんど何もしていないし、そもそも来週以降の準備会だったので、対話はしていない。

 

「オーダーメイド哲学対話」と名付けた企画で、生徒たちに、どんなテーマや問いで、誰(生徒/先生)が司会(ファシリテーター)をして、どんな風に(素材を使うか、グループに分かれるかなど)を、グループで話し合って決めてもらって、できることなら授業全体をまかせちゃおうというもの。

 

こっちは今日も各クラス二つのグループが、ふざけあいつつも、少しずつテーマを決めて話し合っていくのを、時々茶々を入れつつ見ているだけだったのだけど、結構待つのももどかしくて疲れた。

 

でも結果的には、面白そうな問いややり方の案も出てきていて来週と再来週が楽しみである。

 

.....

さて、Thinking is fun!問題である。

 

考えるって楽しいことなのでしょうか。

 

僕にとっては、割とそういう感じはあって、やっぱり考えることって結構楽しいと思ったりする。

 

もちろん、切羽詰まっていてあれもしないとこれもしないと、アアァァァー、みたいなときに考えてるソレは別に楽しくもなんともないし、今にも泣き出しそうで叫び出しそうではある。

 

ここで言いたいのはそういうことではなくて、そういう切羽詰まった感からは少し離れていて、でもやっぱり自分が生きることにって大事な問題だなあと思われるものについて、自分の話をちゃんと受け止めてくれる人と一緒に考えること。そういうことはきっと楽しい。いや、うーん、でもだからと言って楽しいことをしたいからやる!わけではなくて、考えたいなと思うから考えて、で結果的に楽しい、って感じなんだけど、それは今回の本題ではない。

 

今日の授業では、どういう哲学対話をしたいか、という話し合いだったので、哲学対話をしていたわけではないのかもしれないけど、それでもワイワイとそれなりに楽しそうにやっているグループと、お通夜状態のグループがあった。

 

お通夜状態のグループは、男女が分裂しちゃって全然話ができないし、担任の先生もなんとかしようとしてくれるけど、それもそう簡単にはいかず、あの30分は、自分の学生時代の記憶にもあるけれど、いわゆる「アア、ダルイ、モウハヤクコノジカンガスギレバイイノニ、ナンデワタシガコンナメニ状態」だった。

 

僕はそんな様子を見つつ、ほとんど手伝わず、めんどくさそうに、でも責任感のある生徒がなんとか無理やり話を進めていって、決めてくれるのを頼りにしていただけだった。きっとあのグループの人たちは誰一人としてThinking is fun!ではなかったでしょう。

 

ため息ばっかり!

 

 

学校の教室のグループ分けとかってどうしたって、その日の一人一人の気分や関係にも左右されて、グループワークが全然うまくいかないことってある。だから哲学対話の授業のそれだけがダメなわけじゃないけど、哲学対話の先生として教室に行ってなお、同じことを再生産してしまうのは大変心苦しくもある。

 

そもそも毎週決まった時間に、授業として教室に行って、さあ考えましょう、何考えたい?自分たちで話し合って決めて!ってガンガン来られても、ワクワクしないよね。

 

なんで授業ってワクワクしないんだろう。

 

それでも、他の授業よりははるかに自由度が高いと思うし、そこで騙されたと思って、考えてみたら結構楽しいよね、ってのを期待していて、実際にそういう感じはそこそこの数の人たちに持ってもらえているという感覚もあるのだけど、それでもやっぱり教室で決まった時間にやる哲学対話を楽しいものにするのって大変。考えるのって、自分で気持ちの乗ったときに好きな環境でやるから楽しいのであって、さあどうぞと言われてもそんなに楽しくないでしょう。

 

 

それでも、それでも、他の授業と比べたらはるかに授業っぽくないでしょう、楽しそうでしょう、リラックスできそうでしょう、考えるのって本来こういう自由なことなんだよ、楽しんだよ、って言いたい。でも、そういう体裁をとりつつ、やっぱりこれはあくまでどこまでも哲学対話の授業なのでした。

 

 

 

ほらほら、ごらん!これが哲学です!

哲学的創造に自主的にかかわろうとする人による秘密の集まりに行って、その会の名前を決めてきた。

 

専門の東西・時代を問わず、広く哲学を「「哲学とは何か」の再定義の営みを必然的に内包する」ようなものとして捉え、集まった人たちで細々とやっていくよう。

 

どんな会になるのだろう。本当は色々その集まりに参加して思ったことがあるのだけど、うまく書けないのでそれはまた会ったときによければ聞いてください。

 

... 

さて、

 

来年から自分がどうなっていくのかわからないのだけど、所属する大学も無く、後ろ盾にする立派な哲学者もなく、博士学位もなく、無防備に「哲学しようぜ!」とか言ってお金をもらう人になりそうではある。

 

 

ゼミの先生に常々言われていた。

 

私たちは東大や京大じゃなくて一私立大学なのであって後ろ支えになるものはないのだから、学会に出かけて行っても、もうとにかく自分はそのテキストを誰よりも深く時間をかけて読んだんだってことだけを頼りにやってくしかないんだ。だれかにそこの解釈はちがうって言われてもちゃんと自分が時間かけてやってきたことをもとに胸を張って答えられるくらい、それくらい勉強するしかないんだよ。

 

って。

 

 

 今や、頼りにするテキストもない。それでも大人にも子どもにも「哲学しましょう!」って胸を張って言っていくためにはどうしたらいいだろう。

 

周りから「テキストも読まずに、ただただ子どもや大人と対話をするだけ、なんてそんなの哲学じゃないよ!」って言われても、「いやいやこれが哲学です」って胸を張って言えるだろうか。

 

 

いや、でもでも、「これが哲学です!」って胸を張って言い出した途端に、それはもう哲学とは別の何かに向けてずれ始めている気もする。

 

むしろ「はいはい、そうなんですよ、こんなの哲学じゃないかもしれないのですよ、僕もよくわかんない、いつも考えてるけど、わかんない。一緒にそれも含めて考えましょうよ。はい、でお金ください。」のほうが正直ではあるが、なぜお金をもらえるのかはなぞである。

 

でもとにかく、固くなりすぎず、しなやかに、ゆるやかに、哲学する人でいたい。

...

 

行き着く先はきっと、「哲学の専門性とはなにか」、といういつもの問題だ。

 

少なくとも現時点で自分の考えとして言えるのは、それはたくさん物事を知っているという知識によるのではないということ。哲学の専門性は、考えるということの形式のうちにある。批判的思考。問題っぽくないところに問いを見つけ、それを整理して提示し、粘り強くあきらめず考えるような態度というか、姿勢というか、そういうところに現れてくるもの。だから目に見えないし、測れないし、めんどくさい。

 

...

 

このエッセイを書くのは、自分自身の活動の整理のためでもあるけど、哲学の専門性とは何かを考えるためでもあるだろう。あんまり大きな話はせず、むしろ自分の身の回りに起きたことについて書くのが大事だと思っているので、今日みたいなよくわからない話はあまりしないようにします。

 

今年もお世話になりました。楽しい一年でした。

 

来年は楽しみなこともたくさんあるけど、不安もいっぱいです。

来年もどうぞよろしくお願いします。

サンタクロースをだれも信じなくなること

クリスマス。教会に行って賛美歌を歌ってきた。

 

...

10月に親子参加の子どもの哲学があった。

 

問いは子どもたち(小学生)が出した、

・サンタクロースっているの?

・なぜ大人になると働いてお金を稼がないといけないの?

・子どもの名前を大人はどうやって考えているのか?

・大人のいうことを子どもは何でも聞かなきゃいけないのか?

から「サンタクロースっているの?」が選ばれた。

 

親子で話すには大変ふさわしい話題かなと思ったけれど、最初に全体で特に子どもたちに、サンタクロースはいると思う?と聞いたところほとんどの子がいない、ないしわからないと答えて、そこからはその理由として、「だってサンタは煙突から入ってくるけどうちには煙突がないもん」とか「サンタからの手紙は日本語だったもん」とか「1日で全部の家を回れるわけがないもん」とか、冷静な意見がたくさん出た。親はそれに反論するというより、苦笑いしたり、親の側の想いをうっすら話したりするような展開で、親と子に分かれて対話をする時間、最後にもう一度全体で輪になる時間を設けたけど、議論が噛み合うって感じではなかったと思う。でも、実はお互い本音を話しているようで、家に帰ったあと本当に気まずくなるようなところまでは子どもも踏み込まないし、親もそれは同じ。

 

親も子も色々なことに気を使いながら対話をしていた。

きっと子どもはサンタがいるなんて確信していないけど、まあいるということにしてクリスマスプレゼントはもらっているし、親も子どもが信じきっているわけじゃないことをわかっているのにサンタに頼んでプレゼントを渡してもらってる。そんな感じで、お互いにだましだまし生活していることが、対話の場で露わになりつつある感じはとても緊張感があった。

 

周りの人たちもよく指摘しているけれど、子どもの哲学にはそういう「わざわざ今ここで問い直さなくても...」と言いたくなるような問題を私たちの前に引きずり出してきて、めんどくさいことにする、ような可能性がある。もちろんそういう既存の関係性の変容が対話の場で起きることに意味があるとも思いたいのだけど、どこでも誰にでも哲学しようぜっていうのは、やっぱり暴力的でもある。

 

 

...

あの対話を経験した家庭は、今年のクリスマスをどういう風に過ごしたかな。対話をしたことで何か変わったかなと思うこともあるけど、きっと考えすぎで、おそらく淡々とサンタクロースは枕元にやってくるのでしょう。

 

 

...

子どもに哲学をできるようになってもらうことを目指すことって、たくさんの小学生が「サンタはいるのか」について疑い、それには証拠があまりないから信じないぞ、騙されないぞ、って感じになっていくことなのだろうか。

 

もし子どもの哲学を突き詰めてやっていくことが「信じる」ことの価値を下げることだとしたらそれはイヤだな。きっとそうならない方法があるはずだけど、というか一生懸命哲学してたら、信じることの領域がしっかりわかるはずだから、大丈夫なはず、と信じてみよう。