窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

ふつうじゃない

昨日は、某所でのこども哲学にかかわりたい人のための講座のお手伝い。

様々な職業、年齢の方がたくさんお集まりいただいて、いつもとても盛況で、いつの間にこんなことになったのだ、と驚きつつ、毎回楽しく過ごさせてもらっている。

 

講座の内容はいちいち書かないけれど、受講者の方達からいただく質問が核心をつくものばかりだし、こちらもいつも悩んだり、お酒を飲みながらみんなと話しているようなことばかりで、一生懸命自分もその場で考えながら、嘘のないように、定型文的な回答にならないように、応答したいと思っている。でも、うまくできているのかわからない。

 

最近は、やっぱちゃんと考えたいと思っている人からの質問や問いかけには、こっちらもう知っていることの範囲でさらっと答えてみせることよりも、こちらもその場でなるべく丁寧に考えながら答えたほうがいいよなと思っている。だって、さらっと答えられることは、どこかを調べれば書いてるんだよ。目の前に問いに対しては、目の前で一緒に考えたい。

 

前置きはおしまい。

こんな質問たちでした。

 


  • こども哲学とおとな哲学にちがいはあるのか?
  • 対話の場で騒いでしまったり、落ち着きがない子など他の子が考えることを妨げるような子がいたときに、どうやって対処したらいいか?こどもの哲学では多様性は大事なことだとは思うのだが。。
  • 今、哲学をすることが必要だと考える理由や背景は?
  • なぜ哲学プラクティスのなかでも子どもを対象にするのか。
  • 対話の場にはルールが共有されているが、社会ではそうではない。対話の場と社会の場では大きなカベがあるのではないか?そこを接続することはできるのか?
  • こどもの場合、対話のあとに何かスッキリした感じや、やってみてよかったなという感じを持たせてあげたいと思うのだが、それを与えてあげるためになにかアイデアはあるか?
  • 対話において板書をすることのメリット、デメリットとは?
  • 昨今話題のアクティブ・ラーニングとの接点はあるのか?
  • 哲学対話において沈黙は安全なことか?
  • 実際、どれくらいの沈黙がこどもとの対話の場面では起きるのか?
  • 対話の導入をどうするのがよいか。問いが決まったら、そのままそれを投げかけてしまうだけでよいか?もう少し何かファシリテーターとして対話を始めるためのきっかけを用意すべきか?
  • 低年齢の子どもたちだとたくさん話しすぎる(、そして人の話が聞けていない)ときどうすればよいか?
  • 学校の授業で取り入れたい場合、対話そのものの成績評価をどうすればいいのか?
  • 対話の場では自分の出した問いではなく、他人の問いが選ばれることが多い。子どもたちに他人の問いを問うことができるのか?
  • 哲学対話をやったことのない子どもたちに対して、探求に向けて誘うための工夫などはあるか?
  • 子どもはなかなか「考えることが楽しいよ」といったくらいでは前向きに参加してくれないこともある。なにかこども哲学をするとこんなことに役立つ、というような理由を説明してあげたいのだが、どう説明していくことができるだろうか?
  • 子どもが参加者としている場で親がファシリテーターをすることはできるか?
  • 親が子ども哲学の場を見学したいといったとき、安全性のことを考えたら断ったほうがよいと思うのだが、うまい断り方はあるか?
  • 哲学対話と話し合いを明確に分ける違いはあるか?
  • ママ友どうしなど、同質性の高い集団での対話を行うと、関心や思考が似通っているためもあってか、うまく対話が展開していかないことがある。うまい問いの決め方のコツはあるか?
  • 狭いコミュニティ内(たとえば、田舎の学校の複式学級など)で対話をするときに、関係性が固定化してしまうことがある。いつも司会っぽいことをする子、たくさん話す子、あまり話さない子といった関係が崩れていかない。どうしたらいいか?
  • 一人の子がずうっと続けてしゃべっているとき、なにかファシリテーターとしてできることはあるか?

 

 

ああ、すごい。これはたくさんあった質問から選び抜いたわけじゃなくて、そこでなされた全ての質問を基本的にはあげているのだ。それでこのクオリティだぞ。

 

ふつうじゃない。

クレイジー*1

 

.....

ふつうじゃない話。

その講座では実際に哲学対話を体験してみる時間がかなり多く取られている。

僕もたっぷり対話に参加したのだけれど、一つの問いは「ふつうとは何か?」だった。

 

少人数で色々楽しく考えているうちに、僕も話したくなってしまって、自分が高校で哲学科に入ろうと決めたあたりから、一般的には「ふつうじゃない」と見えるような筋にずんずん進んでいる、別に後悔はしていないけど、同世代の「ふつう」(働いていることとかボーナスがあることとか子どもがいること)からずれていることはいつもどこかで意識していた、という話をした。

 

そのとき、僕が自分のことを「ふつうじゃない」とか「変」とか言いすぎたからか、ある女性が少し泣きそうな顔をして「そんな「ふつうじゃない」とか「変」とかたくさん言われると悲しくなる。別に全然変じゃないよ!」という趣旨のことをおっしゃったのが印象的だった。

 

確かにふつう/ふつうじゃない、って価値評価を多分に含むし、気持ちのいい言葉ではないけど、事実として多数に対して「変」であることは変わりない。

 

その対話のなかでは哲学科は単なる例示だったけれど、でもやっぱり哲学しようぜ!なんてのは基本的にとても変でクレイジーなことなんじゃなかろうか。

 

入門講座です!って言ってるのに、上記のような質問しか出てこないものやっぱり変だと思うのです。ほんとに素晴らしいし、感動すら覚えるけど、でも変です。

 

こども哲学は楽しいし、のんびり和やかにやりたい。すごくいい感じのものだ。

でも、実はこれはおそらく、ふつうじゃない何かなんだろうという気持ちでなくちゃいけないと、思っている。

自分がふつうじゃないような、哲学することをやろうとしていて、それでお金をもらうことも増えてきて(またお金の話だ)いることは、こうやって注目が集まりつつあるなかで、それでもやっぱり結構変な生き方なんだ、調子乗んなよって、自分に言おう。

*1:クレイジージャーニーというテレビ番組がとても面白い。