窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

授業の行き詰まり感

不勉強を承知で

どうしても学生さんたちと考えたくて、昨年度に引き続き今年度も「ジェンダー」をとりあげた授業をしています。

 

授業のアイデアは某都倫研の紀要に載ったある先生の研究授業から大きな影響を受けている。

 

・「男」と「女」と聞いて思いつく言葉を挙げてみよう

フェミニズムという思想を概観する

・どんなジェンダー・バイアスがあるか考えてみる

・様々な昨今のニュースや政治家の発言を紹介する

・日本のジェンダー・ギャップ指数の低さを紹介する

ポリティカル・コレクトネスやアファーマティブ・アクションといった政策を紹介する*1

 

みたいなことを組み合わせつつ、最終的には、

多様性が大事、個性が大事っていうけど、「男らしさ」「女らしさ」みたいなものを自分や他人に押し付けるような偏見ってなかなかなくならないのはどうしてなんだろう。

男らしさや女らしさが自分にとっても他人にとっても「呪い」にならないといいな!

みたいな方向に向かっていく授業。

 

高専という学校もそしてそこから続くキャリアでも、ジェンダー・バランスが不均衡な空間でこそ一緒に考えてみる必要があると思っている。

感想を見ると

「大福帳」*2の感想を見ると、

  • 男女で同じことを求めようとするのは少し違うと思う。
  • 男らしさや女らしさというのは大事だと思います。それをなくしてしまうとみんな同じになってしまうからです。
  • 女性と話をするときは使う言葉に気を付けようと思いました。
  • 女の人は朝早くから夜遅くまで家事をしてその中に仕事をしている人もいて、そういう面でも自分は男がいいと思った。男のほうが何かと楽なので生まれ変わっても男がいい。
  • 男女平等でないと言われている今でも、社会はそれなりにうまくまわっていると思うので、平等でなければならない、というのはないと思った。
  • こんな話をしたって性差別はなくならないと思いました。なぜなくならないのかと考える、それは私には荷が重すぎる。

 まじかー、そんなことが言いたかったのでも、考えてほしかったのでもないよー、と思うようなコメントが結構あって、少しへこみます。

でもこういう風に受け止められていることがわかるので、 大福帳大事。

学生は悪くない。

こっちがうまく伝えられなかったのが悪い。

 

もちろん、うれしいコメントやちゃんと考えてくれるコメントもあるのだけれど、それは公開するのはもったいないので私の胸にしまっておくことにする。

それに、そういうよく考えてくれるコメントの多くは、私が授業をする前からよく考えている人たちだったろうとこれまでの授業での書き物や発言から想定される。彼ら/彼女らに届くのはもちろんうれしいのだけど、全然今までこういう問題について考えませんでした!みたいな多くの子たちにも届くなにかでありたい、というか、そこに届かなかったかなあという力不足感のほうが大きい。

 

 

男女でなんでもかんでも同じことを求めて、すべての「らしさ」をなくす話はしてないし、女性だけに気を使えばいい話じゃないし、「男の方が何かと楽」と感じちゃうことを問題視しているのだし、セクハラ・パワハラばっかで「社会はそれなりうまくまわってい」ないし、私たち個々人の意識の奥にあるバイアスを問題視しているのだよー。

 

授業設計の問題も大きい

こういう感想が返ってくるのにはいろいろ理由はあるはずで、そもそも寝ていてこちらの話をあまり聞いていなくて、男女平等とか差別反対とかそういう言葉*3から連想することを書いているだけかもしれない。

 

妻に愚痴ったら、1回や2回の授業で何かが変わると思うのは期待しすぎではないか。届いている人には届いている、という温かい言葉もいただいた。

 

ただそもそも私と学生とのあいだで、この授業の最後に大福帳にどんなことを考えて書いてもらいたいかについてうまく共有できていなかったことにも気づく。

ほんと当たり前すぎて反省の極みなのだけど、「いろいろ考える素材や情報を提供して、考えたこと書いてもらおう!」というあまりに安直な発想が自分にはなかったか。

あった。

 

新任研修的なものでも、あるいは教員免許をとるときにも、当然授業や単元の目標を設定し、そこから逆算していくという授業づくりを習う。だけど、気づくとそれができていなくて、「これを教えたい!」「あの話もこの話もしてみたい!」が先行してはいなかったか。

いた。

 

 

[高等教育シリーズ] 成長するティップス先生 (高等教育シリーズ)

[高等教育シリーズ] 成長するティップス先生 (高等教育シリーズ)

 

ちょうど本学図書館で借りたこの本を読む。前半のティップス先生の「授業日誌編」がわかるわかる。おもしろい。

 

 

ゴールを決めず自由に考えようぜマインド

「いろいろ考える素材や情報を提供して、考えたこと書いてもらおう!」的な自由に考えようぜマインドは自分が哲学対話とかを授業でやることとも関係していると思うけれど、もう少し具体的に学生たちと授業のゴールを共有する必要がある。

自由に考えようと言われて考えられるのは、さきほども少し言及したけれど、考えることにすでに慣れている人たちなのだ、きっと。

そうでない人たちは自由に考えよう、というと、授業内容をまとめたプリントを見返し、最も考えなくてすみそうな無難なことを書いてしまうのだよなあ。

だからある種縛りのある課題や、道筋をもって考えていけそうな刺激を用意して、一緒に助走をするのだ。

 

 

 

明日以降は大福帳のコメントに再度コメントをしつつ、このあたりのテーマで問いを出してもらったので、そこから哲学対話をしてみる予定。どうなるかなあ。

 

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写真は先日行った秋吉台のカルスト。いいところでした。また行きたい。

 

*1:こうやって挙げてみると、やってみたいことがいろいろありすぎて、とっ散らかってる

*2:

すべての授業で大福帳を使おうkogolab.wordpress.com

*3:私は授業中そういう物言いはほとんどしていないのだけれど

学校の気持ち悪いところなしでは教員でいられない

週末。平日はもちろん授業はしているものの、空きコマでのその他の仕事への集中力が続かなくなってきてしまって、だらだら学校に残るのはよくない。ピシッとしないと。

 

写真はドライブで行った近くのダム。3、40分走ればダムのある街よ。

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授業と自習

カリキュラムの都合上、週二回、90分の授業をしているので、それぞれのクラスの学生とはそれなりにリラックスもしながら、コミュニケーションがとれるようになってきた。

 

今年は担任などはないのだけれど、一学年全体の副担というゆるやかな業務をふっていただいている関係で、自習課題を告げにいって、そのまま教室に残って様子を見ていることがあったりする。

 

自習時間で教員がだれも来ないと思って、おもいおもいに勉強していたり、席を動かし友人と話したり、している、そんな教室にそーっと入っていって感じるのは、「やばい全然注目してくれない!」ということ。

 

あと、こちらを値踏みするように向けられる眼差しがこわい!

なんかよく知らん若い先生がきたけど、この先生はどんなもんか。

どこまでうるさくしても怒らないだろうか。

自分たちのことをきょろきょろ見てくるけど、大丈夫なんか。 

 って思われてんのかなあって思っている。

 

また教室という「箱」の話、あるいは評価を握るという話

それであんまりビビってもいられないので、やるべきことをやろうとして、一応の仕事はしているつもりなのだけど、気づくのは、普段いかに時間割に組み込まれた「授業」という枠組みのおかげで、自分が40人以上の学生の前で話させてもらっているのか、ということ。

 

そう思うと、冒頭に「それぞれのクラスの学生とはそれなりにリラックスもしながら、コミュニケーションがとれるようになってきた。」と書いたけれど、それは自分のコミュ力でもなんでもなくて、授業という形式を教員も学生も前提にして、そこではじめてコミュニケーションが成り立っている、ということにすぎないんだなあと考えもする。

 

もう少し正直に言えば、どんなにこちらが物腰が柔らかかったり、そういうそぶりを見せなくとも、彼らの評価権限を握っているのはこちらなのだ。担任や教科担当の教員が教室に入っていく、ということは少なからず評価ということが背後にあるのだ、と思う。

 

もちろん、最初は時間割どおりにやってきて授業をし、最終的に自分たちを評価する存在(=授業を受けないと、怒られるし、評価を下げてくる存在)として話を聞いていて、少しずつ打ち解けてくる、ということももちろんあるはずだと思っている。

 

ただ、好きに座席なども移動している自習教室にふらふらと入っていくときと、授業時間割に組み込まれたかたちで40人が最初から座っているところに入っていくときでは、とにかく、なんだか全然違うのだ。

 

 

学校の気持ち悪いところなしでは教員でいられない

彼・彼女らと楽しくおしゃべりができるのはついつい自分の手柄だと思ってしまいそうだけどそうじゃあない。

 

私語があったり、寝てたり、内職したり、スマホいじったりもされるけど、それでも時間割通りに彼らが前を向いてそこで私を待っている、ということが私と彼らのコミュニケーションを実は強力に支えているのだ、という当たり前の話。

 

でも

私語があったり、寝てたり、内職したり、スマホいじったりもされるけど、それでも時間割通りに彼らが前を向いてそこで私を待っている 

って学校のとても気持ち悪いところでもあると思っている。

 

そんな気持ちの悪いところに、助けられないと教員でいられないのです。

 

 

 

気持ち悪いついでに

昨晩は映画館で「万引き家族」を見た。

妻は泣かなかったらしいけれど、私はほろほろ泣いてしまう。

「貧しさ」とか「家族」とか多様であることは知っているつもりなのに、自分のなかにある想像力の欠如とか、そんなことを感じながら。

 

小説も買ってみる。 

万引き家族【映画小説化作品】

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そして今朝は朝ごはんを食べながら妻とバチェラー・ジャパンの最新エピソードをああでもないこうでもない言いながらみる。

 

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見ながら気づいだのだけど、

昨晩見て妻と感想を話しながら考えていたこととのギャップがありすぎる。

 

「問いを立てて自分の考えを述べる」課題の難しさ

久しぶりの日記。6月も中盤に入り、少し息切れ気味なのかもしれない。

 

でも初の自家用車でドライブに出かけたり、プライベートが充実していないわけではない。

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写真はホタル祭りの灯籠。

 

自分で問いを立てる

授業では、自分で問いを立てましょう。問いを立てましょう、といろいろなところで伝えている。哲学対話をしたあとも、「大福帳」には感想のほかに「新たな疑問や残るモヤモヤ」を書く欄を設け始めた。さっそく対話を受けてさらに面白そうな問いを書いてくれる人たちもいて、それは嬉しい。

 

ただ、一方で学生に「問いを立てて自分の考えを述べる」ということをしてもらうときに、こちらがモヤモヤしてしまっていて、そのモヤモヤの理由がいまいちわかっていなかった。

 

新しく問いを立てたのに、すぐ答えちゃう

いや、そりゃこちらが「問いを立てて自分の考えを述べましょう」と言っているのだから、学生さんの書くものには冒頭に問いが書かれて、すぐ次には彼らなりの答えが来るのは当たり前だ。

でも気づいたのは、それじゃあ問いを立ててもらった意味なくないか、ということ。

たとえば、

差別をなくすことができるのか? 

という問いがあったとする。

で、すぐ次の文やその次の文で

わたしは差別は無くせないと思う。なぜなら〜。

 

と書き出すことになる。

作文としては問題ないのだけれど、これじゃあ問いを問いのかたちで立てた意味がほとんどなくなってしまっているではないか。今まであんまりこのことに私が気づいていなかった。

このやり方だと、

問いのかたちでなく、最初から

ちまたでは差別はよくない、よくないと言われる。だが、差別は無くせないのだ。だって〜。

 

と書き出しても当人の思考に変化はないだろう。

 

でもこの件に関して、今挙げたように課題を提出してきたとして、学生に非はない。問いを立てたらそれに答えるというのは大変自然なことだし、そもそも私の課題はそれを要求してきたのだ。

 

問いはなるべく長く問いのままで?

じゃあ、どうしたらよいのか。

一つは、

せっかく楽しそうな問いを立てたのだから、すぐに答えないで、なるべく問いを問いのままで分析したり、わちゃわちゃして〜。

と学生に言ってみることだ。

でもこの「問いを問いのままで分析したり、わちゃわちゃ」する、という私の感覚は、感覚なのでうまく伝わる気がしない。

もう一つは、

問いを立てたらすぐ答えてみてもいいんだけど、そしたらそこできっとさらなる疑問が出てくるよー、問いと答え、さらなる問いとさらなる答え、またそこから出る問いと答え、を続けてみて〜。

こっちのほうがまだ伝わるかもしれない。 

でもこれも数学みたいに一つ問題を立ててそれに答えることを目標とする思考に慣れていればいるほど、なぜ答えたと思ったら自らまた問題を増やすのか、という感じだろう。

 

だから、

「問いを立てて自分の考えを述べましょう」

という課題で、

こちらがなにを求めていて、

どうしてこの課題が大切だと思っていて、

それが学生たちにとってどのような意味で必要だと考えるか、を

(授業の節々でこちらの考えは話しているつもりだけれど、)

丁寧に伝えなくちゃならないだろう。

そこでなにを語るかは根本的なことだけど、結構難しいなあ。

 
最近読んだ(読んでいる)本 
働き方の哲学 360度の視点で仕事を考える

働き方の哲学 360度の視点で仕事を考える

 

働くことについて考える必要があって、読んでいる。

「哲学」というほど本のなかで哲学しているわけではないけれど、働くについて一定の知識や観点をもって考えるためには良書だと思う。

 

これからの世界をつくる仲間たちへ

これからの世界をつくる仲間たちへ

 

わたしも落合さんの仲間に入れて!ってなった。

AI時代にどうなるべきって、なんでもできる秀才オールラウンダーではなくて、自分の専門性をもってそれを突き詰める「変態」なんだって。変態はほかの人は気づかない着想や問いを持っている人。変態最高だぜ。

 

行動経済学まんが ヘンテコノミクス

行動経済学まんが ヘンテコノミクス

 

 現社の授業とかで使えるかなと思って。

クリシンといえばクリシンだし、なにかのコメントにあったように、漫画としても読める、よい読み物。

 

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

 

 某バンドのHINOMARU騒動があったりして、思い出したように購入。さすがの書きっぷりで面白い。学生にも貸し出せないかなあと思っている。