窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

試験期間

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(我が家のベランダと植物たち)

 
こちらに来て初の定期試験期間です。

 

私の担当分はもう試験を終え、採点中。

 

長めの論述部分を設けたために、採点もその分悩ましい。

 

自分で作ったシラバスに合わせて自分で作った試験を自分で採点していると、むしろ評価されるのは自分の方だなあという気持ちが湧いてくるのだなあ。

 

授業での反応や、日々書いてもらっているものである程度の状況は把握してもらっていたつもりだけど、改めて試験というかたちで書いてもらうものを読んでいると、また違う感想も色々湧いてくる。

 

 

もっと強調すべきことがあったなあとか、ああこういうことを伝えてあげなくてはいけなかったのだなあ、とか。それらはこちらの授業が実は独りよがりだったことも明らかにしているんだ。

 

幸い、今の科目は次学期にも続く。

それに、答案返却も90分時間を当てることができるので、評価のことや、試験を受けて伝えそびれたことや、解いておくべきいくつかの誤解を話しておかなくちゃと思っています。

 

哲学者の問い

自分の授業では哲学者の立場も軽く紹介するけれど、それよりも自分の問いを自分で考えることを大切にしているつもり。そのことも採点しながら少し揺らぐ。

 

ふと大学院時代の恩師の本を手にとるとこう書いてある。

 この本に出てきたような哲学の問いは、それがいくら私たちの生活に身近なものであっても、私たちにはそれを考えるための手掛かりを容易に見つけることができません。ですから、哲学の古典と呼ばれる書物がいつでも尊重されるのです。強く自分の考えを貫くことで、歴史の淘汰に耐えた哲学思想は、私たちを深く考えることへと導いてくれます。あえて言えば、自分で深く考えるためには、哲学者の思索を手掛かりにすることが必要なのです。(御子柴善之著『自分で考える勇気 カント哲学入門』, 岩波ジュニア新書, p. 192-193.)

 ははーっ、という感じだ。

自由とはなにか?とか幸せとはなにか?とか今回学生たちが取り組んでくれた問いは確かに身近な問題として現れるものだけれど、いざ考え出すのは、考え抜くのは容易ではないのだ。哲学対話で哲学することと哲学者の思索を手掛かりにすることは矛盾しないのだけど、実際の授業では自分の力量からそのバランスが難しい。

 

 

週末はドライブ

 

そんなこともありつつ、車が納車されたので、土曜日はドライブへ。一の坂川のホタルまつり。ホタルなんかほんと見れんのかよと訝しんでいたのだけど、まあまあ見れました。真っ暗な川辺をホタルが舞う舞う。妻は見ながら泣いたらしい。

 

今まで東京住みのときには見る日が来るとも思わなかったものをこうやって現実に見る日が来るのだ。

 

神は存在するのか、という問いに対して、これまで誰も見たことがない、観測していないからいないという発言が授業でもあるけれど、それはちょっとなぁと思う。愛も恋も友情も見たことがないけど、それも神と同様にないのだろうか。

 

ホタルは見たことがない東京近郊の人がたくさんいるけれど、こうしてやっぱり存在したよ。

 

(私が見たのは正確にはホタルらしきものの光だけど。)

 

 

 

 

「哲学おしゃべりカード」で問いあてゲームをやってみる

授業時間が少し余って、試験前で、がっつり哲学対話をするわけでもないなあというときに、パっと思い付きでやってみたら、思いのほか面白かったのです。

 

使うのは、「てつがくおしゃべりカード」です。
てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

 

 トランプのようなサイズのカード50枚には、それぞれかわいらしい絵と一緒に一つ「問い」が書いてあります。「なぜ人には名前がなければならないの?」「木と葉っぱはお友だち?」「だれかがあなたの未来をぬすむことはできる?」「悲しみはスイッチで消すように消せる?」などなど。

 

 公式の使い方はこちら。

『てつがくおしゃべりカード』の使い方
『てつがくおしゃべりカード』を使った「てつがく授業」は、6人から10人ほどを円座にして、指導者または子どもたちが選んだ1枚のカードの問いを基にして、誰からでも自発的に考えを述べることから始まります。
指導者は、すべてのカードの裏面に書かれた問いをヒントに、子どもたちの考えがさらに一層深まるように刺激します。
大人は意見や考えを押し付けず、子どもたちには他の人の発言をきちんと聞くようにし、誰もが安心して発言できる雰囲気を作り出しましょう。
それだけで、子どもたちは心地よく自由な発想と思考を深め、友だちの言葉にも熱心に耳を傾けられるようになります。

 

こうは書いてあるのですが、なかなか40人近くの授業では使いづらく、どうするのが楽しいかなと私も、周りの実践者も思案しています。

 

遊び方はインディアンポーカー*1っぽい。

トランプじゃなくて、言葉でやると、NGワードゲームともいうみたい。

飲み会とか合宿の夜にやったら盛り上がるやつ。

www.sapporo-youth.jp

 

授業でやったやり方

1. 4,5人でグループを作ります。

2. グループの人数分、おしゃべりカードを伏せたまま配ります。

3. 一人一枚カードを選び、自分で見ないようにしながら相手に見えるように表を前に向けておでこに掲げる。 

4. グループで、問いを確認しながら、話しやすそう、考えやすそうな問いを一つ選ぶ。

5. その問いについて、問いそのものを言わないように気を付けながら、なるべくふつうに対話。

 その問いのカードを持っている本人は、話されている自分の問いを予想しながら、対話にも参加。ちょっと外れてるかもでも、なんとなく自分も答えてみるほうが楽しいよ。

6. 少し時間がたったら、問いを予想、当ててみる。当たらなかったらさらに続けてもよいし、答えを確認して、別の人の問いについて対話を始めてもよい。

 

一つゲーム性が加わると、高専生も楽しそうにやってくれるんだなあとうれしくなりました。

学生曰く、

  いつも、哲学することがちょっと難しくて、自分の考えをまとめることができなかったが、これは思ったことがすぐに言えるし、自分は答えがわからないワクワク感があってすごく楽しく哲学対話ができた

  そうです。

でも、まだ私はみんながやるのを見ていただけなので、楽しそうだなあという感想しか実はないのです。やりたいので、だれか研究室にやりにきてください。

 

 

地方住まいを実感する

昨日、今日は東京では海外からのゲストを迎えて、こどもの哲学のちょっとしたお祭りムードみたい。もちろん、飛行機に乗ればすぐ東京なので、永遠の距離ではないのだけれど、授業を振り替えするとなると、なかなか心理的なハードルが生まれてしまう。

別件でも人と連絡をとっていて、自分が少しずつ最新のネットワークから外れているのかもなあと思うこともあったり。まあ、むしろ今までが複数の優れた実践者の人たちと頻繁に顔を合わせられるような環境にいただけなのだけれど。

 私のようなちょっとのハードルをすごく億劫に感じてしまうところがある人間にとっては、地理的な距離は心理的な距離にもつながるんだなあ。

 

もちろん、これはこれでやっぱり大事なことだと思っている。この二か月の生活や職場の環境に満足もしている。じっくり自分の実践と目の前の学生さんたちと学校とに向き合い、ちゃんと休日は妻とゆっくり過ごすこと。

 ブログもそんなわけで、面白くなかろうと、生存報告もかねてこつこつ続けていきます。

わたしは今夜も空手に行きます。ムキムキでキレキレを目指す。

 

納得感

先輩の先生方に部活動のことをお任せしていることで、得られる週末の時間に感謝しつつ過ごしています。

 

金曜日のとある宴席で、久しぶりに

「「哲学」とか「倫理」の授業って、なにを教えているんですか?」

「哲学って結局なにをするんですか?」

と問われ、答えに窮する。無難に、「答えの容易に出ない問題を考える力って技術者にも必要だと思うんです。そのための練習を対話などを通じて、一緒にやれたらなあと...」と答えたつもりだけど、なにを言えばいいんだろうなあ。

某新任研修のための事前課題として、「カリキュラムや授業の目標の立て方」みたいなのも勉強しているのだけど、あらためて「お前の授業はなにをしているんだ!」と問われると、ぐらぐら、ゆらゆらしてしまう面もあるんだよなあ。

 

 

「学生たち、話します?話さないよねえ」

とも言われる。おっしゃるとおり、みなさんなかなか話してはくれない。でもそりゃあそうでしょう。40人の教室で教員に問われて、じゃあ自分が手を挙げて答えようかな、って思う人はそうそういないでしょう。あと、それを最近の学生の消極性や傾向みたいなことと結びつけることもしたくない。だって、教員集団だって、会議とかで(カッコ付きの)「自由な」発言が許されても、たいていの人は下を向いているでしょう。

自分だって、授業を受ける側だったときは自分から発言なんてしなかった。そういう意味では、むしろ、教室や会議室の設計として、いつのまにか授業をする側になった途端、べらべら(ある程度気分良く)話せちゃうその感じがよくない。40人もの人が、一応こちらが教卓を挟んだ向こう側の先生だから、という理由で話を聞いてくれるというその感じ。

今話さないからといって、対話の場をもつことが意味がないとはなぜか思えない。それは話さないからといって考えていないわけではない、からでもあるけれど、もっと授業とか教室とかの「つくり」を授業をする側で変えてみることはできるはず。早々に、学生のほうに非を押し付けちゃいけない。

 

 

そんなこんなで、授業は日々進みます。

 

こんなツイートを出しておいたら、学生さんたちに見つけていただいたようで、良い時間も過ごすことができて、楽しかった。いまいち、距離感が掴めなくて、こっちはあたふたしているんだけど。

 

 

こういうこともあるから、授業はもちろん授業としての目標の達成を目指しつつ、教室の外での不規則な交流に向けた種まきにもなればいいな。

 

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( 宇部興産全景 © 宇部市 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)

 

しかし、哲学とは

昨日は家で妻と鍋をつつきながら、お酒を飲む。

楽しく飲んでいたんだけど、いつのまにか、妻に、「お前の書く文章は一般論ばかりで、何が言いたいのかわからん」という趣旨のことで詰め寄られる。一生懸命自分なりに答えんとするけど、一番痛いところを言い当てられていることもあって、情けない限り。両論併記でなんとなく読者に問いかけつつ、自分自身のことは大して語らない文章。確かにそんなのほんとのところ面白くない。

妻曰く、

哲学者の書く文章って「お前はだれなんだよ、神かよ!」って気持ちになるんだよ

 神じゃないよ、ビビってるだけなんだよ。そして哲学しようぜ哲学しようぜって言ってるくせに、いつのまにか自分自身は本気で考え抜くことをしなくなってしまっているのだ。

さらに妻は

あなたは自分の書いたものに納得してるの?

私は私の書くものについては毎回結構納得してる。

 ああ、ごめんなさい、納得しきっていないから自分では某ニュース記事も告知していないのです。

 

翌朝このやりとりの詳細を妻が忘れてしまったことはご愛嬌。

 

今週もがんばります。

 

そんな妻のブログはこちら。

 

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