高専てつがくは発狂する

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

新年度の授業びらきと哲学対話

新年度、初担任についつい気をとられてしまいますが、授業も開始。

 

f:id:p4c-essay:20190411085805j:plain

勤務校にて。前日の風雨でだいぶ散った。
授業びらきになにをするか

他の教員ブログを見ていても、初回授業には気を使われているのがわかる。

私は、というと、そんなに考え込み、作り込んでいるわけじゃないけれど、それなりに、やはり気にしてはいる。まずそもそも、自分が受け入れてもらえるのか緊張するし、毛糸のボールを作るとか、円になって対話とか、付き合ってくれるのか、ドキドキして教室に入る。

 

今年度も、教員の自己紹介を簡単にして、シラバスをもとに概要を簡単に話したあとは、早速ウォーミングアップと称して40人を超える人たちにイスだけの円になってもらい、コミュニティボールを作った。

作り方の手順は別サイト*1に譲るけれど、今年の私のお題はこんな感じ。

1.名前(あだ名)

2.好きな〇〇とその理由

3. 生きてきて一番びっくりしたこと

この三つを毛糸を巻きながら言ってもらって横に回す。

クラス持ち上がりの二年生たちでも、高専はそんなにお互いに話さない人たちもいるようで、それなりに楽しく全員やってくれていたのかなという感じ。

そして出来上がった3クラス分のボールがこれ。

 

f:id:p4c-essay:20190411085617j:plain

クラスごとに色が違うので、こちらは忘れがちだけど、学生たちは案外覚えている。

 

 

そして最後に、

1. e-ラーニング利用に向けた電子機器の所持状況(所持していない人にはこちらからタブレットを貸し出す予定)

2. 最近疑問に思っていること

3. 担当教員へのメッセージ 

を書いてもらって、終わり。

これでほぼ90分。初回の授業。

 

ボールづくり、やっぱり楽しい時間なので、HR担任のクラスでこそやりたいのだけど、なかなか時間が取れず5月か6月までできなさそうなのが残念。

 

初哲学対話

二回目の授業でも教科書は開かない。

授業の最大の特徴となる哲学対話について、こちらから少し説明をしたあと、また円を作る。

今年はランダムに4,5人組をつくったあとで、質問ゲームとか相互質問法とか呼んでいるワークをやってみた。

一人の人がお題の問いに意見を言ったあと、残りの人たちが順番にその人の考えを掘り下げるための質問をしていく、というもの。

お題は「てつがくおしゃべりカード」から一人一枚。

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

 

一人3分×4,5人なので説明を入れて20分くらい。うまく質問ができない、思いつかない人たち、雑談になるグループもあるけど、なんとか励ましながらやっていただく。

 

それから、哲学対話の問い決め。各グループで自分たちの手元にある4,5枚のカードから1枚、みんなで話してみたいものを選んで、ホワイトボードに書きに来る。出てきた約10個の問いから投票で一つに絞る。そして15分弱、40人で丸くなって対話をしてみる。

挙手を優先するとは言っているけど、なかなかそれだけだどどうにもならないので、「話を聞いてみたい人にはボールを渡してもいいよ」ということは伝えておく。

 

あるクラスは、

 ナメクジを全部やっつけられる?

 という、かなりの変化球に票が集まった。二択なので、まずは意見と理由を言いやすいようで、自分たちでボールを投げ合いながら、発言はしてくれる感じ。途中、私も「やっつけること」と「種の絶滅」みたいな話をして話題をややこしくしてしまったのだけど、それを受けて話してくれた人もいてうれしかった。

また別のクラスは、

一番なぐさめてあげたいのはどんなサッカー選手?

に、票が集まる。発言者は多くなかったけれど、「試合に出場して一生懸命プレーしたけれど、全然活躍できなかった人」と、「大事な試合の前でケガをしてしまった人」という観点が出てきて、そこには努力(自力)と運(偶然)のどっちをなぐさめてあげたいと言えるのか、みたいな観点の対立があることがなんとなく明らかになったような気が(私には)した。

もう一つのクラスは、 

なにも開けられなくてもカギはカギ?

 になったのだけれど、

男子学生の多いにぎやかなクラスで、茶化しあったらもするのだけど、挙手をしてボールを受け取ってくれる人が複数いた。終わり間際、ちょっと沈黙が続いて、もう終わりどきかなと思ったらまただれかが手を挙げて新しい観点を出してくれて、ついつい予定よりも長引かせてしまうほど。

 

最後に10分弱時間をとり、「大福帳」初回のところに、その日の問いについて考えたことや、二回の授業を終えて感じたことを書いてもらう。

これで90分。

 

話しづらさ、質問しづらさ、は何によるのだろう

大福帳の感想をパッと見ても、楽しい、好意的な時間と捉えてくれる人が一方で、話すのが苦手という人にとっては4人組でのワークも「少し辛かった」ようで、申し訳ない気持ちになる。

あるいは、質問したり、されたり、考えたりするのがとても「難しかった」という人も多かった。ふだん、当たり前にしているようで、実はしていないことだから、そうだよね、初回から難しかったね。

 

初回からきつかったり、難しい思いをさせてしまったなあという反省の想いもありつつ、他方で、「私は、(多くの)人と話すのが/考えるのが、苦手なので~」と書いてくれるのだけど、本当にそれはあたなが苦手なことなのだろうか、とも思う。

 

話すことや質問を考えることは、あたな個人の得意不得意では必ずしもなくて、教室や集団のもっている環境の要因もあるのではないのかな。だから、あなた一人がこの授業で「次回はもっと話せるようにがんばります」となるのではなくて、教室全体が<何を言ってもよい>と思える空間になっていくことをみんなで目指していけたら、いいのにな、と思います。

 

ただ、それがいかに難しいことか、もよくわかっているので、絵に描いた餅なのかもしれないけれど、それでも哲学対話のもっている理念のようなものを大事にしようとする限り、空間づくりをみんなでやっていく、という視点は持ち続けていたい。

 

授業でこんな話を伝えてみたいけど、うまく話せるかなあ。。

変えないこと、変えること

「倫理」は半分は基本的に昨年度のものをベースにしてやらせてもらうつもりなのだけど、もう半分は、学校のカリキュラムが変わったこともあり、変更を迫られている。昨年度のものに手を加えたり、課題などを増やしたりする必要があるので、検討しなくちゃいけない。

反転学習のために、学校のe-ラーニングシステムも使いたいので、触ってみて勉強しているところ。

最初は億劫だけど、だれも本格的に使わなければ学校全体への浸透も遅れるのだから、えいや、とやるのだ。

 

 

迎え入れる

あっという間に新年度、明けて1週間が経ったようだ。今日はお花見ピクニック。週末でリフレッシュして週明けから本格的にがんばらないと。

f:id:p4c-essay:20190406154006j:image

 

 

入学式とか

新入生のみなさんご入学おめでとうございます。担任なのだ。

式での呼名やら保護者への挨拶やらHR教室の準備やら初めてのことばかりだけれど、周りに助けてもらいながらなんとか。

新入生のみなさんはこうやって待つ準備をしていると、なんだかどんどん愛おしくもなってくるもので、ちょっとした親心の発動を感じる。

 

昨日最初の授業日も終えてみて、実際みなさんまずはスタートを切れそうでよかった。

 

今年の目標とか

高専なのにほかの中高のように、3月の時点で学年目標を決めていた。

締切厳守

なんのひねりもないし、これを定める意味はあるのかと思ってしまうけど、中学校との違いを強調するときなどには学生にも保護者にも伝えやすくて、意外と悪くないかなとも思っている。

 

自由には責任がつきものです

 

みたいな言い方はあまり好きではなくて、自分から学生には言いたくない。(そもそも、自由には責任が伴うとは限らないのではと思っているし、学校なんて不自由なところで自由も責任もあったもんではない)

 

最初のHRでは、クラスとして、

43人全員が一年後も、「ここにいてもいいな」と思えるような空間にするにはどうしたらいいか、 一緒に考えていきましょう

と言ってみる。

 

とてもクサイけど、わりと本気ではある。そのための支援をしたいのだ。

本校では五年間クラス替えはない。

一致団結、はいらないけど、横の人が困っていたら助けてあげられるような感じにならないと、つらい。

 

 

担任っぽさのこと

ご存知のように私は学校とか学級とかクラスとかそういう形式に批判的な人のつもりで、そういう意味では担任とかもよくよく考えながらやりたいと思ってはいる。

いる、つもりなのだけれど、同時に、学校や学級で生きることを強いてしまっているからこそ、クラスの人たちとなんとか一緒に生き抜いていってもらわないもいけないという気持ちも強くて、最初は結構丁寧に「担任」しているかもしれない。

でもそれは、いわゆる「学級王国」とは違うし、違わなくてはいけないはずで、でもでも、それでも、担任ごとのカラーが明らかにクラスに出るであろうという予感をも、すでに感じていたりもする。

 

***

 

こんなことを考えながら、花見をして、ブログを書いている。

youtu.be

妻にこの曲を聴かせたら、横で泣き出してしまった。

 

 

最近読んだ本などー<われわれ>は<彼/彼女ら>を教育することができるのか

 2月、3月あたりで手に取った本などの備忘録

数が少ない。。でもこれでも授業期間と比べたらマシなほう。

読書の時間、確保しなくてはいけない。

 

 

ジェンダーのこと
82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

妻がSNS等で知って、買っていた本。とても力のある本で、どれだけ日常に、当たり前に、ちょっとした言説に、女性を抑圧し、閉じ込める構造があるか、がフィクションの文体で示されている。多分、読む人によって、引っかかるところ(=これがまさに問題なんだと思うところ)が違うと思う。それに、自分は読み飛ばしているところにも、実は差別や抑圧があったかもしれない。

先日の韓国出張でこの本の話をしてみたら、当然?、男性の先生たちもご存知のようだった。韓国は女性の進出、みたいなのは遅れているとおっしゃっていたと思う。

 

学校でのハラスメント 

新年度を前に。

具体的な事例について勉強になる。「教育は良いもの」という前提によって覆い隠されるものがたくさんある、という指摘も納得。自分の専門や関心から言えば、事例もそうなのだけど、この前提の話をもっと考えてみたいところ。

この本で紹介されていて買ったのが↓

実際の加害者、被害者への取材をもとに作られたルポなので、なかなか重たい。

どう言及したらよいのかわからないけれど、これも教育という権力構造の関係性に要因がある以上、自分や自分の周りと無関係だとは考えていられない。

学校という異空間が事件を生み、隠蔽し、被害者を追い込んでいる。

今、教員として学校にいる自分が、「学校という異空間」の維持、強化に手を貸していないか、考えなくちゃいけない。 

 

学校での哲学対話 

上の流れからすると、 新教科「てつがく」の構想は、「学校という異空間」に対するチャレンジだ、というようにも映る。先生方が試行錯誤されながら取り組んでくださっていたことがよくわかる良質な本。「哲学対話」といっても、一つの型なんてないんです。いいんです、それで。

 

 <われわれ>と<彼/彼女ら>
教育と他者――非対称性の倫理に向けて

教育と他者――非対称性の倫理に向けて

 

この本は個人的には当たり。タイトルにひかれて買って、中身が「国際教育開発」 をテーマにしたものだと知りちょっとがっかりし、けれど序文を読み始めて、そのまま数日で読破した。

 

様々な教育活動のなかでも、(「先進国」と「途上国」の格差に起因する)非対称性が強調されやすいテーマを取り上げて、<われわれ>が<彼/彼女ら>を教育することができるのか、できるとすればそれはいったいいかにしてなのかを問おうとするもの。

結果的に一冊を通して、研究者であり、語る側であり、援助をする側である<われわれ>の資格を問い続けることになっている。積極的な答えよりも、現在進行中の政策に対して理論の側から、立ち止まること、問うこと、逡巡することを求めていく姿勢も納得。

<われわれ>は教育のあり方を恣意的に選択することができる。<われわれ>はそうすることのできる位置を占めている。それゆえに<われわれ>に求められているのは、そして国際教育開発に求められるのは、ありえたかもしれない教育のあり方をありえなくさせていることへの後ろめたさであり、教育への躊躇であり、教育への逡巡である。<彼/彼女ら>のもとを立ち去ることもできる<われわれ>は、<彼/彼女ら>への教育を前に、いったん立ち止まらなければならない。

すべてが同じ構造とまでは言えないけれど、自分自身が教室で哲学対話を行うときにも、どのような資格で、わたしは彼/彼女らに哲学を教えることができるのか、と問うことに対する対抗的な示唆をたくさんもらったと思っている。

 

 

 

 同じ著者が分担執筆しているこの本も購入。まだ全部は読めていない。

現代の学校を読み解く: 学校の現在地と教育の未来

現代の学校を読み解く: 学校の現在地と教育の未来

 

 余談めくかれど、この本の著者の一人の畑康裕さんを通して、こういう学校および事件(?)があったことを知った。不勉強である。

ja.wikipedia.org

 

 エッセイ
ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地

 

妻に勧めてもらった。今読んでいるところ。

もう一冊、より有名なタイトルの本がある方のエッセイ。 

 

死にたい夜にかぎって

死にたい夜にかぎって

 

ブログ、好きで読んでいました。

<俺の前を通り過ぎていった女たち>的な、モラルとか道徳とかとはかけ離れた、でも血の通った、エッセイ。

これは高専の図書館にあったらしく、びっくり。

 
 おしまい