高専てつがくは発狂する

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

そこにいる人をいる人として扱う授業

インフルから復帰して、ちょこちょこと授業、しております。

どの授業でも、レポート書いてきてもらって、それを相互に読みあったり、発表して、質疑応答してもらったりして、勉強してもらっています。

そういう意味では私はなにもしてない。でも指示を通すために大きな声出したり、終わるとそれなりに疲れる。

思い出すこと

昨年度の勤務校の一つで、やはりミニレポート+グループワーク、みたいなことをやったり、こちらが講義せずに勉強してもらう、みたいなことにチャレンジしていたとき、

 匿名の学生からの感想のなかに、

「私たちばかり大変で、先生は楽をしている」みたいなものがあって、

それがずっと気にかかっている。

確かに、そんな気もしているからかなあ。

 

 

 

授業中スマホ問題。

そもそも授業中関係ないことにスマホを使ってはダメなのです。ダメ。

でも、現実的には後ろの方の席を中心にスマホを触っている人は、いる。それはわかる。

講義のときもそうだし、グループワークのときも、そう。

 

学生が悪いという話ではなくて、こちらが毅然とした対応をとるべきなんだけど、できない。

授業つまんないよねえ、ごめんねえ、ごめんえええ

 って気分になってしまう。

 

グループワークのときは

私の授業のローカルルールは、

教員にもクラスメイトにも迷惑をかけるようなことはしない

=この授業を楽しもうとしている人の邪魔をしない

と設定している。

なので、グループワークに及んでもなお、スマホをいじろうとするのは、全体のモチベ―ン低下に著しく関わり、端的に迷惑なので、それは言わなけれなならない。

なので、スマホいじっているのをちゃんと注意しないといけないんだけれど、できない。見過ごしてしまうことがある。

グループワークとはいえ、自分の分の作業について基本的なことをやってくれたうえでの待ち時間で触る、みたいなこともあって、それはこちらのワークの設計が不十分でもあるので、しょうがないかなと思っているのだけど、それがエスカレートしていく感じもあり、やはりよくない。

 

見て見ぬふりをすること

授業が終わって自室に戻ってからいつも気づくのだけど、やはりとてもよくない。

どんどんコミュニケーションが遠のいてってしまう。

だって、ほんとはよくないと学生も教員もわかっていることについて見て見ぬふりをするのは、相手を「そこにいるのにいない」状態にしてしまっているから。注意をしたり、その行動をしている理由を尋ねたり、ワークの進行状況を聞いてみたり、関係ない話をしてみたり、とにかくなんらかのありうべきコミュニケーションがそこにはない。

もちろん、相手も教員である私のことを「そこにいるのにいない」ものとして扱うから、そうできるわけだけど、そもそもの発端はこちらにある、と思う。

 

そこにいる人をいる人として扱う授業

そこにいる人をいるようにする。超当たり前のこと、というか、そもそもその人はそこにいるのだから、ただの事実、スタート地点に過ぎないのに、今の自分にはできていないと思う。40人なら40人ひとりひとりをそこにいるんだから、そこにいるものとして扱う授業。

一斉講義をしたり、グループワークや対話とか言いつつも、一人一人の作業状況やサボり状況や気分や考えていることについてアクセスすることをやめてしまっている。

サボっていることも、やる気がないことも、授業に不満なことも、気づくこと、そしてそれを伝えること、大事。なのに、日々の一人対40(これを複数クラス)という関係に消耗してしまって、あるいは慣れてしまって、どんどんおろそかになっていってしまっている。とてもよくない。

ああ、授業を終わって気づくことよ。

 

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

 

 この本、ざっと目を通した感じでは、タイトルほどのインパクトを受け取れなかったのだけれど、ちゃんと読んでみないといけない。

 

オンラインでの大福帳

 もちろん、目の前で起きたことに目の前で反応する、という基本的なコミュニケーションをまずは私がとればよいのであるけれど、同時に様々なコミュニケーションのあり方も考える。

今授業では大福帳を書いてもらっているけれど、より気軽に、学生同士も、教員と学生もコミュニケーションが可視化できるのは、オンラインな気がしていて、来年度以降のことも考えている。

goose.cite.tohoku.ac.jp

どうなるかな。

学校単位での哲学対話・哲学教育への取り組み事例まとめ[探究学習との関連性を意識]

とあるところの学校の先生方へ向けて、哲学対話やその学校での取り組み事例を紹介するようなレクチャーをさせていただく機会があった。

もう知っている人は知っている学校名と実践状況だけれど、どこかでまとまって読めるものは今でもそんなにあるわけではないので、簡潔に書いておこうかなと思いました。

 

といっても実践に取り組んでいる学校はすでに書ききれないほどあります。

選定の基準は、

・高校での「総合的な探究の時間」との関係を考えるうえでヒントになりそうなもの

・私自身が関わったり、実践者と直接知り合いのもの

です。

(関係者のみなさま、主に、ネット上にある情報から抜粋するので、公開情報だと思っていますが、間違っている情報、補足してほしい情報、公開しないでほしい情報があれば教えてください。)


開智学園(私立・東京、埼玉)

・だれが

 哲学対話を専門とする土屋陽介教諭が主に授業を担当。

  →徐々に学内の他の教員にも浸透

・どの枠で/どれくらい

 「道徳」の時間の半分を割り当て、中学1、(2、)3年時に年間15時間程度の実施

 ほかに、他教科、教員研修、保護者会、放課後や休日の自主活動など

・なんのために

 「探究・フィールドワーク」(開智中学・高等学校(埼玉))

 「IB(国際バカロレア)」(開智日本橋学園中学・高等学校(東京)

 

   

www.kng.ed.jp

www.kaichigakuen.ed.jp

 

一言コメント

哲学対話を学校で、といえば、まずは名前が上がる学校。老舗。

長らく外部講師(非常勤講師)だったツチヤセンパイが昨年度からは専任教諭になられ、ますますご活躍中だと思います。私も2年くらい非常勤講師として哲学対話の授業を担当させていただき、たくさん勉強をしました。

学校説明会で受験生対象に哲学対話を実施したり、保護者会や職員会議で哲学対話を入れてみたり、さらにやりたい人たちが学外にサークルを作ったり、と様々な試みにも力を入れられている印象。

 

以下の記事なんかは開智での授業の記事。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 

東洋大学京北中学高等学校(私立・東京)

・だれが

 必修科目「哲学」はHR担任が担当

 学内の「哲学教育推進部」の教員や哲学対話を専門にする非常勤講師がサポート

・どの枠で/どれくらい

 中1〜中3必修「哲学」高1必修「倫理」

 全学年「哲学エッセーコンテスト」

 希望者「哲学ゼミ」(合宿)           など

 

f:id:p4c-essay:20190202075749p:plain

哲学教育の取り組み(全体図)(学校HP「哲学教育の推進」より)

・なんのために

“本校の哲学教育は、哲学の知識や既成の道徳を教師が一方的に注入するのではなく、与えられたテーマについて生徒が自ら考え、論じ合うことで、世間の常識や自己の価値観を問い直し、常によりよく生きることを求めて自問自答する力、「哲学的に考える力」を養うことを目的としています。”*1

 

www.toyo.ac.jp

manabilab.jp

 

一言コメント

学校の教育理念三つのうちの一つに「哲学教育」を掲げていて、かつ、それがただのスローガンに留まらず、カリキュラムのなかで学校として取り組まれている印象があります。校務分掌としての「哲学教育推進部」があり、講師による力強いサポートがあり。

思考力をはかる新しい中学入試としての「哲学入試」もテレビで取り上げられて話題になりました。哲学対話って評価できないとかテストになじまない、と言われることが多い中、試行錯誤されたその苦しみも大変よくわかり、すごく印象深かったことを思い出します。

ほかにも、「哲学の日」の試みは圧巻だし、哲学エッセイコンテストには励まされ、授業でも取り組ませてもらいました。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 

複数の都立高校

(都立大山高校・都立雪谷高校・都立豊多摩高校・都立八王子東高校など)

 

・だれが

 主に学外講師による

 東京大学の梶谷真司氏を中心に、一般社団法人子どもの成長と環境を考える会*2と大学生・大学院生らがサポート

 

・どの枠で/どれくらい

学年全体への出張授業(新入生オリエンテーションなど)*3

放課後有志による哲学対話の場づくり(月に1、2回)

教員研修の実施                   など

    

・なんのために

 学習意欲の向上→進学実績(大山高校*4

 探究スキルの定着(八王子東高校

f:id:p4c-essay:20190203000225p:plain

八王子東高校作成「自ら学び 自ら考え 自ら創る 八王子東の探究」より

http://www.hachiojihigashi-h.metro.tokyo.jp/hachihigaHP/pdf/tankyu/tankyu-panf2.pdf

 

 

一言コメント

ここに名前を挙げた学校以外にも、都立高校では、大学の先生方のご尽力があり、なんらかのかたちで学校で哲学対話が実施された学校数は20は超えるんじゃないかと思うほど。

そのなかでもここで名前を挙げた学校は、法人や若い実践者らのサポートがあり、放課後に自主的な参加で行う哲学対話の場づくりを試みてきた点に特徴があると思っています。私も2、3度だけだけどお手伝いをさせてもらいました。そのときは、人が集まらず苦労もしたのだけれど、うまく回りだせば、哲学的に考えることの楽しさを自分から掴んだ人たちが学内に散らばってくわけで、様々な活動が展開しやすい種まきになるんだと思います。

探究学習との関係性でも注目しなくてはいけないところ。

 

明星学園中学・高等学校(私立、東京)

・だれが

 哲学対話を専門とする非常勤講師2名および学校教員

・どの枠で/どれくらい

 中学一年時に毎週一回「哲学対話」の授業時間を設ける

f:id:p4c-essay:20190202075439p:plain

「総合探究科」3年間の流れ(明星学園HPより作成)

*5

・なんのために

 2018年度より「総合探究科」を新設

“「数学や理科といった教科には明確な答えがありますが、世の中には正解が一つでないことが多い。そこで、生徒一人一人が問いを持ち、仮説を立て、考え、議論するという探究のプロセスを重視したカリキュラムを作りました」。副校長の堀内雅人教諭は、総合探究科を新設した理由をこう説明した。”*6

 

一言コメント

特定の教科の名前はなくとも、ずっと以前から探究型の学習に取り組まれてきた明星。今年度からは「総合探究科」を設置し、そこで「哲学対話」を取り入れています。導入前に、少しお話をさせていただき、今の非常勤講師のお二人を紹介させていただいたこともあり、インターネットで記事をみたときもうれしかったです。

 探究に長く取り組まれてきた学校が、特に1年次の段階で、「いかに問いを立てるか?」を重視して、「哲学対話」に取り組んでいただけている、というのは、探究と哲学対話の関係を考えるうえでもすごく励みになるでしょう。今後さらに注目です。

 

宮城県の公立小中学校 「p4cみやぎ」

・だれが

 各学校の教員が、研究者・実践者のサポートを受けて実施

 校長、研究者、民間の理解者、教育委員会らによる組織「p4cみやぎ」としての活動・推進

上廣アカデミー

 

・どの枠で/どれくらい

「国語」「算数」「生活」「家庭科」「保健」「道徳」など各教科で

 

・なんのために

 “私たちは哲学対話をすることが目的ではなく、セーフティを基盤として教育をより良くしていくことを主眼にしている点で、これまでの全国の取り組みとは異なるものだと考えております。哲学的な深まりを目指すものではなく、すべての子どもたちがコミュニティの中に居場所をみつけること、対話を通じて新たな物事を探究することを大切にしています。”*7

 

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

 

 一言コメント 

現場に伺わせていただいたことはないのだけれど、2年くらい前に、公開フォーラムのような場に伺いお話を聞いたことがあります。宮城教育大学教育委員会、公立の小中学校、それぞれのトップクラスの方達が介して、p4cについて語る、というのはすごい光景だった。日本では宮城以外の地域でこれはできない。すごい。

「探究」と名前は付いているけれど、現在のところは小中学校の各教科や「考え、議論する道徳」との関係性を強調されている印象。東京書籍の道徳の教科書にも記載されました(『新しい道徳 一年』p. 102「探究の対話『p4c (ピーフォーシー )』をしてみましょう。」

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/spl/doutoku/chu_files/31_chu_doutoku_text_pamphlet.pdf))

 

 

 

 

 「探究」のどこで哲学対話をするか

まとめです。

現在「探究」に哲学対話を位置付けようとする明星学園中学・高等学校も、都立八王子東高校も、初年度に哲学対話を実施する計画をしていることがわかります。

その意味では、哲学対話には、まずは「探究活動全体の導入」としての貢献可能性があるような気がします。

 

哲学対話で、「問いを立てる」「問いを問う」「問いを深める」を繰り返し、新たな問いに行き着く。

そのこで

  • 探究に必要な思考スキル「問う」「聞く」「話す」「考える」が身につく
  • 自身の関心に気づき、「問い」として表現できるようになる

 こういった成果やねらいを強調していく、というのは、無理なくできそうな気がします。

そうだとすると、具体的なテーマや各回の対話の深まりよりも、継続して、生徒たち自身が自分の関心を言葉にし、自ら問いを立てることができるようになることを重視する、ことになるので、変に哲学対話を教師のほうで恣意的にデザインするのではなくて、むしろ哲学対話を楽しむことが大事になるはず。実践者も対話に参加する人たちも肩の力を抜いて考えることのできる場にできれば、それがいいですね。

 

まあでも、それが一番難しいわけです。学校に「考える」を取り戻す、というか。

そのあたりの難しさとかもこの本に書いてあります。みんなで勉強しましょう。

 

 

 

 

本当はもっと、「総合的な探究の時間」の指導要領などをみつつ考えられればよいのだけれど、それはまた機会があれば。

今回はここまで。

 

*1:学校HPより. 哲学教育の推進

*2:

 

kodomo-links.org

www.facebook.com

*3:

スタディキャンプ(2017.4.14-15) | 東京都立雪谷高等学校

*4:ご挨拶 | 東京都立大山高等学校 (全日制・定時制)

*5:総合探究科|明星学園 中学校 - 明星学園

*6:

www.yomiuri.co.jp

 

*7:野澤令照「序章 これって、なんだろう?」、p4cみやぎ・出版企画委員会編著『子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」』東京書籍、2017年、13頁。

教えることはもう古いのかービースタを読んだ話

 インフルエンザで自宅待機中のせめてもの進捗として読書をしました。

教えることの再発見:

教えることの再発見:

 

 知人の先生たちとやっている勉強会では昨年末に読書会をしたそうだけど、私は遠方で行けず。個人的にも読んでおきたいと思いつつ、ここまで先延ばしにしてしまっていたのでした。

目次はこんな感じ。

日本語版への序文
謝辞
プロローグ 教えることの再発見の必要性
1章 教育の課題とは何か
2章 教えることを学習から自由にする
3章 教えることの再発見
4章 無知な教師に惑わされないで
5章 不可能なことを求める――不和としての教授
エピローグ 教育に教えることを取り戻す
訳者解説(上野正道)

 

すごく長い本ではないし、プロローグなどでの問題提起は大変シンプルで力強いんだけど、中心の議論自体は結構難解で、十分に理解できたとは言い難いところ。特にレヴィナスが出てくるあたりとか。

本全体の批評や検討をする力も時間もないのだけれど、ビースタがこの本でせんとした問題提起だけは確認しておきたい。

  

ビースタの問題提起

この本の主題は、「教えるteaching」ということ。

そんなの、教育なんだからずっと昔から今まで論じられ続けてきたテーマじゃないか、という感じもするけれど、実は違う。

というのも、昨今は、教育といえば、教員が教えること、よりも学習者自身が「学習」すること=学ぶことlearningが重視されているからだ。

学習に関わる言語と論理の興隆は、教師の役割を「壇上にいる賢人」から,「〔学習者の〕傍らにいる支援者」へと変えた。[...]ある人によれば, 教師を「〔学習者〕の後ろにいる仲間」にさえ変えたのである。*1

日本でも「アクティブ・ラーニング」や「主体的・対話的で深い学び」が重視されるなかで、教師にも「ファシリテーター」としての役割が期待されている感がある。この意義はもはや自明であるし、ビースタの言葉を借りれば「学習者の共同体としての教室という考え方が魅力的で進歩主義的に聞こえる」というのはその通りに思えてしまう。

 

だけれど。

 

むしろ現在の教育の「学習化」の動向は、「教えること」や教師の仕事についての誤った理解を促進してもいる。だからこそ、立ち止まり、「学習の時代における教えることの回復recovery」そして「教えることと教師の意義と重要性を再発見するrediscovery」こそがビースタの本書での試みだ。

 

教えることと学ぶことを対比して考えると、確かに学ぶことこそ進歩主義的な新しい教育であって、教師が教えることは旧態依然とした保守主義の象徴のように思えるかもしれない。けれど、このような二項対立は間違っている。そうではなくて、ビースタが拓こうとするのは、教えることについての進歩主義的な議論、という第三の道だ。

 

こういった問題提起は、これくらいざあっとさらった感じでもやっぱり示唆に富んでいる、と思う。いろいろなところで聞くけれど、アクティブ・ラーニングか教員による一斉教授か、みたいな二項対立の問いは、まやかしなのだと思う。

 

学習を重視しないならなんのために教育するのか

教えることについて考えるビースタさんは、教えることの先に学習者による学習をみる、というすごく当たり前の感じ、にも疑問を呈している。

教えると学ぶは「教え学びteachingandlerning」と一語であるように感じられるほど必然的な結びつきに思えるけれど、それは本当なのだろうか。

じゃあ学習を目指さないとすれば、なんのために教育をするんだろうか。

ビースタは、難しい言い方だけどこう言っている。

教育の課題は, 他の人間に, 世界の中に, 世界とともに成長した仕方で存在すること, すなわち主体として存在することの欲望を引き起こすことである。*2

世界内における成長と主体化。本当はここから、この言葉の意味をビースタがどう考えているかを見なくちゃいけないのだけど、ごめんなさい、力不足。

いろいろすっ飛ばしてしまえば、この教育の課題を通して、ビースタが目指していくのは、教えることを取り戻すことによって、「生徒が自由となることができる場」を、そして「生徒が自らの自由と出会う場」を創造することだ、とは言える。

巻末の役者解説などを踏まえて、もう一つ言葉を足すならな、こういったビースタの教えることに込めた思いは、フレイレランシエールを経由して、「解放としての教育」へと向かっていく。

 

被抑圧者の教育学――50周年記念版
 

 

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

確認しておくべきは、教育される人の、主体化や自由や解放を語るときに、ビースタが重視するのは、教育される人たちのアクティブなラーニングではなくて、あくまで教師による教授だ、ということ。

教えることは、必ずしも権威者による「統制」を意味しない。

 
概念と一緒に生活したい

 じゃあ、「統制」せずに、どうやって教えるのか。

学習させることなく、教えるのか。

本書を読んでいて一番ワクワクしたのは、ビースタが、教えることから学習を取り除くために試みた実践として、自身が大学院生のために行ったセミナーでの授業を紹介しているところだったりする。

 

ここで、私が学生に思い出してもらったのは, 教育というものが, おそらくすでにそこにあるものーたとえば, 現れつつある理解ーを伸ばし深めることだけではなく, まったく新しい何か, すなわち学生がそれまでまったく経験したことのない何かとの出会いとして理解することもできるという点である。*3

 

なんかしゃれた言い方だ。教育とは、学習を通して対象について理解したり、把握したり、了解したりするような、そういうものではなくて、全く新しいなにか、未経験のなにかとの「出会い」でもあるのだ。

そのために、とにかく、学生を了解から遠ざけて、学習しないように、解釈しないように、意味を形成しないように求める必要がある。そういう了解しようとする傾向を「中断する」ための、ビースタの授業はこんな感じ。

 

学生には自分が選んだ概念を自分たちの生活の中へ取り込み, 2週間, その概念とともに生活するように求め, 2週間の最後の日に学生にその取り込みの経験について参加者の前で報告するように依頼したのである。*4

 

 

 

対象となった概念は、授業のテーマにあわせた、創造性、コミュニケーション、教えること、学習、民主主義、解放、妙技。どの概念と生活するかも、突然の出会いのほうがよいので、偶然性に任せて選んだそう。

 

全然よくわかんないけど、ものすごくやってみたい。概念と一緒に生活したい。

 

「解放」と二週間一緒に生活したら、どうなるんだろう。しかも、それを理解したり、了解しようとはしないで、って言われたら、どうなるんだろう。

概念は自分に対してなにを「呼びかけて」くれるだろうか。

 

ということで、まとめとしましては、

 

ぼくも概念と生活したい、です。

 

終わり。

 

*1:上掲書, pp. 1-2

*2:p. 12

*3:p. 55

*4:p. 56