あなたとわたしのこどもてつがく(仮)

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。

こども哲学のクックパッド

哲学対話を広める

先日、ぼくがとても信頼しているセミ・クローズドな集まりのなかで、

哲学対話はとてもいい実践だと思うから、もっといろんな学校に広まってほしい。そのためにはどうやったらいいか考えたい。

という話題が出た。

確かに、哲学対話、自分でもいいと思うから、様々なかたちでやっていきたいと思っているし、こういうことをやる学校が増えるといいなと思ってる。それはそうなのだけど、「広める」ということを考えたときに、途端に思考が展開していかなくなるのはなんでだろう。

 

これが哲学対話のやり方です、と言えるものはあるのか

哲学対話をやりたいけど、やり方がよくわからないんだよね...という人には、そのやり方を紹介したポータルサイト*1のようなものを作ったり、一般向けの書籍を出したり*2、講習会をする*3、といったことが考えられる。最近では、今挙げたどれについても複数の選択肢が存在している。けれど、確かに、いろいろな人がいろいろなことを言ったり、やったりしていて、これが哲学対話です!と言えるような統一的な説明やポータルサイトのようなものはない。

 

 

それに「やり方」についてはこんな素敵な歌が、いよいよNHKで作られたのだ。しかも自分もよく知っている人が出演したり、監修で関わったりしている。

www2.nhk.or.jp

 今までは対話のやり方を紹介するためには、この動画を見せていた。

youtu.be

これでも十分すぎるすばらしい出来だったけど、歌ってキャッチーでいいよね。

もうめんどうな説明は不要。二つの動画、見せてあとは始めればいいのだ。

 

 

 

その先を知りたい人のために

でも、多分、人が知りたいのは、その先なのかもしれない。実際に教室で、地域で、やるときに、具体的に何をどうしたらいいのか。対話のなかで難しい場面に出会ったらどうしたらいいのか。そんなことを教えてくれて、実践する際の不安を取り除いてくれるようなレシピのようなもの。

でもでもー、それが難しい 。だってみんな、思い思いに、気の向くままに、いろんなやり方、いろんな対応を試作しながら実践してるから。

これが哲学対話です、こうすればできますよ、メソッドはなかなか言えない。*4

ある知人は数年前、こういった現状を「密教のようだ」とたとえて、現状を一から哲学対話をやってみたい人にはアクセスしづらいのだと言っていた。入り口を広げること。

 

確かにそうなんだけど、哲学対話のやり方決定版withトラブルシューティング、みたいなものができないのは、現状の問題を超えて、哲学対話ってそもそも決定的なやり方、なんてもたないものだから、という理由がありそう。

 

哲学対話のスピリット*5

確かにこども哲学には、それなりに蓄積されてきた理論や手法があって、ぼくたちもそこから学んでいる。だけど、こども哲学にとって大切なのは、そういった決まった「やり方」ではなく、こどもたちと哲学をしようとするときの大人の側の心構えなんじゃないかなと思う。こども哲学のスピリット、とても言えるものだ。

 

大人の期待通りに考えてもらいたい、育ってもらいたいという気持ちを一旦脇に置き、こどもたちの自由な思考のなかに一緒に身を置こうとすること。ぼくたちの日常には、大切だけどそう簡単に答えの出ない問題がごろごろと転がっていて、毎日生きていくのはそう簡単じゃあない。それはおとなだけじゃなくて子どもだってきっと同じだ。

 

そう考えるなら、こども哲学は、こどもたちをそんな世界を一緒に生き抜いていく仲間のように捉えることから始まる、とも言えるのではないか。こう捉えることで、大人が正解をもっていてこどもたちに教える、のではなくて、お互いの生活の中で気になっている問いを大切に考えあうような、こども哲学の場が始まる.......のではないか。

 

こういったスピリットがあれば、やり方はどんなものであっても、きっと大丈夫だ、と思いたい。

 

いや、でもでもでもー、スピリットなら、やり方よりも、簡単に共有できそうに書いたけども、実際はそうじゃなくて、スピリット=なんでこども哲学がやりたいか、をわかってもらったり、共有するほうが難しいわけだ。

ただ、そこを理解して、共感してもらえるように、コツコツ実践をして、その実践現場に足を運んでもらって、一緒に悩んでもらう、そうやってじわじわと広がったり、喧嘩したり、離れたり、そうやっていくほうが健全なんじゃないか。

 

こども哲学のクックパッド

だから、これが一つのやり方だ、と書いたものじゃなくて、

みんなが気になったらアクセスできるような、

「小学校・国語・30人」で検索したら、いくつかの事例が出てくる、みたいな、

こども哲学のクックパッドがほしいなと思った。

 

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*6

 

今回のブログの内容と関連して、

私がやりたいことはこどもの哲学でしかできないことなの?という疑問がある。

夏休み中にそれも考えられたらいいなと思ってます。 

*1:今のところ、一番優れているのはこちらだと思う。p4c-japan.com

*2:古くは(!)、河野本、新しくは(!)、苫野本がある。 

*3:たとえば、われらが某団体など。リンクは貼らない。ほかにも、教員免許更新講習では、哲学対話を紹介したものが複数ある。

*4:ましてや、このやり方でなければ哲学対話ではありませんよ、とはやっぱり言いたくない。

*5:ここは最近、別のところのために書いたものから抜粋

*6:11月にここでこども哲学します。楽しみ。

こどもの哲学のチカラ?

夏休み。毎日もろもろ溜まっているのに、家でごろごろだらだらと過ごしがちで、やるべきことが溜まってしまう。夏休みの宿題を溜めるこどもと同じじゃないか!

 

でも、簡潔に、最近あったこども哲学での一場面を書きとどめておきたい。

 

....

This is 変容!なんてなかなか出会わない

こども哲学は、ふだんの学校の教室や通常の関係性にはうまく馴染めないこども(やその子を取り巻く環境)が、対話を続けていくなかで、変容していくよね、と言うことがある気がする。あるいはそれを教室という規模で言うならば、「教室が哲学の探求の共同体に変容する」などとも言いうるかもしれない。

それでも継続的にこどもたちと付き合っているわけではない自分のような実践者にとっては「This is 変容!」みたいな場面になんてなかなか出会わない。

 

でも、たまーに、それがこどもの哲学の力かどうかはよくわからないけど、一回きりの対話の場でも不思議なことが起きることもある。そんな話。

 

....

自分の身体を隠すためのイスに座れるようになる

先日のこども哲学では、お互いに知り合いでない小学4~6年生30人弱という場で結構難しいかなと思っていたのだけど、半分近くのこどもたちが手を挙げて発言してくれたおかげで、楽しく対話ができたと思う。

 

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問いは、事前に用意しておいたものから「「命は大切にしなさい」っていうのに、昆虫採集はどうして行くの?」になった。

 

そんななか、対話の前に座席の移動を伴うちょっとしたアイスブレイクをやっていたところ、一人の子がサークルから出て教室の隅で丸くなって座り込んでしまった。

どうしたの、と声をかけると体がガクガク震えている。

体調不良でないこと、緊張から輪に入れないことはわずかなやりとりのなかでも確認できたので、彼のそばにイスをもっていってあげて、そこにいていいよと言っておいた。

 

そのあと問い決めから対話に入ったわけだけど、ときどきその子の方を気にして見ると、ちょっとずつ身体が動いて、対話に参加しようとしているのが、目でみてわかるのだ。

 

1. 最初は壁のほうを向いていた身体がサークルのほうを向くようになっている。

2. サークルの外からではあるけど、問い決めの際に手を挙げて投票している。

3. 対話が始まると椅子の後ろに身体は隠しているけれど、ときどき自分で手を挙げている。でもこちらが指名すると手と身体を引っ込めてしまう。

4. 対話の後半にさしかかったあたり、サークルの外からではあるけれど、いよいよ手をピンと挙げている。本当に話したそうだ。ボールを渡してあげると、立ち上がって、しっかりと意見を言ってくれた!次に手を挙げている子にも歩いていってボールを渡してくれた!

5. そのあとは、発言はなかったけれど、サークルの外ながらさっきまで自分の身体を隠していたはずのイスに座って、対話に参加してくれていた。

6. 終了後、軽く声をかけてみたけど、なにごともなかったように淡々と帰っていった。

 

これはこどもの哲学の場によってその子自身がケアされる、というような一場面だったのだろうか。そんな大それたものなのかはわからない。その子はいつでも初めての空間では緊張しちゃうけど、徐々に慣れていく子なのかもしれない。

 

ただここまで顕著に、一人の人が短い対話のあいだに変化する、ということはなかなかないので、やっぱり印象的だった。

 

そして、その子が少しずつ参加しようとしてくれている変化を、過度に気にするでもなく、過度に拒否するでもなく、受け入れながら対話を続けてくれた27人の子たちがなくして、彼の変化はなかったと思う。

.....

こどもの哲学のチカラ?

こどもの哲学は、◯◯力を養います!

こどもの哲学は、コミュニティ作りに抜群の効果があります!

こどもの哲学は、ふだんの関係では活躍できないこどもたちがケアされます!

などなど、少しずつ実践回数が増えてきても、自信をもって成果や効果として語られることはまだ多くはない。

 

でも今回のような体験はやっぱり尊い

容易に一般化などはせずに、エピソードとして、ここに留めておきたい。

研修会でした。信頼とはなにか?の本質観取と、哲学対話の問いのもつ切実さとかいろいろ

1学期の授業が終わった。とても緊張することも多かったし、反省すべきところばかりである。未熟。でも基本的には教室に楽しい気持ちで向かっていけたし、生徒・学生とのやりとりは充実した時間だったなあと思う。夏休みしっかりと秋からの準備をして、秋からに臨もう。とりあえず、おつかれさまでした。

 

.......

子どもの哲学研修会で本質観取

先週末は立教での「子どもの哲学研修会」。担当は久しぶりに自分でした。

やりたかったことは、

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書) | 苫野 一徳 |本 | 通販 | Amazon

を参考文献に、そこで言われている「本質観取」としての哲学対話を実際にやってみること、でした。

レジュメより

当日はちょっと真面目にレジュメも作っていったので、そのレジュメから少し抜粋しておく*1

 

本質観取としての哲学対話はどうやってやるのか

一つの概念(感情:恋、嫉妬…、ことがら:教育、芸術、政治…、価値:道徳、正義、美•…)を取り上げて、対話を通してその概念の「本質」を洞察する。

 

五つの注意点

1 本質観取は辞書的な定義づけをするのとはまったくちがう。言葉の本質的な「意味」をつかみとるもの

2 本質とは絶対の真理のことじゃない。お互いにある言葉についてコミュニケーションをするさいに、無意識に共有している言葉の意味の本質を自覚的に表現すること

3 その概念についての経験がなければ本質観取は難しくなる

4 経験を語るうえでデリケートなテーマもある。実際にやるときには十分な配慮と注意をする必要がある

5 6人から12人くらいでやると、より普遍的な本質にたどり着きやすくなる

 

本質観取の手順

  1. 体験(わたしの「確信」)に即して考えましょう                  

  2. 選ばれたテーマ・概念についての問題意識(気になっていること、疑問点)を出し合う

  3. 事例を出し合う。それぞれのそのテーマ・概念についての体験を言葉にしてみる。考え合ってみる。

  4. 事例を分類し名前をつける(キーワードを見つける)

  5. すべての事例の共通性を考える。(本質を見つける)

  6. 最初の問題意識や疑問点に答える。(分かった本質をもとに問題を解き明かしてみる)

3と4のあいだのあたりで次の4つの観点で議論してみるとよい。

本質定義/類似概念とのちがい/本質特徴/発生的本質

 

当日は30名近い人に参加してもらったのだけど、全員で同じ手順で体験してみることが大切だと思ったので、グループを分けずにやってみた。

 

信頼とはなにか?

本質をとらえ出すことを目指した概念は、私の好みで

・信頼

・不安

・勝負 から選んだところ僅差で信頼に。

 

時間も1時間長で終わらせなくてはいけなかったので、かなり私のほうでテキパキと区切り、上記の手順をワークっぽく段階を踏みながらやってみた。それでも5の「すべての事例の共通性を考える」にまではたどり着けなかったのだけど。

 

 

 

これが板書*2

 

 

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 こうやって出した事例からキーワードを探した。

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 信頼についてそれぞれの経験や事例などを手がかりに「信頼とはなにか?」を説明しうるようなキーワードを挙げていったのだけど、たとえばこんなものが上がっていた。

 

・誠実

・時間(継続性)

・愛

・好意

・信用との対比ー信用は結果的、信頼は動機的 信用は取引的 信頼は好意

・信頼を失うことと回復すること

・信頼は理由のないもの

・世界の見方を変えるもの

 

実際の本質観取の手順によれば、それらをもっと丁寧に検討しながら、その場のなるべく多くの人にとって納得できるかたちに洗練していくことになるのだけど*3、ちょっとした思いつきでキーワードが一通りあがったところで、もう一度最初にやった信頼についての「問題提起」をみんなで眺めてみるだけ眺めてみた。これはとてもおもしろかったし、最初に出ていた問いについてぐっと考えやすくなるような感じがあった。

 

.....

メタダイアローグとその前後に自分で考えたこと

研修会では後半には40分くらい時間をとってその日の対話や方法がどうだったかを話すメタダイアローグをする。そこで出た話題も、出ない話題もあるけど、担当者としてその前後で考えていたことをいくつか挙げておこうと思う。

 

ふだんそれぞれが主催したり、参加したりしている哲学対話との違いは感じたか

これについては当日もいろいろな意見が出ていた。*4

 

違うという印象を感じた人からは、

ワークっぽい、手順を一つ一つ踏んでいく感じ

国語の授業っぽい感じ

みんなで一つの合意形成を目指そうとしている感じ

「〜とはなにか?」というシンプルな問いしか扱わないこと

事例、体験を出す時間が明確に確保されていたこと

問いー答えの対応ではなく、言葉ー意味の対応がより強く意識されたこと

レジュメであらかじめ進め方が予告されていたこと

などの意見があったと思う。*5

違わないという感想の人からは逆に、

自分のやっているカフェと変わらない

ふつうに様々な問いを出したなかからたまたま「〜とはなにか」系の問いに決まったとしたら、やることとしてはそんなに変わらないのではないか

ワークっぽさを除けば、手順で示されているようなことはふつうに哲学対話をしていても、行きつ戻りつやっていること

といった声もあった。

 

自分としては、

「〜とはなにか?」というシンプルかつ単純な問いが授業などでの哲学対話で選ばれることを実はそんなに望んでいないなあと改めて思い返していた。それはなぜかというと、哲学対話で採用される問い自体に、問いを出した人の思いや背景や、気になっていることが反映されていたほうがその後の対話が面白い気がする、という感じによる。某妻の言い方を借りれば、問い自体に「切実さ」があるほうが対話に入ったときに、よりグッとのめり込んでいきやすい、というか。

 

ただ、本質観取的な手順は問い自体は「〜とはなにか?」という色のないものだけれど、その後その概念についてのお互いの事例や経験を丁寧に語り合う時間が存在する。そういう意味ではお互いの体験やそれについての背景を披露し合うことを重視している点では変わりがないとも言える。

 

「切実さ」は大事。

 

そうすると、ポイントは事例を重視するかしないかにあるのではなく、

問い自体に自分たちにとって身近な事例や体験という背景を求めるか、

問いには色がなくとも(個性がなくとも)それについて話すことのなかに事例や体験が盛り込まれればよいと考えるのか、

という違いになるのだろうか。

 

 

学校の授業でこのやりかたは使えそうか

1学期の自分の授業のなかでの哲学対話があんまりうまくいっていないというか、生徒・学生たちにとってはフラストレーションの溜まる時間も多かっただろうなという反省がある。

感想をみると、

結局人それぞれだと思う、とか

問いが難しすぎてよくわかんない、とか

すぐ答えが出ちゃった、とか、そういったものが目につく。*6

その要因にはいろいろ考えられるのだけれど、生徒・学生たちにかなりの部分を委ねて考えようとしても、どこかで行き詰まってしまったり、堂々巡りになってしまったり、論点が噛み合わなくなってしまったりと、深く考えた充実感みたいなものを感じさせてあげられていないということを一つ思っている。

 

苫野本に言わせるならば、

[...]哲学的思考や哲学対話にはちょっとしたコツがある。そうしたコツを知らずに、なまじ哲学的な対話をしてしまうと、非建設的な議論に終始して、僕たちはかえって対話への希望を失ってしまうことがある。*7

状態だ。「対話への希望」をもたずにダルそうにしている人たちが教室にはそもそもいる。そういう人たちに、哲学対話の時間が「やっぱ自分たちだけで話し合ってもダメじゃん」とその感覚を強める時間にはなってほしくない。

 

なので、今回のような、ある種の丁寧な方法論に沿ってみなで一旦は合意できるような答えを出してみて、しかもそれが自分一人ではたどり着けなかった考えの深まりをもっている、という体験をしてもらうことは、彼らのフラストレーションを解消し、「考えることって楽しい!」と思ってもらうためによいのではと思っていたりもする。

 

ただ当日のメタダイアローグでも出たけれど、このやり方で充実感をもってもらうには40人クラスを3~4つのグループに分けて丁寧に手順をワークシートなどで指示しながらやる必要があるけれど、どのグループも上手にできるとは限らない。そもそも教室で多くの人は自分の事例を話したいと思ってない。だから多少慣れている大人が雰囲気をつくり、発言の口火を切ったり、水を向けてあげることが必要なのだけれど、グループを分けるとずっとついていてあげることもできない。

 

教室で40人でやろう、というときにどういうやり方が適切なのかはまだまだ永遠と模索だ。

 
哲学って絶対の真理を見出すものじゃない、と言い切ってよいのか

当日こんなコメントもあった。

「信頼とはなにか?」という問いが多くのなかから選ばれて考えるときと、信頼について本質観取をすること、は別のことである可能性もあるのでは? 

なるほどと思った。

私も、これを受けて言うならば、問いのかたちは一見同じでも、真理を目指すか共通了解を目指すかによって場のつくりは変わってくるのかなと思う。

 

 

.....

苫野さんのすごいと思うところは、哲学対話についてのやり方を説明するときに、ある種の自分自身の哲学理解を惜しげも無く披露し、それにもとづいた哲学対話のやり方を提案しているところだ。「絶対の真理」を目指す、というような哲学観にははっきりと背を向け、だからこそ「共通了解」によって概念の「本質」を取り出すような哲学対話を推奨する。

答えのない問題を考えるにことこそが哲学だ、ともよくいわれる。でもそれはやっぱり誤りだ。少なくとも、それは哲学の半分しかいい当てていない。

残り半分の、もっと大事な哲学の本質がある。

それは、その問題をとことん考え、そしてちゃんと"答え抜く"ことだ。

何度もいうように、それは決して絶対の正解なんかじゃない。でも、それでもなお、哲学は、できるだけだれもが納得できるような"共通了解"を見出そうと探究をつづけてきたのだ。*8

 こういう立場については、モヤモヤすることもあるし、これからも考えていかなきゃいけない。

 

それとは別にして今、思うのは、自分が「こどもの哲学」とか「哲学対話」というときの「哲学」について、なんだかだれもが認めるところの哲学理解があるかのように、無色透明、「哲学ってこういうことです!別に私個人の哲学に対する立場とは別に説明してます!」って自分はなりがちだけれど、そんなわけないよな、ということ。

 

これが哲学対話です

 

っていうのはだから緊張もすることなのだけど、

自分もやはりその一角を担うのだから、こんな拙いブログだけど、書きながら、考えていかなくては。

 

最後に、ツイッターでの何名かの感想をば載せさせていただきます。*9

 

 

 

 

 

 

 

そう。これが一番言いたかった。

 

 

*1:以下は、苫野一徳『はじめての哲学的思考』ちくまプリマー新書、2017年よりブログ著者が抜粋し、まとめたもの

*2:2枚目の写真は全部が映りきっていません。どなたかもっとよいものをお持ちでしたらくださいー。7/24 写真をご提供いただいたので変更しました。ゆさん、まりんさん、

 

ありがとうございます。

*3:そこまでやってみたかった。どこかで少人数でもよいのでぜひ続きをしましょう。

*4:少し混乱を招いてしまったのは、私が当日時間がなく、また6~12人が適正人数と苫野さんがおっしゃっているにもかかわらず、大人数でやったことにより、マニュアルっぽさ、ワークぽさを意識されている方と、もしこれを少人数かつ時間をかけてやったらどうなるか、という観点で話している方が混在していたこと。

*5:繰り返しになるけれど、こういった違うという印象は当日私がワークっぽく進めたことに起因するものもあるはずで、共通了解を目指す哲学対話は安易な合意形成を意図したものではない。

*6:もちろん、どのクラスにも哲学対話を楽しみにしているコアなファンは若干名はいる。

*7:苫野, 2017, p. 11.

*8:苫野, 2017, p. 23f.

*9:不都合がおありでしたらすぐに消します。ご連絡ください。