高専てつがく+α(仮)

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

「問いを立てて自分の考えを述べる」課題の難しさ

久しぶりの日記。6月も中盤に入り、少し息切れ気味なのかもしれない。

 

でも初の自家用車でドライブに出かけたり、プライベートが充実していないわけではない。

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写真はホタル祭りの灯籠。

 

自分で問いを立てる

授業では、自分で問いを立てましょう。問いを立てましょう、といろいろなところで伝えている。哲学対話をしたあとも、「大福帳」には感想のほかに「新たな疑問や残るモヤモヤ」を書く欄を設け始めた。さっそく対話を受けてさらに面白そうな問いを書いてくれる人たちもいて、それは嬉しい。

 

ただ、一方で学生に「問いを立てて自分の考えを述べる」ということをしてもらうときに、こちらがモヤモヤしてしまっていて、そのモヤモヤの理由がいまいちわかっていなかった。

 

新しく問いを立てたのに、すぐ答えちゃう

いや、そりゃこちらが「問いを立てて自分の考えを述べましょう」と言っているのだから、学生さんの書くものには冒頭に問いが書かれて、すぐ次には彼らなりの答えが来るのは当たり前だ。

でも気づいたのは、それじゃあ問いを立ててもらった意味なくないか、ということ。

たとえば、

差別をなくすことができるのか? 

という問いがあったとする。

で、すぐ次の文やその次の文で

わたしは差別は無くせないと思う。なぜなら〜。

 

と書き出すことになる。

作文としては問題ないのだけれど、これじゃあ問いを問いのかたちで立てた意味がほとんどなくなってしまっているではないか。今まであんまりこのことに私が気づいていなかった。

このやり方だと、

問いのかたちでなく、最初から

ちまたでは差別はよくない、よくないと言われる。だが、差別は無くせないのだ。だって〜。

 

と書き出しても当人の思考に変化はないだろう。

 

でもこの件に関して、今挙げたように課題を提出してきたとして、学生に非はない。問いを立てたらそれに答えるというのは大変自然なことだし、そもそも私の課題はそれを要求してきたのだ。

 

問いはなるべく長く問いのままで?

じゃあ、どうしたらよいのか。

一つは、

せっかく楽しそうな問いを立てたのだから、すぐに答えないで、なるべく問いを問いのままで分析したり、わちゃわちゃして〜。

と学生に言ってみることだ。

でもこの「問いを問いのままで分析したり、わちゃわちゃ」する、という私の感覚は、感覚なのでうまく伝わる気がしない。

もう一つは、

問いを立てたらすぐ答えてみてもいいんだけど、そしたらそこできっとさらなる疑問が出てくるよー、問いと答え、さらなる問いとさらなる答え、またそこから出る問いと答え、を続けてみて〜。

こっちのほうがまだ伝わるかもしれない。 

でもこれも数学みたいに一つ問題を立ててそれに答えることを目標とする思考に慣れていればいるほど、なぜ答えたと思ったら自らまた問題を増やすのか、という感じだろう。

 

だから、

「問いを立てて自分の考えを述べましょう」

という課題で、

こちらがなにを求めていて、

どうしてこの課題が大切だと思っていて、

それが学生たちにとってどのような意味で必要だと考えるか、を

(授業の節々でこちらの考えは話しているつもりだけれど、)

丁寧に伝えなくちゃならないだろう。

そこでなにを語るかは根本的なことだけど、結構難しいなあ。

 
最近読んだ(読んでいる)本 
働き方の哲学 360度の視点で仕事を考える

働き方の哲学 360度の視点で仕事を考える

 

働くことについて考える必要があって、読んでいる。

「哲学」というほど本のなかで哲学しているわけではないけれど、働くについて一定の知識や観点をもって考えるためには良書だと思う。

 

これからの世界をつくる仲間たちへ

これからの世界をつくる仲間たちへ

 

わたしも落合さんの仲間に入れて!ってなった。

AI時代にどうなるべきって、なんでもできる秀才オールラウンダーではなくて、自分の専門性をもってそれを突き詰める「変態」なんだって。変態はほかの人は気づかない着想や問いを持っている人。変態最高だぜ。

 

行動経済学まんが ヘンテコノミクス

行動経済学まんが ヘンテコノミクス

 

 現社の授業とかで使えるかなと思って。

クリシンといえばクリシンだし、なにかのコメントにあったように、漫画としても読める、よい読み物。

 

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

 

 某バンドのHINOMARU騒動があったりして、思い出したように購入。さすがの書きっぷりで面白い。学生にも貸し出せないかなあと思っている。

試験期間

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(我が家のベランダと植物たち)

 
こちらに来て初の定期試験期間です。

 

私の担当分はもう試験を終え、採点中。

 

長めの論述部分を設けたために、採点もその分悩ましい。

 

自分で作ったシラバスに合わせて自分で作った試験を自分で採点していると、むしろ評価されるのは自分の方だなあという気持ちが湧いてくるのだなあ。

 

授業での反応や、日々書いてもらっているものである程度の状況は把握してもらっていたつもりだけど、改めて試験というかたちで書いてもらうものを読んでいると、また違う感想も色々湧いてくる。

 

 

もっと強調すべきことがあったなあとか、ああこういうことを伝えてあげなくてはいけなかったのだなあ、とか。それらはこちらの授業が実は独りよがりだったことも明らかにしているんだ。

 

幸い、今の科目は次学期にも続く。

それに、答案返却も90分時間を当てることができるので、評価のことや、試験を受けて伝えそびれたことや、解いておくべきいくつかの誤解を話しておかなくちゃと思っています。

 

哲学者の問い

自分の授業では哲学者の立場も軽く紹介するけれど、それよりも自分の問いを自分で考えることを大切にしているつもり。そのことも採点しながら少し揺らぐ。

 

ふと大学院時代の恩師の本を手にとるとこう書いてある。

 この本に出てきたような哲学の問いは、それがいくら私たちの生活に身近なものであっても、私たちにはそれを考えるための手掛かりを容易に見つけることができません。ですから、哲学の古典と呼ばれる書物がいつでも尊重されるのです。強く自分の考えを貫くことで、歴史の淘汰に耐えた哲学思想は、私たちを深く考えることへと導いてくれます。あえて言えば、自分で深く考えるためには、哲学者の思索を手掛かりにすることが必要なのです。(御子柴善之著『自分で考える勇気 カント哲学入門』, 岩波ジュニア新書, p. 192-193.)

 ははーっ、という感じだ。

自由とはなにか?とか幸せとはなにか?とか今回学生たちが取り組んでくれた問いは確かに身近な問題として現れるものだけれど、いざ考え出すのは、考え抜くのは容易ではないのだ。哲学対話で哲学することと哲学者の思索を手掛かりにすることは矛盾しないのだけど、実際の授業では自分の力量からそのバランスが難しい。

 

 

週末はドライブ

 

そんなこともありつつ、車が納車されたので、土曜日はドライブへ。一の坂川のホタルまつり。ホタルなんかほんと見れんのかよと訝しんでいたのだけど、まあまあ見れました。真っ暗な川辺をホタルが舞う舞う。妻は見ながら泣いたらしい。

 

今まで東京住みのときには見る日が来るとも思わなかったものをこうやって現実に見る日が来るのだ。

 

神は存在するのか、という問いに対して、これまで誰も見たことがない、観測していないからいないという発言が授業でもあるけれど、それはちょっとなぁと思う。愛も恋も友情も見たことがないけど、それも神と同様にないのだろうか。

 

ホタルは見たことがない東京近郊の人がたくさんいるけれど、こうしてやっぱり存在したよ。

 

(私が見たのは正確にはホタルらしきものの光だけど。)

 

 

 

 

「哲学おしゃべりカード」で問いあてゲームをやってみる

授業時間が少し余って、試験前で、がっつり哲学対話をするわけでもないなあというときに、パっと思い付きでやってみたら、思いのほか面白かったのです。

 

使うのは、「てつがくおしゃべりカード」です。
てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

 

 トランプのようなサイズのカード50枚には、それぞれかわいらしい絵と一緒に一つ「問い」が書いてあります。「なぜ人には名前がなければならないの?」「木と葉っぱはお友だち?」「だれかがあなたの未来をぬすむことはできる?」「悲しみはスイッチで消すように消せる?」などなど。

 

 公式の使い方はこちら。

『てつがくおしゃべりカード』の使い方
『てつがくおしゃべりカード』を使った「てつがく授業」は、6人から10人ほどを円座にして、指導者または子どもたちが選んだ1枚のカードの問いを基にして、誰からでも自発的に考えを述べることから始まります。
指導者は、すべてのカードの裏面に書かれた問いをヒントに、子どもたちの考えがさらに一層深まるように刺激します。
大人は意見や考えを押し付けず、子どもたちには他の人の発言をきちんと聞くようにし、誰もが安心して発言できる雰囲気を作り出しましょう。
それだけで、子どもたちは心地よく自由な発想と思考を深め、友だちの言葉にも熱心に耳を傾けられるようになります。

 

こうは書いてあるのですが、なかなか40人近くの授業では使いづらく、どうするのが楽しいかなと私も、周りの実践者も思案しています。

 

遊び方はインディアンポーカー*1っぽい。

トランプじゃなくて、言葉でやると、NGワードゲームともいうみたい。

飲み会とか合宿の夜にやったら盛り上がるやつ。

www.sapporo-youth.jp

 

授業でやったやり方

1. 4,5人でグループを作ります。

2. グループの人数分、おしゃべりカードを伏せたまま配ります。

3. 一人一枚カードを選び、自分で見ないようにしながら相手に見えるように表を前に向けておでこに掲げる。 

4. グループで、問いを確認しながら、話しやすそう、考えやすそうな問いを一つ選ぶ。

5. その問いについて、問いそのものを言わないように気を付けながら、なるべくふつうに対話。

 その問いのカードを持っている本人は、話されている自分の問いを予想しながら、対話にも参加。ちょっと外れてるかもでも、なんとなく自分も答えてみるほうが楽しいよ。

6. 少し時間がたったら、問いを予想、当ててみる。当たらなかったらさらに続けてもよいし、答えを確認して、別の人の問いについて対話を始めてもよい。

 

一つゲーム性が加わると、高専生も楽しそうにやってくれるんだなあとうれしくなりました。

学生曰く、

  いつも、哲学することがちょっと難しくて、自分の考えをまとめることができなかったが、これは思ったことがすぐに言えるし、自分は答えがわからないワクワク感があってすごく楽しく哲学対話ができた

  そうです。

でも、まだ私はみんながやるのを見ていただけなので、楽しそうだなあという感想しか実はないのです。やりたいので、だれか研究室にやりにきてください。

 

 

地方住まいを実感する

昨日、今日は東京では海外からのゲストを迎えて、こどもの哲学のちょっとしたお祭りムードみたい。もちろん、飛行機に乗ればすぐ東京なので、永遠の距離ではないのだけれど、授業を振り替えするとなると、なかなか心理的なハードルが生まれてしまう。

別件でも人と連絡をとっていて、自分が少しずつ最新のネットワークから外れているのかもなあと思うこともあったり。まあ、むしろ今までが複数の優れた実践者の人たちと頻繁に顔を合わせられるような環境にいただけなのだけれど。

 私のようなちょっとのハードルをすごく億劫に感じてしまうところがある人間にとっては、地理的な距離は心理的な距離にもつながるんだなあ。

 

もちろん、これはこれでやっぱり大事なことだと思っている。この二か月の生活や職場の環境に満足もしている。じっくり自分の実践と目の前の学生さんたちと学校とに向き合い、ちゃんと休日は妻とゆっくり過ごすこと。

 ブログもそんなわけで、面白くなかろうと、生存報告もかねてこつこつ続けていきます。

わたしは今夜も空手に行きます。ムキムキでキレキレを目指す。