高専てつがくは発狂する

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

最近読んだ本とかこれから読む本とか雑記とか

雑記

お盆休みは東京に帰ったりもせず、妻と自宅でごろごろ、だらだらと過ごしました。

一日一本くらい映画を見たり、スーファミミニで妻に「マリオRPG」を勧めたり。

映画は、録画していた「風立ちぬ」はよかったし、「千と千尋」は妻がハマって二回連続で見た。

 

ちょっとしたお出かけとしては、柳井の金魚祭りに行ったこととか。

奥に見えるのがお祭りのちょうちん。

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ピカピカの大きい金魚を人々が取り囲んで、太鼓の音に合わせてぐるぐると高速で回す。爆走タイムがすごかった。

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ほかには、高校野球って様々に問題があるので楽しんで見れないような気もするのだけれど、それでも住んでいる地域の学校を応援したり。

 

 

 



 

最近読んだ本とか

 

学部の卒論でカント倫理学について書いて、ご指導いただいて以来、哲学対話のほうでもずっとお世話になっている先生の単著。上に書いているとおり、ただのカントの永遠平和論の解説ではなく、寺田さん(あえてさんづけをする)っぽい主張や議論が随所に見られて面白かった。

これもツイートしたことだけれど、哲学(対話)することは、カントのいう世界市民的な観点に立つこととつながっているというのは、本当だ、と思っていて、哲学対話の取り組みと合わせてもっと自分自身も論じてみたい。

すっごく久しぶりにカントを手に取りたくなった。(手に取ったとは言っていない。)

 

 

何のための「教養」か (ちくまプリマー新書)

何のための「教養」か (ちくまプリマー新書)

 

前期の授業の最後で、学生さんたちに、技術職になる(であろう)みなさんにも「哲学」や「倫理」を学ぶ意義がある、と言いたくて、この本で述べられている

教養は幸運なときには飾りであるが、不運のなかにあっては命綱となる。

 という言葉を拝借したりもした。

いつか、困ったとき、苦しいなと思ったとき、「当たり前に思っているものでも問うてよいのだ」という「倫理」の学びが助けになってくれるといいな。

 内容的には、教養を細かく論じるというよりも、著者の研究・実践遍歴を辿っていく感じだったが、それはそれで勉強になりました。

 

 

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント)

 

必要に応じて読んだのだけれど、思いのほか面白かった。原発事故前だけれど、それを予期させるような?記述もあり、示唆的だった。

科学技術政策という非常に高度で専門家集団によって決定されがちなものに対していかに市民社会の声を届けるのか。科学の側は、科学によって答えられること、言えることを真摯に情報として提供しつつ、これ以上は科学の領域を超えるという点(トランス・サイエンス)については市民の参加を促していく。大変素朴で当たり前のように聞こえる主張がいかに実践的には難しいことなのか、ということも「コンセンサス会議」(不勉強ながらはじめて聞いたワークショップの手法であった)の実践例からよくわかった。

 

 

 

 ジェンダーについては授業でも扱っているので手に取る。

全部は読めていないので、書かれている内容の良しあしは十分に判断できないのだけれど、大学のゼミ生の視点から素朴にジェンダー/フェミニズムについて向けられる問いに対して懸命に答える、という取り組みがそれとしてとてもよい。そしてすごい。

関心のある学生さんと読書会をしたいタイプの本。

 

 

体育・スポーツの哲学的見方

体育・スポーツの哲学的見方

 

スポーツ、武道あたりについて考えなくてはいけないので、必要に迫られて。

外国語のものもちゃんと調査していかないと、自分の知りたいことには出会えない感じもする。

 

 

これから読む本とか、宣伝とか

来週、第二弾の夏休みをとるので、そこで読みたい本とか。

 

資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書)

資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書)

 

 ガブリエルは主著のほうすらまだ読めていないのだけど、より公民科の教員っぽいほうの本から手に取ってみることにする。

 

  

日本人の知らない武士道 (文春新書 926)

日本人の知らない武士道 (文春新書 926)

 

武道とスポーツの違い、を知りたくて。

なにかいい文献はないですか? 

 

  

英語類義語活用辞典 (ちくま学芸文庫)

英語類義語活用辞典 (ちくま学芸文庫)

 

 

日英語表現辞典 (ちくま学芸文庫)

日英語表現辞典 (ちくま学芸文庫)

 

英語の勉強をする必要がある。来月には人と英語で話さなくてはいけないので、辞典を読んでいる場合ではないのだけれど。

 

 

夏物語

夏物語

 

大変話題の本。読むのを楽しみにしている。 

 

 

 

 

こども哲学ハンドブック 自由に考え、自由に話す場のつくり方

こども哲学ハンドブック 自由に考え、自由に話す場のつくり方

 

 これは宣伝。もうすぐ出ます。

こども哲学についての本はもう飽和しつつあるけれど、講座のテキストをもとに作ったやさしい本になっています。従来の本に新しいものを加える、というよりは、観点を変えて、これから始めてみたい方に読んでいただく最初の最初の本になればいいなという思い。

 
明日は

広島の小・中学校へ教員研修でお邪魔します。2年連続2回目。

学生さんたちに自分の意見を書いてもらう、ということ

期末試験の採点。

今回は、「哲学エッセイ」は試験ではやらずに独立した課題にしていたのだけれど、試験でも授業で扱ったいくつかのテーマ(資料)から自分で選択をし、100字程度で自分の考えを述べる問題、というのを出している。

その話。

 

ちなみに、哲学エッセイのほうは、結構大がかりで。

以前も書いたようにこんな感じ。 

 

それ以外に、2回の授業時数をかけて、フリーテーマでの哲学エッセイを持参してもらい、サイレントダイアログ形式で読み合い、フィードバックをする、ということもしてみた。1回目は400字以上、2回目は600字以上、そして最終提出には1000字以上に膨らませて、自分で立てた問いに対する考えを書いてもらう。 人生で一度くらい、自分自身でじっくりと考えてみたい「問い」についてまとまった文章を書いてもいいではないか!​​ がコンセプト。 まだ最終提出前だけれど、課された以上がんばって書いてくれる人も多くいるようで、授業中の読み合わせでは、サイレントなので静かではあるけれど、じっくり読んだり、熱くペンを走らせてくれているような、そんな気がしている。

最近の授業のこと:事前課題+小テスト+哲学エッセイでやってみる、ほか - 高専てつがくは発狂する

 

最終提出で出たものも、なかなかの力作ぞろいであった。

ただ、エッセイも含めて自分の考えを述べる問題って難しい。

エッセイのほうはまだ時間をかけて、かつ、周りからのフィードバックをもらう時間を設けて、やっているので、もともとの問いに対する自分の意見や立場が結構揺さぶられて、そのうえで書いてくれている感じがある。

ただ、試験だと、時間も限られるし、とにかく書く、という感じにさせてしまっている。

 

これは学生への批判では全くなくて、

考えることを主題にする授業だと銘打っている以上、そうやって考えを書く問題を出すのは(採点は大変だけど)教員側にとってお手軽である、それゆえにあまり考えずにやってしまっているというこちら側の反省。

 

なにが問題なのか。

試験という機会に、ふだんは考えないようなテーマについて自分の意見を言葉にしてみる、というのはとても大事なこと、であるようにも思う。

だけど、どうしても学生さんたちは定型的なお行儀のよい作文を書いてしまう。エッセイのとき、対話のとき、単に人それぞれや当たり前なことを言うのではなくて、考え続けようね、と伝えているつもりなのだけれど、そりゃあ試験となれば短時間で、点になりそうなことを書くのだからそうなる。

 

もちろん、その制約下でも生き生きとしたことを書いてくれる方もいるのだけれど、エッセイのときよりもその数は減っている、と思う。

 

 

具体的に学生さんの書いたどういうものにどういう風に不全感を感じているのかは書かない。

 

とにかく、学生さんが悪いというわけではなく、こちらがそういう枠で特段教えをせずに、書いてもらうという立て付けの問題なのだ、と思っている。

 

しかも、採点は、というと、大味で、とにかく量を趣旨に沿って書いていれば点数をあげるので、学生さんたちには、私の不全感をフィードバックできていない、という問題もある。

評価をめぐっては大問題だと思う。

 

むしろ問いを立てることを課題にできないか

と思っている。

 

○○という授業で扱ったテーマについて、それをもっと深く私たち自身が考えていくためにはどのような「問い」を考えるべきでしょうか。その問いと、なぜその問いを考えることで授業で扱ったテーマをさらに掘り下げられるとあなたが考えるのか、を説明してください。

 

これだとどうでしょう。

 

 

 

 学ぶしかない

当然、この自分の意見を書く、という課題については、様々な授業実践や研究の歴史があるわけで、もっとそれについて深く勉強し、やるならそれを軸にした実践にしていかないといけない。

 

教職の授業、もっとこういうこと(=自分の意見を書かせる課題の作り方・難しさ)を教わったり、話し合ったりしたかったなあ。

 

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

 

 

特に私の場合は、「哲学エッセイ」的なものを軸にした授業実践をどうやって見出すか、という課題に出会っているのかもしれない。また同時に、哲学対話 もやりたいわけで、盛り込みすぎな感じもある。どうしていくかなあ。

 

 

 以前にも似たようなこと(?)書いていた。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

プロジェクト学習を終えた

世間の学校は夏休みですが、勤務校は今が期末試験。

明日が試験最終日。

倫理もそこで行うので、私は明日の午後から採点マーチに突入です。

 

プロジェクト学習というなぞ

さて、勤務校では今1、2年生は新カリキュラムで動き出しているのですが、おそらくその目玉の一つが「プロジェクト学習」という科目。おおよそ7月の1ヶ月間、留学やインターンに行かない大部分の2〜4年生が履修をし、10人程度のグループと教員で90分30回(!)分、なにか(!)をしなくてはならないのです*1

 

本当は学生自身が考えたいテーマを出すタイプもあるようなのだけれど、今年度は試行的な面もあってか、教員が各自の専門性に沿ってテーマを出し、そこに関心のある学生さんたちが集まってきて、なにかをする、という感じ。(なんだか自分が高校生のころにもあった総合の時間の選択授業みたいだ。

 

 

理系、工業系の専門の学生、先生が多い中で私のテーマはだいぶ異色だったのだけれど、授業で哲学対話をやっているクラスの子たちで面白がって取ってくれた人がいて、そこはとてもありがたかった。

 

そして1ヶ月、哲学対話、学校や教育について調べてきて、発表して議論、哲学ウォーク、哲学対話、疑問の発表、などなどいろいろやってみる。

 

最後の振り返りで多くの人が印象深かったと言ってくれたのが哲学ウォークという活動。やってよかった。

 

 
冊子作ったのだ

そして、先日「成果物」として、みんなで冊子を作った*2

これはこれで、私の趣味も、手も、かなり加わったのだけれど、なんとか、なんとか、形になってよかった。

今日のブログは、プロジェクト学習、について熱く語る、というよりも、冊子作ったよ、私たちがんばったね、というご報告なのです。

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目次はこんな感じ。

 

担当教員より          ・・・・・・・・ 3

 

活動記録            ・・・・・・・・ 4

①課題1 「学校・教育を知る」     ・・・・・・・・・ 4

②哲学ウォークの記録          ・・・・・・・・・ 6

③課題2 「学校・教育を問う」     ・・・・・・・・・ 11

④哲学対話の記録            ・・・・・・・・・ 13

 

寄せ書き             ・・・・・・・・ 15

「学校の良いところ悪いところ」 

「学校はもっとこんな風になってほしい」

 

インタビュー ~先生に学校の本音を聞いてみた!!~

                 ・・・・・・・・ 17

   

個人ページ            ・・・・・・・・ 20

  私が学校を「嫌い」と思っているのはなぜなのか

 友達とは双方の意思の確認がないと成り立たないのか

 職員室は必要か?

 人類は今の社会を維持し発展させていくことが幸せなのか

 子供にはなぜ反抗期があり、いずれ終わるのか?

 人類は教育でAIに勝てるのか

 正しい教育は存在するのか?

 平等な教育とは

 学校の教育とは何なのか

 教育の改善

 

1~2名で、担当のページを決めて、それぞれが作成、集約、体裁を整える、という作業+1頁分の個人ページに各自なにかしらエッセイめいたものを書いてね、として、これを3日間で作ったので、かなり大変だったでしょう。

 

ちなみに、「箱庭の景色」というタイトルは表紙担当の学生さんが考えてくれたもので、学校という管理された空間を箱庭に見立ててくれたんだと思う。

 

 

なお、この冊子の作成の際には、東洋大付属京北中学高等学校さんが発行しておられる「哲学の日」のまとめ冊子を大いに参考にさせていただきました。具体的には、冊子をつくる、という話になった時に、学生たちには「哲学の日」の冊子を見せて、こんな感じかなー、と言っていたので、彼らはなんどもそれをめくり、自分たちの作るもののイメージを膨らませていました。寄せ書き、も、インタビューも、裏表紙に名言を載せるというアイデアも、学生たちが、「哲学の日」を読んで真似したい!と思ったものたちです。

ありがとうございます。ありがとうございます。

 

www.toyo.ac.jp

 

 

担当教員より

冊子では、頼まれて、私も短い文章を寄せた。あまり時間をかけたくもなくて、でもなにか言ってやりたくなって、ばあっと書きなぐった文章なのだけれど、一応載せておくことにする。なんでこんな熱い感じのこと、書いちゃったんだろう。

—学校で生きる者が学校について本気で問うということ 

 人生の大半を学校で教育を受け(教員である私の場合は教育をして)過ごしている者にとって、学校は単なる勉学の場にとどまらない日常生活の大半を占める“当たり前”の空間だ。そもそも“当たり前”について、あえて問いを発し、本気で考えることは難しい。当たり前は当たり前であるがゆえに、そもそもなにが本当に疑問なのか、気づかずに通り過ぎてしまうことばかりだからだ。 

 ましてや、そこでまさにあなたが生きている空間について問い、考える、ということは自分自身の足場をあえて掘り崩すことでもある。これは難しいだけでなくとても恐ろしいことだ。現状に大きな不満がないならあえて問う必要はないし、もし不満を抱えていたとしてもそれを声にして問うことで、多くの現状の不満をもたない者たちからは異端のものとして扱われるかもしれないのだから。日々を生きる生活の場ではそんな危険地帯へとわざわざ踏み出す必要はない。だから「だるい」「めんどくさい」と言って問題を回避し、「結局は人それぞれ」と言ってそれ以上考えることをやめようとするのだ。 

 いや、そんなことはない、すでに学校については様々な疑問や問いが日々提起されるではないか、とも思われるかもしれない。確かに、学生、教職員、保護者そしてときに学外からも、学校や教育の現状に対して疑問や改善の声は確かにあがる。だが、それらは疑問文のかたちをしたただの不満の表明やガス抜き、あるいは考えるふりではなかったか。それらのなかに、本気で問い、考えるようとする覚悟から発せられたものはどれくらいあったのか。 

 覚悟。そもそも本気で問う、ということはどういうことなのだろう。おそらくそれは自分は安全地帯にいて、無関係なふりを装って、ただ向かい側にあるものを問うことではない。(学校にいる者が学校について問うときも、そのような態度は可能だし、現に多くの学校について問う者はそのような態度である。)それを本気で問うことで、自分自身の足場もぐらつくかもしれない覚悟をもって、それでも問うことだ。でも本気で考えた先に待っているのが天国か地獄かもわからないのに、本気で考える必要などあるだろうか。 

*** 

 そして、はたしてこのプロジェクトはどうだっただろう。正直に言って、私たちはまだ本気で学校について考えられてはいなかった、と思う。そもそもだれもそんな危険へと踏み出したいと思っていなかったかもしれない。けれど、課題への取り組みのなかで、哲学対話を重ねるうちに、自分たちの“当たり前”が揺さぶられ、「これ以上考えたら危険だ、足場が崩れてしまうかもしれない」と肌で感じるような、そんな瞬間はいくつかあったように思う。この冊子のなかで読者のみなさんにその“感じ”をどれくらいお伝えできているのかは、わからない。あるいは、この冊子に現れているのは、本気で問おうとして危険を感じたがゆえに日常生活の側に踏みとどまろうとした部分かもしれない。だが、現場で共に探究をしてきた者として、「それ」が確かにその瞬間に存在したことは、ここに書き留めておきたい。 

 

なにが言いたいかというと、

プロジェクト学習、楽しいは楽しかったけど、むずかった。

 

 

 

 ちなみに、冊子はあと10冊くらい私の研究室にストックしてあるので、宇部にいらっしゃった方について先着順で差し上げております。

 

 

*1:あえて「なにか」というのは、学校からはプロジェクト学習とはどんな学びのことなのか、というものをちゃんと教えてもらっていないから、で、ここは割と声を大にして文句は言いたい。「FD」を増やそう、とか言ってるなら、ちゃんとプロジェクト学習ってこんなんだよ、って教えてくれる人を連れてきてほしい。

*2:学校としては、ポスターでも作品でもレポートでもなにかしら成果物があって、評価ができればそれでよい、ということになっている