あなたとわたしのこどもてつがく(仮)

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。

哲学の人としてそこにいることの逆説

 

自分の生活のなかに哲学はあるか、そしてそれはいつ哲学になるのか

昨日とあるミーティングで、こういった問題提起をいただいた。そこでは別の筋の話が展開されたので、考えていたけど言えなかったことを書く。

 

ふだんから哲学を研究していたり、哲学プラクティスと呼ばれるものに関わっている人は、自分自身の生活や仕事のなかでいつ哲学しているのか。そう問われるとハッとする。(「哲学はあるか」という問い方よりも「いつ哲学になるのか」のほうがしっくりくるなあ。)

 

自分の場合、今年はありがたいことに、定期的にかかわっている3つの学校のうち2つでは日々哲学対話を授業で行なっているので、そこでは哲学をしているはず。。。なのに、むしろ自分の仕事が哲学になっているかもと思ったのは、哲学対話などやらずに倫理や現代社会といった授業を主に講義形式で行なっている学校のほうだった。

 

もちろん、哲学対話の授業では、自分も単なる交通整理のファシリテーターというだけでなくて、一緒に考えて思ったことは率直に語るようにしたいし、なるべくそうしているつもり。なので、そこでは自分のやっていることは哲学になっていてほしい。

 

一方で、授業内容ややり方自体は、必ずしも哲学プラクティスしている、というものではないのに、哲学している感じがする、というか、その学校に哲学の人としている感じがするのだ。

 

 

ここで話題とは無関係なキレイな写真どーん!

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気仙沼港 内湾 ©平田 智幸 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)*1

 

哲学の人としてそこにいる感じ

その学校でだって本当はただの新米ペーペーで、授業はもっと改善しなくちゃいけないのだけど、年度のはじめから緊張しながら、でも肩の力を抜いて教室に行こうとしている。多分、生徒たちからはだいぶ変わった教員に見えていると思う。夏休み前後くらいから、教科の内容にかかわる質問以外にも、ゆるい雑談をしてくれる人がいたり、ちょっとした悩みを話してくれる人がいたり、進路相談をしてくれる人がでてきた。授業でもこちらは単調な講義をしようと思って行った教室で、思いがけずゆるやかな議論が起きることもあった。

 

なんというか、その学校に、非常勤講師として*2、(授業に悩み、仕事に悩み、もんもんとしているような)今自分がいる立ち位置は、哲学している人っぽい感じがする。別に私を見ている生徒たちが私と「哲学の人」と認めているというわけじゃなくて、ただの、ぽさだけど。

 

哲学をやってきて、今もんもんとしながら仕事をしている自分がそこにいる意味を実は哲学プラクティスを授業で公認されていない学校ほど感じる、というくらいの意味だ。*3

 

その意味では、先日のこのツイートも今の話と関係している気がしてくる。

哲学対話や哲学プラクティスをやる人として学校に迎えられていないときに、そのなかで自分のできることをしていくこと。そのほうが逆説的に、哲学の人っぽくそこにいることになる、のだろうか。

 

自分の言葉で率直に語るみたいなことが関係しているのかもしれない

ここでやっぱり、じゃあそのときの哲学している人っぽさはなぜ感じられるのか、という問題になるだろう。

 

今の時点で思うのは、授業内外で、自分の言葉で率直に語ったり、振舞ったりできている気がすることと、関係していそうだということくらい。やっぱり思った以上に、教室で教壇の側に立つと、自分の言葉で率直に語る、とか肩の力を抜くって難しい。というかそもそもそんなこと求められてない。

 

でもついついなるべく教員ぽくなく、「教壇の側」にいようとする。難しいけど。

念頭に置いている非常勤先では、相手が受験を控えた高校三年生なのだけれど、彼らはもう学校や教員というものをたくさん見てきているし、4月の時点で、ああこの人たちならある程度正直に思ったことをいっても、ちゃんとわかってくれるんじゃないかなと思えた。だから「教員だからこういうことを言わなきゃ」とか「授業を成立させるためにどうふるまうべきか」みたいなことを考えずに、話せている。*4

 

そういう意味では、哲学対話は授業でできている学校でも、14,15,16歳の世代の人たちのあつまる教室に入るほうが、ある意味で気を使うし、緊張もしているのだと思う。ほんとうはそういう風にこっちが緊張したり、教員としてどうすべきか、みたいな視点を外せたときに、哲学の人になれる、ということなのかな。

 

 

そんなふうに、ある問いをきっかけに、夏休み明けで授業が始まり、またバタバタと当日の朝まで授業準備をする生活に突入した矢先に、日々の生活を反省してみるのでした。

 

*1:意味はないけれど、著作権明記の練習も兼ねて入れてみた。夏休みには気仙沼にも行ってきた。

*2:これはおおいに、自分が非常勤である(専任ではない)ということと大いに関係しているはずだけれど、それだけじゃないと思っている。

*3:誤解のないように書いておくと、もちろん授業で哲学対話をすることを認めてもらっている学校はそりゃあやりやすいし、やりたいと思ったことについて、余計なことを考えずにそのままできてありがたい。自分がそこで哲学対話をさせてもらっていることにも意味はあると思っている。

*4:いいか悪いかは別である。

こども哲学のクックパッド

哲学対話を広める

先日、ぼくがとても信頼しているセミ・クローズドな集まりのなかで、

哲学対話はとてもいい実践だと思うから、もっといろんな学校に広まってほしい。そのためにはどうやったらいいか考えたい。

という話題が出た。

確かに、哲学対話、自分でもいいと思うから、様々なかたちでやっていきたいと思っているし、こういうことをやる学校が増えるといいなと思ってる。それはそうなのだけど、「広める」ということを考えたときに、途端に思考が展開していかなくなるのはなんでだろう。

 

これが哲学対話のやり方です、と言えるものはあるのか

哲学対話をやりたいけど、やり方がよくわからないんだよね...という人には、そのやり方を紹介したポータルサイト*1のようなものを作ったり、一般向けの書籍を出したり*2、講習会をする*3、といったことが考えられる。最近では、今挙げたどれについても複数の選択肢が存在している。けれど、確かに、いろいろな人がいろいろなことを言ったり、やったりしていて、これが哲学対話です!と言えるような統一的な説明やポータルサイトのようなものはない。

 

 

それに「やり方」についてはこんな素敵な歌が、いよいよNHKで作られたのだ。しかも自分もよく知っている人が出演したり、監修で関わったりしている。

www2.nhk.or.jp

 今までは対話のやり方を紹介するためには、この動画を見せていた。

youtu.be

これでも十分すぎるすばらしい出来だったけど、歌ってキャッチーでいいよね。

もうめんどうな説明は不要。二つの動画、見せてあとは始めればいいのだ。

 

 

 

その先を知りたい人のために

でも、多分、人が知りたいのは、その先なのかもしれない。実際に教室で、地域で、やるときに、具体的に何をどうしたらいいのか。対話のなかで難しい場面に出会ったらどうしたらいいのか。そんなことを教えてくれて、実践する際の不安を取り除いてくれるようなレシピのようなもの。

でもでもー、それが難しい 。だってみんな、思い思いに、気の向くままに、いろんなやり方、いろんな対応を試作しながら実践してるから。

これが哲学対話です、こうすればできますよ、メソッドはなかなか言えない。*4

ある知人は数年前、こういった現状を「密教のようだ」とたとえて、現状を一から哲学対話をやってみたい人にはアクセスしづらいのだと言っていた。入り口を広げること。

 

確かにそうなんだけど、哲学対話のやり方決定版withトラブルシューティング、みたいなものができないのは、現状の問題を超えて、哲学対話ってそもそも決定的なやり方、なんてもたないものだから、という理由がありそう。

 

哲学対話のスピリット*5

確かにこども哲学には、それなりに蓄積されてきた理論や手法があって、ぼくたちもそこから学んでいる。だけど、こども哲学にとって大切なのは、そういった決まった「やり方」ではなく、こどもたちと哲学をしようとするときの大人の側の心構えなんじゃないかなと思う。こども哲学のスピリット、とても言えるものだ。

 

大人の期待通りに考えてもらいたい、育ってもらいたいという気持ちを一旦脇に置き、こどもたちの自由な思考のなかに一緒に身を置こうとすること。ぼくたちの日常には、大切だけどそう簡単に答えの出ない問題がごろごろと転がっていて、毎日生きていくのはそう簡単じゃあない。それはおとなだけじゃなくて子どもだってきっと同じだ。

 

そう考えるなら、こども哲学は、こどもたちをそんな世界を一緒に生き抜いていく仲間のように捉えることから始まる、とも言えるのではないか。こう捉えることで、大人が正解をもっていてこどもたちに教える、のではなくて、お互いの生活の中で気になっている問いを大切に考えあうような、こども哲学の場が始まる.......のではないか。

 

こういったスピリットがあれば、やり方はどんなものであっても、きっと大丈夫だ、と思いたい。

 

いや、でもでもでもー、スピリットなら、やり方よりも、簡単に共有できそうに書いたけども、実際はそうじゃなくて、スピリット=なんでこども哲学がやりたいか、をわかってもらったり、共有するほうが難しいわけだ。

ただ、そこを理解して、共感してもらえるように、コツコツ実践をして、その実践現場に足を運んでもらって、一緒に悩んでもらう、そうやってじわじわと広がったり、喧嘩したり、離れたり、そうやっていくほうが健全なんじゃないか。

 

こども哲学のクックパッド

だから、これが一つのやり方だ、と書いたものじゃなくて、

みんなが気になったらアクセスできるような、

「小学校・国語・30人」で検索したら、いくつかの事例が出てくる、みたいな、

こども哲学のクックパッドがほしいなと思った。

 

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*6

 

今回のブログの内容と関連して、

私がやりたいことはこどもの哲学でしかできないことなの?という疑問がある。

夏休み中にそれも考えられたらいいなと思ってます。 

*1:今のところ、一番優れているのはこちらだと思う。p4c-japan.com

*2:古くは(!)、河野本、新しくは(!)、苫野本がある。 

*3:たとえば、われらが某団体など。リンクは貼らない。ほかにも、教員免許更新講習では、哲学対話を紹介したものが複数ある。

*4:ましてや、このやり方でなければ哲学対話ではありませんよ、とはやっぱり言いたくない。

*5:ここは最近、別のところのために書いたものから抜粋

*6:11月にここでこども哲学します。楽しみ。

こどもの哲学のチカラ?

夏休み。毎日もろもろ溜まっているのに、家でごろごろだらだらと過ごしがちで、やるべきことが溜まってしまう。夏休みの宿題を溜めるこどもと同じじゃないか!

 

でも、簡潔に、最近あったこども哲学での一場面を書きとどめておきたい。

 

....

This is 変容!なんてなかなか出会わない

こども哲学は、ふだんの学校の教室や通常の関係性にはうまく馴染めないこども(やその子を取り巻く環境)が、対話を続けていくなかで、変容していくよね、と言うことがある気がする。あるいはそれを教室という規模で言うならば、「教室が哲学の探求の共同体に変容する」などとも言いうるかもしれない。

それでも継続的にこどもたちと付き合っているわけではない自分のような実践者にとっては「This is 変容!」みたいな場面になんてなかなか出会わない。

 

でも、たまーに、それがこどもの哲学の力かどうかはよくわからないけど、一回きりの対話の場でも不思議なことが起きることもある。そんな話。

 

....

自分の身体を隠すためのイスに座れるようになる

先日のこども哲学では、お互いに知り合いでない小学4~6年生30人弱という場で結構難しいかなと思っていたのだけど、半分近くのこどもたちが手を挙げて発言してくれたおかげで、楽しく対話ができたと思う。

 

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問いは、事前に用意しておいたものから「「命は大切にしなさい」っていうのに、昆虫採集はどうして行くの?」になった。

 

そんななか、対話の前に座席の移動を伴うちょっとしたアイスブレイクをやっていたところ、一人の子がサークルから出て教室の隅で丸くなって座り込んでしまった。

どうしたの、と声をかけると体がガクガク震えている。

体調不良でないこと、緊張から輪に入れないことはわずかなやりとりのなかでも確認できたので、彼のそばにイスをもっていってあげて、そこにいていいよと言っておいた。

 

そのあと問い決めから対話に入ったわけだけど、ときどきその子の方を気にして見ると、ちょっとずつ身体が動いて、対話に参加しようとしているのが、目でみてわかるのだ。

 

1. 最初は壁のほうを向いていた身体がサークルのほうを向くようになっている。

2. サークルの外からではあるけど、問い決めの際に手を挙げて投票している。

3. 対話が始まると椅子の後ろに身体は隠しているけれど、ときどき自分で手を挙げている。でもこちらが指名すると手と身体を引っ込めてしまう。

4. 対話の後半にさしかかったあたり、サークルの外からではあるけれど、いよいよ手をピンと挙げている。本当に話したそうだ。ボールを渡してあげると、立ち上がって、しっかりと意見を言ってくれた!次に手を挙げている子にも歩いていってボールを渡してくれた!

5. そのあとは、発言はなかったけれど、サークルの外ながらさっきまで自分の身体を隠していたはずのイスに座って、対話に参加してくれていた。

6. 終了後、軽く声をかけてみたけど、なにごともなかったように淡々と帰っていった。

 

これはこどもの哲学の場によってその子自身がケアされる、というような一場面だったのだろうか。そんな大それたものなのかはわからない。その子はいつでも初めての空間では緊張しちゃうけど、徐々に慣れていく子なのかもしれない。

 

ただここまで顕著に、一人の人が短い対話のあいだに変化する、ということはなかなかないので、やっぱり印象的だった。

 

そして、その子が少しずつ参加しようとしてくれている変化を、過度に気にするでもなく、過度に拒否するでもなく、受け入れながら対話を続けてくれた27人の子たちがなくして、彼の変化はなかったと思う。

.....

こどもの哲学のチカラ?

こどもの哲学は、◯◯力を養います!

こどもの哲学は、コミュニティ作りに抜群の効果があります!

こどもの哲学は、ふだんの関係では活躍できないこどもたちがケアされます!

などなど、少しずつ実践回数が増えてきても、自信をもって成果や効果として語られることはまだ多くはない。

 

でも今回のような体験はやっぱり尊い

容易に一般化などはせずに、エピソードとして、ここに留めておきたい。