子どもの哲学についての論文をあと数日で仕上げたいのだけれど、書けていない。
ピンチだ。物を書くリハビリも兼ねてブログを書いてみる。
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「人は死んだらどこへ行くのか」
一瞬ドキッとなるこの問いは、小学生や中学生と哲学をするときにとてもよく彼らが出してくれる問いの代表例のようなものだ。今年も何度かこの問いが選ばれて対話をしてきた。
対話としては、人は死んだら終わり派と終わりじゃない派に大きく別れて、さらに終わりじゃない派のなかにも魂がある派、天国や地獄がある派、生まれ変わる派などがいる展開が多い。
子どもたちは死を扱うと言ってもしんみりしたり、「死ぬのが怖い!」という感じでもなく、むしろサバサバととても楽しそうに話している印象を受けるのだけど、もちろんそこで発言しない子もいるわけでその子たちの心情まで十分に汲めているわけではない。もしかしたら、この問いをクラスメイトが飄々と話している子たちを見て、
「いやいや、死なんてデリケートで恐ろしいテーマをこいつらなんでそんな楽しそうに議論してるんだよ!」
とか
「最近、おじいちゃんが死んじゃったばっかでこんな話したくもないし、聞きたくもないの!」
って思っている子がサークルの中にもいるかもしれないのだ。*1
死という極めて個人的な感覚や体験に基づいたテーマを扱うこと自体は十分に可能だと思うし、その場がその問いを選ぼうとするならまあどんどんやればいいと思うのだけれど、「死んだらどこへ行くの?」って問いの(哲学的な?)ポイントって、対話の中で積極的に発言している子よりも、実はその場では発言せずじっとしている子のほうにより(無意識のうちに)理解されている気もする。
僕自身も最近似たようなことを思った。
まさか道場で指導させていただいていた人とこんなお別れをすることになるとは。「人は死んだらどこへ行くのか」ってわりと子どもたちとキャッキャッしながら喋る話題だけど、亡くなった人に黙祷をしながらこの問いが浮かんでくると、当然だけど全然重みが違う。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2017年3月2日
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「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」
2月 16日に「てつがく」をカリキュラムに取り入れて2年目になるお茶の水女子大学附属小学校の教育実際指導研究会に行ってきた。そこで見てきたものもとても印象的で色々と書き留めておきたいこともあるのだけれど、今はそこでいただいた雑誌『児童教育』に森田伸子さんが書かれている論考から少しだけ上の話につながる話題があったので紹介したい。
森田さんはその中で犬養美智子*2さんという方が書かれたエッセイを出発点にして、哲学を二種類に分けようとしている。
犬養さんはこう仰ったそうだ。
昨今、教室で子どもが大勢で賑やかにおしゃべりをしている、子どもの哲学という授業があるが、ああいうものは哲学と言えるだろうか。*3
そして森田さんはこれを受けて「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」という区別を導入している。もちろんここでは後者が子どもの哲学の活動のことを指すことになる。森田さんとしては「1人でする哲学」をそれぞれがぶつかる人生の問題に立ち向かっていくような実存的なことと考えて、学校での「大勢でする哲学」は、そのような実存的な問題に対して1人で哲学することを「深いところから支えてくれる」ような「哲学する基礎体力」をつけるようなものだと考えている。
そしてそこから言われるのは、次のようなことだ。
みんなでする哲学では、あまり個人的なことに関わる問題はふさわしくないとリップマン*4は言っています。それは私も同感です。もちろん1人の問題をみんなの問題として考える場合もありますが、一人一人に固有の問題を、深く考えずに公共の場に引っ張り出して話し合うのは、デリケートな物を見過ごし、個人的な物をローラーで踏みならしてしまう危険性があります。対話が自由で楽しいものであるためには、テーマの選択は自由であり、かつより普遍的で一般的なものが望ましいように思います。*5
こういう言い方からすると、子どもの哲学で「死」がテーマに選ばれたとしても、それが個人的な話題に踏み込むことなく、比較的楽しい感じで対話が進んでいくというのは、むしろ望ましいことなのかもしれない。
でも、そんな簡単に割り切れないし、教室でみんなでする哲学がなんか本気で哲学することの練習っぽく捉えられちゃうのはなんか違う気がする。
でもでも、確かに教室での哲学は、死についての個人的な本気の問いを話す場にはそうそうはなり得ないだろう。
でもでもでも、教室で誰かの個人的な問題に思えることが開示されて、それをみんなで本気で哲学することができたらいいなあともやっぱり思ってしまうのだ。
サイゼで死を語る人たちもいるしね。