窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

「こどもはみんな哲学者」なのかー某博論最終面接を見学して思ったことー

昨日と今日は大学入試センター試験。一昨日の出勤時にも会った高三生たちも(当然だけど)それぞれの仕方でソワソワと過ごしていた。二日間、自分の力がしっかり出せますように。

 

さて、そんななか昨日は、日頃大変お世話になっている土屋陽介さんの博士学位請求論文の最終面接の見学*1に伺ってきました。博論の題目は「子どもの哲学と理性的思考者の教育-知的徳の教育の観点から-」ということで、国内ではまだほとんど存在しない子どもの哲学についての本格的な研究論文なのです。私のような人間にとっては、今後子どもの哲学やその周辺について実践、研究していくうえでは、理論的な土台としつつ、適切に批判し、乗り越えていくべきものです。ということで、感覚が新鮮なうちに、論文を読ませていただき、面接の場でなされたやりとりなどを踏まえて私の関心に即して考えたことをメモしておこうと思います。

 

土屋さんの問いと主張

土屋さんは序論で、新しい学習指導要領などが目指すような、現代社会の不安定性や不観測性に対する思考力教育や対話教育の充実という目標に対して必要なのは、学校を「出来合い」の問いと答えをやりとりする場から「本物の思考」を交わすことのできる場に変えることだ、と言っていると思う。そして「本物の思考」を学校にもたらすためには、「哲学的な問い」について「哲学的に思考すること」をくりかえす子どもの哲学という教育手法は十分に貢献しうる。

 

こういった前提に立ち、子どもの哲学を思考力教育研究という文脈のなかで特に「知的徳」という観点から論じる、というのが論文全体で行われていることだと言えると思う。

ところで「知的徳」とはなんなのか?

これを明らかにするのが土屋さんの博論なのだからここで簡潔に書くのはとても失礼だとも言えるのだけれど、引用しておく。

ごく大雑把に述べるならば、本稿における知的徳とは、理想的な思考者・探究者が備えているべき知的な性格特性(人格特性)のことであると述べることができる。たとえば、様々なことを知ろうとする「好奇心」、自分と異なる意見を聞くことを歓迎する「オープンな心」、多くの人と意見が食い違っても自分の信念に正当な根拠があると信じているときは意見を変えない「知的な勇気」などが、知的徳の典型事例として挙げられる。*2

道徳的な徳、たとえば節制とか勇気とか友情とか、そういうものとは区別されるような、問いに対する答え=真理を知ろうとする際に必要となってくるような特性や態度のことだ、とも言えるかもしれない。本当はこの知的徳というそのこと自体もたくさん考えなくてはいけないのだけれど、さしあたり論文の趣旨に戻る、

 

土屋論文の結論は

知的徳をとりあげることで土屋さんが明らかにした(と主張している)二つの結論はこれだ。 

1)子どもの哲学は、思考のスキルを育成するための教育手法であるだけでなく、知的徳を備えた思考者を育成するための、具体的で有効な教育手法である。

2)子どもの哲学は、探究主導社会の担い手としての理性的思考者の育成を教育上の理念として掲げる以上、知的徳の育成をその教育目的の中に明示的に含めるべきである。*3

土屋さんは論文のなかで知的徳には、さきほどの簡潔な定義のうえに、「知識を求める動機」もまた含まれる、ということも明らかにしている。それを踏まえて土屋さんの結論を平たく言うならば、子どもの哲学は、単に子どもたちに論理的な推論スキルや上手な質問の仕方、簡潔に自分の意見を述べる力、などといったもろもろのスキルを身につけさせるだけでなく、探究へと自らを駆り立てる動機を有するような「人間」を教育するものなのだ、ということになる。

 

もちろん、論文で大事なのは、問いに対してどのような論証によって答えを与えんとしているかであるのは理解しているし、それはそれで別途ちゃんと向き合いたいのだけれど、他方で、土屋論文は、子どもの哲学は自ら問い、考える人を作り出す教育なのだ、という帰結を持っていることは、とても重要なことだ。(「本物の」思考力教育のために子どもの哲学に魅力を感じている人にとっても、子どもの哲学のそうではない部分に魅力を感じている人にとっても。)

哲学教育の根本的な矛盾?

なお、土屋さんの博論第9章は、それまでの議論とは少し違った雰囲気で、学校に知的徳教育としての子どもの哲学がいかなる意味で貢献するのかが主張され、そしてその上で子どもの哲学の実践者が向き合うことになる矛盾(そもそも「哲学」を「教育」することができるのか)が指摘されている。本物の思考を、そして自らさらなるものを問い直そうとする態度を教えるのであれば、教育の場である学校の意味そのものを問い直す、ということも十分にありうるからだ。そのような意味で、

[...]子どもの哲学を含む「『哲学』を『教育』する」という営みは一般に、いったい何をしていることになるのだろうか。それは、自身の内に根本的な矛盾を孕んだ、自己論駁的ないし自己破壊的な営みにならざるをえないのではないだろうか。*4

という土屋さんの問いかけは、土屋さん自身の論文への自己批判になっているし、「教育」の場で哲学を行おうとする人たちが引き受けるべき大きな問いを提示している。土屋さんはその問いまでは連れて行ってくれたけど、答えてくれてはいないので、これからみんなで考えていかなくてはいけない問いであると思う。

...

さて、ここからは博論を読ませてもらって、わたしが考えたこと。

「こどもはみんな哲学者」なのか

 

わたしが引っかかったのは次のような土屋さんの主張だ。

 

しかし、そのような「問い」を発する子どもを育てることがそもそも可能であるためには、その前提条件として、「知識を求める動機」を涵養することが必要であるようにも思われる。もしもこのことが否定されてしまうなら、結局のところ、自由に「問う」ことを教える、、、ことは不可能であり、すなわち、哲学は万人に開かれたものでは決してなく、知を愛する心を(教育以前に)たまたまアプリオリに備えていた人のみに可能な営為である、という結論に到達してしまうように思われるのである。*5

 

この文章があるのは博論の結論部だ。

土屋さんは子どもの哲学とは知的徳の教育なのだ、と述べることで、批判精神を、あらゆることに対して問いを発する哲学する精神を、知的徳というかたちで涵養することを目指すのだと言っている。そしてそれは、哲学は万人に開かれたものなのか、どうかという問題に接続してくることになるのだ。このことは、土屋さんから知的徳の話は以前から伺うことがあったものの、あまり考えたことのない論点だった。

 

「哲学する精神」という多分にその人の性格にまで関わる部分を教育する、というのは子どもの哲学という教育目標にとって尖ったことを言い過ぎなのでは?と思っていたけれど、むしろ「哲学する精神」までを教育可能だと言ってしまうことによって、土屋さんは子どもの哲学によって、哲学を万人に開くものであらせ続けようとしているとも言えそうだ。

 

哲学は万人に開かれたものなのか

この問いは確かに重要な感じがする。土屋論文で示唆されているこの問いへの回答は、二つ。

1) 哲学は万人に開かれている。なぜなら「哲学する精神」「知を愛する心」は子どもの哲学による知的徳教育で後天的に涵養することが可能だからだ。<知的徳教育説>

2) 哲学は万人に開かれていない。なぜなら「知を愛する心」は教育以前にアプリオリにそれを備えている人たちにしかもちえないものだからだ。<哲学教育不可能説>

2)の立場は、もちろんそれとして考えるべき重要な問題だし、哲学教育へのうさんくささというのはそこから来ていそうだ。でもここでは(少なくとも)もう一つ、立場がありそうだということを考えたい。

3) 哲学は万人に開かれている。なぜなら人はもともと子どものころには不思議なことに対する好奇心や探究心をアプリオリに有しているからだ。<子どもは小さな哲学者説>

この3)<子どもは小さな哲学者説>を土屋論文は採用していないことになるのではと思っている。ただ、これまで子どもの哲学の良さや魅力が語られ、多くの人の注目を集めてきたのは、この3)の立場のように子どもたちにはそもそも「哲学する精神」のようなものが備わっていると素朴に信じられているからではないか、という気がする。

たとえば、マシューズさんや森田さんは3)の立場をとりそうな感じがする。

  

https://www.amazon.co.jp/子どもは小さな哲学者-合本版-G-B-マシューズ/dp/4783511799

 

https://www.amazon.co.jp/子どもと哲学を-問いから希望へ-森田伸子/dp/4326154209

 

この意味では、子どもの哲学に求められているのは、子どもたちにアプリオリに備わっている「哲学する精神」を引き出し、伸ばしてあげること、そしてそれに思考スキルを加えてあげること、ということになる。動機は教育者側が与えなくとも、元々子ども自身が持っているのだから教育しなくてもよい。

 こう解釈すると、哲学を万人に開く、という点では同じだったとしても、土屋論文の採用している知的徳説と子どもは小さな哲学者説は異なる立場になるのかな、というのが私の今の関心。

 

f:id:p4c-essay:20180114213045j:plain

 

子どもの哲学をわたし(あなた)はなんのためにやっているのか

長くなったのであと少しだけ。

土屋論文のそもそもの出発点は、リップマンの言う次のような子どもの哲学の目的を受け入れるところであると思う。

子どもの哲学の主要な目的は、子どもたちが自分の頭で考える方法を学ぶための手助けをすることである*6

 

 

 土屋さんは、子どもの哲学の実践にはいろいろあるけれど、このリップマンが言っているような意味での目的はほとんどの実践に共通する目的なんだと言っている。確かに、そもそも子どもの哲学は多かれ少なかれリップマンにルーツをもつのだから、当然といえば当然だ。

 

哲学的な深まりを必ずしも主目的としないような子どもの哲学

だけれど、この目的を、子どもの哲学の主要な目的としていないかもしれない実践もないではない。

 

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

子どもたちの未来を拓く探究の対話「p4c」

 

 

たとえば、最近出たp4cみやぎのみなさんの取り組みをまとめたこの本。とてもすばらしい。すごい。この本と日々の実践体制の充実ぶりを見ていると、国内のトップランナーだという感じもする。*7

そこでは他の子どもの哲学の取り組みとp4cみやぎの取り組みを区別してこんなことが言われている。

対話を通して、深く考えるという姿は基本的に同じですが、私たちは哲学対話をすることが目的ではなく、セーフティを基盤として教育をより良くしていくことを主眼にしている点で、これまでの全国の取組とは異なるものだと考えております。哲学的な深まりを目指すものではなく、すべての子どもたちがコミュニティの中に居場所をみつけること、対話を通じて新たな物事を探究することを大切にしています。*8

もちろんここで言われていることや、p4cみやぎが、「自分の頭で考える方法を目指す手助けをする」ことを目的に据えていないとは言えないだろうけれど、主目的はむしろ教室内にセーフティを実現し、良質なコミュニティを作ることにあることは確かだ。*9 p4cみやぎと土屋博論をあえて対比すれば、土屋博論は真理を目指すことを駆動させるような知的徳を問題にしていたのに対し、p4cみやぎは道徳的な徳やコミニティの形成を問題にしている。

 

むろん、その先で重要なのは、土屋さん自身も博論で問題にしているけれど、知的徳の問題と道徳的な徳の問題がどのように連関するのか(あるいはしないのか)ということだし、最終面接会で話題になっていたことと絡めて言えば、民主主義の担い手たる個人を教育するような知的徳の教育は、民主主義的なコミュニティ(探究の共同体)を作ろうとするタイプのこどもの哲学の教育と、どのように結びつくのか(あるいはつかないのか)、ということにあるだろう。

 

もう一つの大切な博論がある

最後になってしまったけれど、今の話の筋で言及しておかなくてはいけないのは、土屋さんと同時期に書かれたもう一つの博士学位請求論文の存在だ。中川雅道さんによる「探究の風景--Philosophy for Childrenについて考えたこと--」

*10。関西で長く子どもの哲学を実践されてこられた中川さんの経験が多分に含まれた論文になっていて、土屋さんのものとはまた全く毛色が違う。*11

 

まだ十分に論評できないのだけれど、中川さんは論文を読ませていただく限りだと、子どもたちの思考力を教育するといった論点は全くと言っていいほど現れてこない。それよりも中川さんの子どもの哲学にとって重要なのは「ケア」の文脈であることは明らかだ。子どもの哲学の文脈でいえば「知的安全性(intellectual safety)」。

 

中川さんの論文の魅力や主張を一言では当然要約できないけれど、たとえば結論部でこのような言葉が語られている。

聴くことを中心としたケアは、探求のサークルの中で行われる。そのサークルでは、すべての参加者の間で聴くことが相互的になっている。ということは、すべての聴く者が、それぞれ自分の居場所を持つことになる。p4cは、相互的な関係を重視し、ともに探求することによって、学校の中に様々な人が生きる場所をつくり、安定性を築く。

子どもの哲学は、探求の場での聴くことによるケアによって、安定した場所をつくる。これは字面だけを見ればひとまずはp4cみやぎが目的としていることと近そうな話だ。細かくはじっくりと読んで考えなくてはいけない。

 

土屋論文とは異なる方向性にも見える中川論文の知的安全性やケア、といった文脈もまた、これから実践、研究をしていく身として、大いに参考にさせていただきながら、ときに批判し、乗り越えていかなくては。

 

これから自分もがんばります

もう終わらなくては。尻切れとんぼ感があるけれど終わります。

実は、土屋論文、中川論文などを見てもまだ、モヤモヤしているのは、子どもの哲学を教育の観点からにせよ、哲学の観点からにせよ、実践、研究していくうえで、なにが問題なのか、なにに自分は問題を感じているのか、が本当のところわかりきっていないかもしれない、ということだったりする。

先輩たちに追いつけ、追い越せでがんばりますので、今後ともよろしくお願いします。

 

*1:

https://www.facebook.com/yohsuke.tsuchiya.7/posts/1586588461430178

*2:土屋陽介「子どもの哲学と理性的思考者の教育-知的徳の教育の観点から-」博士学位請求論文、2018年、13頁。

*3:土屋、2018年、18頁。

*4:土屋、2018年、164頁。

*5:土屋、2018年、167頁。

*6:Lipman,Matthew., Sharp, AnnM.,& Oscanyan Frederick S. Philosophy in the Classroom, (second ed.).Temple University Press,1980, p. 53[邦訳:リップマン、マシュー・シャープ、アン、マーガレット・オスカニアン、フレデリック『子どものための哲学授業:「学びの場」のつくりかた』河野哲也・清水将吾監訳、河出書房新社2015年、100頁。]

*7:最先端でありながら大変クラシカルなHPなのも興味深い。http://p4c.miyakyo-u.ac.jp/

*8:p4cみやぎ出版企画委員会著、野澤令照編『子どもたちの未来を拓く 探究の対話「p4c」』東京書籍、2018年、13頁。

*9:だからこそ、p4cみやぎは「哲学」という呼称をあえて用いていない。

*10:中川さんの博論公聴会は2月に大阪であります。中川 雅道 - 博士論文審査の日程が決まりました。大阪大学大学院文学研究科(豊中キャンパス)の中庭会議室で行われます。... | Facebook

*11:お二人は、以前から知り合いで、お互いの研究や実践のことについてもリスペクトしあい、情報交換もしあっていると理解しているけれど、そのうえで全く違うタイプの子どもの哲学についての研究が出来上がってくるの、おもしろい。

複雑でよくわからん世界で生きる

年があけてからもう10日近いぞ、まずいまずい。

今年はなんとかがんばりたい。

 

年末はこんな感じで過ごしていました。

 4月から先生をやってきたはずなのに、「通勤」というより「通学」気分になることもしばしばある。でもそれも悪くないのかなと思ったり、思わなかったり。

 

 高校3年生と話す

高校3年生は大学入試の関係で12月で授業は一度終わった。最後の授業近くなって何度か話していた話がある。どう伝わったかはよくわからないけれど、最近私が考えていることにも、授業で哲学対話をやる意味にも、つながっていると思うのでメモ。

 

大学に行って専門性をもって勉強したり、研究をしたりすることって、どういうことか

もちろん、いろんな切り口はあるだろうけれど、哲学対話の意義とも絡めて言えば、世界は自分たちが思っている以上に複雑なんだと気づくこと、は一つあるのかなと思っている。

高校までの勉強の多くは、今まで自分が知らなかったことについての知識を得ていくこと、わからなかったことがわかるようになること、が、理系文系かかわらず大半だと思う。

大学も教養科目の勉強なんかはそうだけれど、自分の興味のあるものについて知りたい!と思って究めんとしていくと、むしろそこからは「わからなさ」の連続なんじゃなかろうか。関心のあることを掘り下げて掘り下げていくと、実はそこで行き着くのは、世界ってこんなに複雑で、わからないことに満ちているのか!という体験なのではなかろうか。

なかろうか。

 

わかっていたつもりのことが実はよくわかっていなかったのだと気づくこと。*1

 

世界は思ったより複雑だ

勉強をたくさん進めていくと、自分の専門の分野について、「わかる」ようになることがいかに難しいかがわかる。この経験は、きっと他の分野や世界で起きていることにも類推できるのではなかろうか。

 

世界は複雑だ*2。そう簡単にわかるようにはならないのだ。だから、難解な事象に対して安易に答えを与えようとする言説や余りにもシンプルすぎる説明は遠ざけなくちゃいけない*3。少なくとも疑ってかからなくちゃいけない。わかったつもりはおそろしい。

 

もちろん、放っておけば私たちは、難しいことを考えずにテキパキと判断をしながら生きていく。そういう意味では、複雑な世界をシンプルに整理して、生きていくことはきっとできる。でも、きっと時に、どうしても考えざるをえない悩みや問題に出会うこともあると思う。だって世界は複雑でよくわからんものだから。

 

だから、実は大学に行ったり、あるいは他の場所でも、好きなこと、関心のあることを突き詰めていった結果、身につけられるようになるものは、(その分野の専門性の他に)、知的な謙虚さ、ではないか。

偉ぶって様々なことに答えを与えていったら、シンプルな理解を示すことではなくて、世界は思ったよりもはるかに複雑でそう簡単には私たちには理解できないものなんだという態度で、周りに起きていることに向き合うこと、そんな態度。

自分の理解していることもまた複雑な世界を前にしては間違っている可能性のある、よくわからんものなのだという思って生きる態度。高校とは違う勉強のステージで、そういう態度につながる体験に出会ってもらえたら、とても嬉しいなと思うのです。

 

ちなみに、ここまでの話は、哲学をすることとか、ソクラテス無知の知とか、そのあたりへの私の理解の一つの現れであると思う。

 

でもお正月に起きた「無知」をめぐるこういう問題をどう考えたらよいかはわからない。

 

閑話休題

私は棚田が好きです。棚田サポーターになりたい。

f:id:p4c-essay:20180108192934j:plain

東後畑棚田の農業 ©うえのゆり クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)*1

もっと生徒を信頼しなくてはいけなかったという反省

 

こういう話を、まじめな最後のメッセージとして話したつもり。思ったよりしっかり聞いてくれていて、うれしいコメントをくれる生徒が複数いた。

 

これは生徒たちにも伝えたことなのだけれど、私の反省は、もっと生徒を信じて自分の伝えたいことを話すことだったかもしれないなあと思う*4

 

どのクラスの人たちも、「倫理や現社を受験と紐づけて考える人しかいないだろう。あつまり、センターで使う人はその情報だけを求めているし、そうでない人はなるべく楽に過ごすことだけを考えているだろう」と思っていた。なので、授業冒頭の導入も最初のころは、授業内容と直接関係のない雑談でいかにウケをとるか、みたいな、授業者にとっては逃げのようなことを考えることに実はかなりの労力を割いていた気がする。

だけれど、それははっきりとした誤算で、授業の後半になってから、授業内容や私が哲学や倫理について日々考えていることを話していて、むしろそういう話題でこそ、真剣に話を聞きながら考えてくれる人たちがどのクラスにいることにようやく気づく。そういう意味では当初から、もっと授業内容を洗練させ、哲学トークを一緒にするなかで勝負すべきだったのだ。
  

今回のブログは、そんな高3生の皆さんの目にいずれどこかで触れたらいいなと思い書き留めました。なにはともあれ、もう今週末がセンター試験。大学選びだけで人生が決まるなんて、ちっとも思わないけれど、目の前の試験に今は一生懸命取り組みましょう*5

 

良い春が迎えられますように。応援しています。

*1:もちろん、広すぎて扱えないものではなくて、適切な範囲に問いを定めて、しっかりと研究方法を決めて、それに沿って丁寧に論理を組めば、その範囲で「わかる」ことはある。学問とはそうやって少しずつ前に進んでいくものだ。多分。

*2:これを「世界は複雑だ仮説」と呼びます。

*3:少し話は違うけれど、シングルストーリーの危険性を話す、チママンダ・アディーチェの話は良かった。

www.youtube.com

*4:いや、でも最近、自分の伝えたいことを伝えるという授業をやめて、なるべく自分は後ろに退きたいという立場の先生の存在も知り、悩んでいる。

*5:どうか倫政で足を引っ張りませんように!

哲学の人としてそこにいることの逆説

 

自分の生活のなかに哲学はあるか、そしてそれはいつ哲学になるのか

昨日とあるミーティングで、こういった問題提起をいただいた。そこでは別の筋の話が展開されたので、考えていたけど言えなかったことを書く。

 

ふだんから哲学を研究していたり、哲学プラクティスと呼ばれるものに関わっている人は、自分自身の生活や仕事のなかでいつ哲学しているのか。そう問われるとハッとする。(「哲学はあるか」という問い方よりも「いつ哲学になるのか」のほうがしっくりくるなあ。)

 

自分の場合、今年はありがたいことに、定期的にかかわっている3つの学校のうち2つでは日々哲学対話を授業で行なっているので、そこでは哲学をしているはず。。。なのに、むしろ自分の仕事が哲学になっているかもと思ったのは、哲学対話などやらずに倫理や現代社会といった授業を主に講義形式で行なっている学校のほうだった。

 

もちろん、哲学対話の授業では、自分も単なる交通整理のファシリテーターというだけでなくて、一緒に考えて思ったことは率直に語るようにしたいし、なるべくそうしているつもり。なので、そこでは自分のやっていることは哲学になっていてほしい。

 

一方で、授業内容ややり方自体は、必ずしも哲学プラクティスしている、というものではないのに、哲学している感じがする、というか、その学校に哲学の人としている感じがするのだ。

 

 

ここで話題とは無関係なキレイな写真どーん!

f:id:p4c-essay:20170930082114j:plain

気仙沼港 内湾 ©平田 智幸 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)*1

 

哲学の人としてそこにいる感じ

その学校でだって本当はただの新米ペーペーで、授業はもっと改善しなくちゃいけないのだけど、年度のはじめから緊張しながら、でも肩の力を抜いて教室に行こうとしている。多分、生徒たちからはだいぶ変わった教員に見えていると思う。夏休み前後くらいから、教科の内容にかかわる質問以外にも、ゆるい雑談をしてくれる人がいたり、ちょっとした悩みを話してくれる人がいたり、進路相談をしてくれる人がでてきた。授業でもこちらは単調な講義をしようと思って行った教室で、思いがけずゆるやかな議論が起きることもあった。

 

なんというか、その学校に、非常勤講師として*2、(授業に悩み、仕事に悩み、もんもんとしているような)今自分がいる立ち位置は、哲学している人っぽい感じがする。別に私を見ている生徒たちが私と「哲学の人」と認めているというわけじゃなくて、ただの、ぽさだけど。

 

哲学をやってきて、今もんもんとしながら仕事をしている自分がそこにいる意味を実は哲学プラクティスを授業で公認されていない学校ほど感じる、というくらいの意味だ。*3

 

その意味では、先日のこのツイートも今の話と関係している気がしてくる。

哲学対話や哲学プラクティスをやる人として学校に迎えられていないときに、そのなかで自分のできることをしていくこと。そのほうが逆説的に、哲学の人っぽくそこにいることになる、のだろうか。

 

自分の言葉で率直に語るみたいなことが関係しているのかもしれない

ここでやっぱり、じゃあそのときの哲学している人っぽさはなぜ感じられるのか、という問題になるだろう。

 

今の時点で思うのは、授業内外で、自分の言葉で率直に語ったり、振舞ったりできている気がすることと、関係していそうだということくらい。やっぱり思った以上に、教室で教壇の側に立つと、自分の言葉で率直に語る、とか肩の力を抜くって難しい。というかそもそもそんなこと求められてない。

 

でもついついなるべく教員ぽくなく、「教壇の側」にいようとする。難しいけど。

念頭に置いている非常勤先では、相手が受験を控えた高校三年生なのだけれど、彼らはもう学校や教員というものをたくさん見てきているし、4月の時点で、ああこの人たちならある程度正直に思ったことをいっても、ちゃんとわかってくれるんじゃないかなと思えた。だから「教員だからこういうことを言わなきゃ」とか「授業を成立させるためにどうふるまうべきか」みたいなことを考えずに、話せている。*4

 

そういう意味では、哲学対話は授業でできている学校でも、14,15,16歳の世代の人たちのあつまる教室に入るほうが、ある意味で気を使うし、緊張もしているのだと思う。ほんとうはそういう風にこっちが緊張したり、教員としてどうすべきか、みたいな視点を外せたときに、哲学の人になれる、ということなのかな。

 

 

そんなふうに、ある問いをきっかけに、夏休み明けで授業が始まり、またバタバタと当日の朝まで授業準備をする生活に突入した矢先に、日々の生活を反省してみるのでした。

 

*1:意味はないけれど、著作権明記の練習も兼ねて入れてみた。夏休みには気仙沼にも行ってきた。

*2:これはおおいに、自分が非常勤である(専任ではない)ということと大いに関係しているはずだけれど、それだけじゃないと思っている。

*3:誤解のないように書いておくと、もちろん授業で哲学対話をすることを認めてもらっている学校はそりゃあやりやすいし、やりたいと思ったことについて、余計なことを考えずにそのままできてありがたい。自分がそこで哲学対話をさせてもらっていることにも意味はあると思っている。

*4:いいか悪いかは別である。