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学生を「呼ぶ」ことと「待つ」ことのあいだ:哲学プラクティス連絡会発表のふりかえり

子の涙

子どもは今週末で2歳になります。今日は保育園で誕生日会をやってもらっているはず。毎日のようになにかしらで泣いたり、わめいたり、しています。泣いては、要求が満たされたり、もっと興味のあるものが見つかればケロッと機嫌を直すこともあって、あまり真剣に子の涙を受け止めていないことに気づいてハッとしたりする。子が、泣いて、うめいて、わめいて、なにかを訴えてくるとき、私(たち)が泣いて、うめいて、わめくときと同じくらいの心の動き・ざわめきが起きているとすれば、それはやっぱり大変なことだと思いなおす。

そんな日々です。

 

哲学プラクティス連絡会

さて、去る11月12日(土)にオンラインで哲学プラクティス連絡会第8回大会に参加して、2つ発表をしたり、他の方々と交流をさせてもらえて*1、とても楽しかったです。

 

個人発表のほうは、資料公開もしているし、また原稿にできたらと思うので、置いておいて、学生さんとした発表を通してあらためて考えたことを少しだけ残しておこうと思います。

 

発表タイトルは、

なぜ哲学対話は僕たちを惹きつけたのか? あるいはなぜ他の多くの友達を惹きつけなかったのか?高専での5年間の経験から―

今の職場に来て次の3月で5年になり、高専は5年生なので私と同じタイミングで1年生だった人たちは順調にいっていれば今度の春に卒業するという節目でもあって、卒業を控えた5年生2名を誘って発表の応募をしたのでした*2

 

学生さんが考えてくれた発表概要から一部ここにも書いておくと、

私たちは普段高専で工学について学んでいます。そんな中、小川先生の授業などで哲学対話に興味を持ち、現在まで学内外問わずに哲学対話に関する活動をしてきました。その一方で授業の中で哲学対話に参加した学生の多くは、授業外で開かれる哲学対話まで足を運ぶということにまで至りませんでした。そこで何が私たちを哲学対話へと惹きつけたのかということや、これからさらに哲学対話の裾野を広げていくにはどうしたらいいのかなどについて、私たちが考えていること、悩んでいること、うまく行っていることなどについて発表していきたいと思います。哲学対話に参加したいけれどなかなか足を踏み出せない人や、隠れ哲学対話愛好者のような人に届く発表にしていきたいと思います。

というふうに、授業の先に、学内外での哲学対話の活動に加わってくれる人がいまいち増えていかないことや、今回発表してくれた学生さんたちの後継者にあたるような人たちが不足している感じを念頭にした発表でした。

 

お二人の発表内容はそれぞれとてもよかったのだけど、そこは省略して、私が当日二人の発表を受けて、3分くらいしゃべった内容をもとに少し内容を膨らませて考えたことを書きます。

 

授業での哲学対話の機会は実はとても少ない

もちろん、私の授業設計次第でもっと増やせなくもないのだけれど、教えた方がいいこともあると思っているので、そのバランスをとると一クラスあたり多くて4,5回の経験しかさせてあげられない。なので、その限られた回数のなかでなにをするか、どのようなかたちでやるか、はとても大事になってくる。

どの程度授業外の活動も見越して授業を設計するのか、授業で楽しさをなんとなく知ってもらって、授業外の活動へと呼びこんでいくのがいいのか、でもそんなふうに授業で完結しないようなものでいいのか、みたいなことを考えています。

活動に興味のある学生を見つけ、つなげ、育てていくこと

で、じゃあとにかく授業で哲学対話に興味をもってくれる人が出てきたとして、せっかくなので授業外の活動に巻き込んでいきたいと思います。でもその場をどういうものとして設計するのか、は結構悩ましいし、結構めんどくさい。学生さんの発表でも、「哲学対話愛好会」をつくった話がありましたが、愛好会の活動というかたちでゆるくつながりつつ、うまく市内の他の学校に出かけていったり、街場で哲学カフェをやってみたり、そんなことができたらいいなと教員目線では思うのです。

ただ、学生さんはただもうちょっと哲学対話したい、みたいなことだけかもしれず、あまり教員だけが前のめりに社会的な評価とか業績的なもののためにオラオラとやっていく場になっていないかは気をつけないといけない。

こちらから声をかけ「呼ぶ」のか、学生から声をかけてくるのを「待つ」のか

学生さんの発表のキーワードの一つは「隠れ哲学対話ファン」でした。授業で哲学対話に関心をもつ人はある程度いるはずで、でもそこから授業外の活動に来る人は決して多くない。そのギャップにいるのが「隠れ哲学対話ファン」です。実際どれくらいそういう人がいるのか、実は教員目線だとあまりわからんのですが、学生さんたちがいるというのだから、それなりに数としてはいるのでしょう。だとすると、もしかしたらこちらから「呼ばれれば」加わってくるかもしれない人たちに対して、声をかけ「呼ぶ」のか、それとも「待つ」のかみたいなところでうじうじと悩みます。

発表をしていて、学生さんたちが個人的なつながりで人を「呼ぶ」のはやはりとても大切で、ありがたいなとあらためて思うのです。私は自分が教員であるがゆえに、あまり学生をほいほい「呼ぶ」のはどうかと思っている節があります。教員の権力や権威性でもって、学生を活動に巻き込んでいくのはある種暴力的な感じがするからです。学内を見てみると、けっこうな学生を巻きこんでいる活動があるのだけど、おそらく担当の教員が学生に声をかけ、呼んでいるんだろうなという様子も見えてきます。

他方で、自分がもし学生だったらきっと「隠れ哲学対話ファン」だったと思うし、先生にそんな自分を見つけて、声をかけてもらったら、悪い気もせず、活動に加わるようになっていたかもなとも思うので、「待つ」から「呼ぶ」へ、もう少し転換していったらいいかなと考えては、また迷ったり、めんどくさい気持ちになったりをぐるぐるするのでした。

5年経った。次の5年はどうしよう?

ここまでいろいろ書いてきたけれど、そもそもこの授業外での活動は端的に言って業務外のものなので、無理のない範囲でゆるゆると楽しく続けられればそれでいい。ただ、せっかく5年かけて少しずつ学生さんたちとつくってきた「高専てつがく」らしきものがあるので、「呼ぶ」ことと「待つ」ことのあいだを行ったり来たりしつつ、維持・継続していきたいと思っている次第です。

 

おしまい。

*1:他の方の発表やワークショップには残念ながら参加できず...

*2:というわけで、以前に寄稿した「高専てつがく」の中間報告的文章の続きという意味もある。