期末試験の採点。
今回は、「哲学エッセイ」は試験ではやらずに独立した課題にしていたのだけれど、試験でも授業で扱ったいくつかのテーマ(資料)から自分で選択をし、100字程度で自分の考えを述べる問題、というのを出している。
その話。
ちなみに、哲学エッセイのほうは、結構大がかりで。
以前も書いたようにこんな感じ。
それ以外に、2回の授業時数をかけて、フリーテーマでの哲学エッセイを持参してもらい、サイレントダイアログ形式で読み合い、フィードバックをする、ということもしてみた。1回目は400字以上、2回目は600字以上、そして最終提出には1000字以上に膨らませて、自分で立てた問いに対する考えを書いてもらう。 人生で一度くらい、自分自身でじっくりと考えてみたい「問い」についてまとまった文章を書いてもいいではないか! がコンセプト。 まだ最終提出前だけれど、課された以上がんばって書いてくれる人も多くいるようで、授業中の読み合わせでは、サイレントなので静かではあるけれど、じっくり読んだり、熱くペンを走らせてくれているような、そんな気がしている。
最近の授業のこと:事前課題+小テスト+哲学エッセイでやってみる、ほか - 高専てつがくは発狂する
最終提出で出たものも、なかなかの力作ぞろいであった。
ただ、エッセイも含めて自分の考えを述べる問題って難しい。
エッセイのほうはまだ時間をかけて、かつ、周りからのフィードバックをもらう時間を設けて、やっているので、もともとの問いに対する自分の意見や立場が結構揺さぶられて、そのうえで書いてくれている感じがある。
ただ、試験だと、時間も限られるし、とにかく書く、という感じにさせてしまっている。
これは学生への批判では全くなくて、
考えることを主題にする授業だと銘打っている以上、そうやって考えを書く問題を出すのは(採点は大変だけど)教員側にとってお手軽である、それゆえにあまり考えずにやってしまっているというこちら側の反省。
なにが問題なのか。
試験という機会に、ふだんは考えないようなテーマについて自分の意見を言葉にしてみる、というのはとても大事なこと、であるようにも思う。
だけど、どうしても学生さんたちは定型的なお行儀のよい作文を書いてしまう。エッセイのとき、対話のとき、単に人それぞれや当たり前なことを言うのではなくて、考え続けようね、と伝えているつもりなのだけれど、そりゃあ試験となれば短時間で、点になりそうなことを書くのだからそうなる。
もちろん、その制約下でも生き生きとしたことを書いてくれる方もいるのだけれど、エッセイのときよりもその数は減っている、と思う。
具体的に学生さんの書いたどういうものにどういう風に不全感を感じているのかは書かない。
とにかく、学生さんが悪いというわけではなく、こちらがそういう枠で特段教えをせずに、書いてもらうという立て付けの問題なのだ、と思っている。
しかも、採点は、というと、大味で、とにかく量を趣旨に沿って書いていれば点数をあげるので、学生さんたちには、私の不全感をフィードバックできていない、という問題もある。
評価をめぐっては大問題だと思う。
むしろ問いを立てることを課題にできないか
と思っている。
○○という授業で扱ったテーマについて、それをもっと深く私たち自身が考えていくためにはどのような「問い」を考えるべきでしょうか。その問いと、なぜその問いを考えることで授業で扱ったテーマをさらに掘り下げられるとあなたが考えるのか、を説明してください。
これだとどうでしょう。
学ぶしかない
当然、この自分の意見を書く、という課題については、様々な授業実践や研究の歴史があるわけで、もっとそれについて深く勉強し、やるならそれを軸にした実践にしていかないといけない。
教職の授業、もっとこういうこと(=自分の意見を書かせる課題の作り方・難しさ)を教わったり、話し合ったりしたかったなあ。
特に私の場合は、「哲学エッセイ」的なものを軸にした授業実践をどうやって見出すか、という課題に出会っているのかもしれない。また同時に、哲学対話 もやりたいわけで、盛り込みすぎな感じもある。どうしていくかなあ。
以前にも似たようなこと(?)書いていた。