某授業では、今年度の終わりが近づいてきて、哲学エッセイと称して、自由に問いを立てて、考えを書いてもらうという課題を出している。4,50分時間をとったけれど、案の定授業内で終わるはずもなく、多くの人にとって持ち帰りの課題になってしまったのは、申し訳ないです。
哲学エッセイというアイデアは、直接には東洋大学付属京北中学高等学校の「哲学エッセーコンテスト」や開智日本橋学園中学校や開智中学・高等学校の授業内で行われている小論課題からいただいている。それ以外にも哲学サマーキャンプといった活動もある。
【報告】高校生のための哲学サマーキャンプ報告 〈前半〉 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
でもそこで行われているように時間をかけて、大々的にはできないので、恥ずかしいのだけれど、備忘録のためにブログに残しておこうと思う。
私の場合
私の場合は、今年度こんなかたちでやっている。
授業内の位置付け
授業の目標として示していた、授業の知識を踏まえて「自身で新たな問題を立てることができる」「自らの考えを論理的に、かつ、説得的に表現することができる。」の到達度の確認
テーマ
自分が真剣に考え、取り組めるものであれば、授業で扱ったものでもそうでないものでも構わない
字数
400~800字くらい?短くてもよい。
評価
ちゃんと書いて出していたらまずはOK
その他
以下の項目を書いたメモ用紙を渡してある。
■問いの候補
■問いに対する考え 「〜だ」「〜だと思う」
■そう考える理由 「なぜかと言うと〜…」「というのは〜」
■自分の経験談、具体例、証拠「こんなことがあった。…」「たとえば〜」「例を挙げると〜」
■自分の考えとは異なる意見の可能性「しかし、こうも考えられる…」
■問いや自分の考えを細かく分類してみる「第一に、….。第二に、」
「AはA’とA’’という二つに分けられそうだ。つまり、…」
■仮説を立ててみる 「もし〜ならどうだろう。」「もし〜でないならば、〜なるだろう。」
これらの項目は全部満たさなきゃいけないわけじゃなくて、あくまで補助だとは伝えてある。
ほかにも、上述の京北中学・高等学校の哲学エッセーコンテストの入賞作品の問いや作品を少し見せたりもした。それでも全体の概要説明は10分くらいしかしていない、雑なものだ。
時間ももっともっととってあげなければいけないし、じっくりよいものにするためにはエッセイを書くということ、問いを立てるということ、などについても共に考えたり、共同推敲をしたり、と、やるべきことは備忘録のためにもこんな感じで。
それでも、現時点で書いてくれているものを見ても、面白いし、1年間、様々な問題に対し問いを立てて一緒に考えることを提案してきた身としては、嬉しい内容も多い。別にこの授業によってみなさんの力を伸ばしたなんて微塵も思わないけれど、問いと考えを一つのセットにして文章を書いてみようという意図がしっかり伝わっていることで、まずは十分だと思えてしまう。
教員が同じ作業をするということ
唐突だけれど、あすこまさんのブログの話。リーディングワークショップ、ライティングワークショップのことをときどき拝見するなかで、特に印象に残っているのは、生徒に活動をしてもらっているあいだは、教員もなるべく同じことを真剣にするのだ、という点だったりする。それを見て、いつもとても深く反省をする。
たとえば、空手
たとえば、自分は空手を街の道場で週に一度教える機会があるのだけれど、もう何年も、指導しているクラスで、道場生に指示した内容と同じメニューをその場で(こう書くと、クラス外で隠れて同じメニューを一人でやっているようにも見えるけれど、そんなこともない。)やり通したことはない。お手本として見せたり、部分的には加わって同じ動きをして、汗をかくけれど、全部同じことはやっていない。もちろんそれには合理的(と思われる)理由もあって、道場生の動きを細かく見て、アドバイスをしたり、時に叱咤するには、自分も同じようにメニューをこなしていたのではうまくいかない、のだ。そういえば一応の言い訳は立つ。けれど、自分も同じようにメニューをこなしてこそ、そのメニューの良し悪しやキツさ、適切なアドバイスが見えてくる、ということもある。
そもそもは、もう随分身体を動かしていないので、同じメニューを本気でやってみて、息が上がってしまうのが怖いのだ。だって先生だから。
こども哲学の場合も
こども哲学の場合はどうか。こども哲学の場合は、よく、大人もこどもも、教員も生徒も共に問いに対する「共同探究者」になるのだ、という言い方をする。だから教壇の前という定位置から離れて、皆と同じように丸くなった椅子の一つに座る。*1
もちろん、教員は対話の場で生徒とは違ういくつかの役割があるとは思う。でも、それと同時に、生徒たちと同じ共同探究者であろうとする。ここには結構難しいバランスもあるし、教員は生徒と同じようにしているつもりでも、「先生の言ったことだから」その意見が強く取り上げられたりしてしまう。それが、「ちゃんとした根拠だから」ならいいのに。
それに、空手の場合とも似ている問題もあると思っている。共同探究者っぽく振る舞ってはいても、実のところ、自分の全部を見せるような発言ではなく、教員として一歩引いてみたり、もともともっている知識の範囲内で発言してしまったり、する。全部本気で参加して、変な発言をしたり、のめり込み過ぎてしまったり、うまく発言がまとまらなかったり、すごく反発されたりするのは恥ずかしい。だって先生だから。
でも、そんな気持ちも湧きながらも、先生の先生っぽさは、そんなところじゃないはずだと思い、一生懸命考えて、対話に参加する。
だから自分も哲学エッセイを書く
そういうわけで授業でエッセイを書く時間をとっている最中に自分も書いてみることにした。とはいっても、いわゆる机間巡視をしたり、いくつかの簡単な仕事をしたりしながら、やっていたし、結局2、3クラスの作業時間をかけて書いているので、授業時間内では書き終わっていない。(ちなみに、パソコンで打ち込むことについては、訴えを認めて、手書きでもよいし、パソコンで作成したものを印刷して提出してもよいことにした。)それに、クオリティもよくわからないけれど、なんとなく最近気になっていることについて、みなさんが書くであろう字数と同じくらいで書いてみた。尻切れとんぼになっているけど許してください。
運や運命をどう受け止めたら良いか。
私にとって、私がどのような顔で、どのような時代に、どのような国のどのような家庭に生まれるか、は「どうしようもない」ことだ。この「どうしようもなさ」を私は、運や運命と呼んでいると気がする。嬉しいことでも哀しいことでも、自分の力ではどうしようもない「それ」をどう受け止めたらいいのだろう。
今、運と運命を並べて書いたが、この二つは大きく意味の異なるものと考えたほうが良さそうだ。運を言い換えてみれば、偶然。運命を言い換えてみれば、必然。この二つの違いは、自分の力ではどうしようもないけれど、結果にはなんらかの理由があったのだ、と考えられるかどうか、に結びつく。たとえば、私がある日雪道で滑って転んだとしよう。それを運と呼ぶならば、単なる偶然であって、そこにはなんの理由も意味もない。しかし私があの日あの時あの場所で転んだことを運命と呼ぶならば見えてくる状況は一変する。私が転んだという出来事には、なんか深遠な理由のある必然的な出来事だという気がしてくる。もう少し言うと、この違いは、「神」のような存在を念頭におくかどうかという点とも関係してくるかもしれない。
これらの区別を踏まえても、問いに対し結局は「甘んじて受け入れる」と答えるしかない。だってそれ以上気にしてもしょうがないいし、結果は変わらない。それに運や運命やこちらでは予知すらできないから事前に回避することもできないからだ。それでも、どうしようもないことを運と捉えるか、運命と捉えるかによって、その出来事が受け入れがいがあるものとして自分に見えてくるかどうかは、大きく変わる。雪道で転んだとき、それを「ああ、運が悪かったな、ついていないな」と運のこと(ラッキー!/アンラッキー!)として考えるのは、受け入れるしかないけれど、どうにも受け入れがいがない。けれど、「私が転んだのは、それまでに私が行ってきたことに対するなんらかの報いなのだ」と運命のことがら(オーマイゴッド!)として考えれば、それには大きな意味があるような気がして、受け入れがいがある。
そう考えると、自分のなかにもなにか特定の信仰に結びつくかどうかはわからないにしても、自分にとってどうしようもない事が起きたときに、それを受け止めがいのあるものとしていること、だから「神」のような存在を思い浮かべてしまっていることに気がつく。そしてその存在を思い浮かべてしまっていること自体も自分にとってほとんど「どうしようもない」ことだ、ということにも気がついた。
それなりに頑張って書いたけど、特にワクワクするものではなくて、ガッカリしている。
私だってこんなくらいしか書けないけど、一緒に書きながら上手になっていきたいです。
この前の雪の日に妻と作った雪ねこダルマ。
*1:でも油断すると座っている位置がいつも黒板を背にするような正面になってしまう