7つの質問の使い方
昨日は某NPOとしてのファシリテーター交流会に行ってこどもの哲学で言われる「7つの質問」について考える機会があった。
7つの質問とは「哲学者の道具箱」などと呼ばれたりする、対話を促進してくれる質問の型のようなもの。
英語ではgood thinker's toolkit。ハワイでのこども哲学=p4c hawaiiのジャクソンさんたちが7つの型に落とし込んだものだ。それぞれのワードの頭文字をとってWRAITECと呼ばれたりしているらしい。実践のときに、紙にそれを大きく書いたものを明示しておいたり、参加者ひとりひとりが質問を書いた小さな紙をもっておいて、それを意識してお互いに対話をしたりする。
なんでハワイの実践で道具箱が作られたんだろう
ハワイの実践というと、知的に安全なコミュティという理念を掲げていることはすでに知られているはずで、リップマンさんがそもそも主張したような批判的思考力教育としてのこども哲学、というよりはケア的な色彩が強いようにも見える。「7つの質問」と言われるものを、問いについての哲学的な探究を深めてくれるもの、こどもたちのおしゃべりを哲学的な議論へと高めるためのもの、だと考えると、ハワイでこの手法が整理されたのは少し意外な感じもしてくる。
でも、同時に、おとなととこどもが一緒になって共同探究をするんだ!という想いは随所に感じられる。みんなで丁寧に探究をしていくために、知的に安全なコミュニティが必要であるのと同じように、7つの質問を「哲学者の道具箱」として整えることは大事なことなのだ。哲学の勉強をしてきた大人だけが知っているものにしておくのではなくて、子どもたちにもわかる仕方で共有して、みんな一緒に探究していくこと。
カヌレで言うと?
- カヌレってなに?
- なんでカヌレが好きなの?
- そもそもカヌレっておいしいのかな?
- もしカヌレがおいしいなら、もっと人気が出ているんじゃない?
- 本当にあなたはカヌレ好きなの?(そういうふりをしているだけじゃないの?)
- カヌレがおいしい証拠はある?たとえば?
- でもカヌレにだって美味しくないものもあるんじゃない?
こういう感じで使います。
哲学者の道具箱 good thinker's toolkit
今回改めて取り上げてみて、いろいろ考えるところとか、そもそもよくわかっていないところもあったので、いい機会だし、少しまとめてみよう。
ジャクソンたちp4c hawaiiによる説明が以下のリンク。
http://p4chawaii.org/wp-content/uploads/PI-Good-Thinker’s-Tool-Kit-2.0.pdf
それをあくまで私訳かつ抄訳のクオリティだけれど、訳してまとめてみようと思う。
1. どういう意味?W:What do you mean?
明確さclarityを追い求めること。
"W"は本質的には、意味の複雑さ、あいまいさ、多様さに対する敏感さにかかわる思考の側面を捉えることだ。"W"の質問は質問を明確にしているのだ。
- きみは...によってなにを意味しているの?
- このお話を書いた人はなにを意味しているんだろう?
- それってどういうこと?
- ぼくが聞きそびれていることはなんだろう?
- ほかに知っておく必要があるのはどういうことだろう?
2. 理由 R: Reasons
なぜWhyについて考えること。
"R"が反映しているのは、哲学的に考える人にとっては、単純に意見を述べるのでは十分ではないのだ、ということ。意見は理由によって支えられるの必要がある。その理由は別の理由よりもよい理由だろうか。なぜ、を知りたいと思うときに、私たちは理由についての質問を尋ねるのだ。
- その主張を支えるための理由はあるかな?
- ...の理由にはなにがある?
- 理由の一つには...があるよ。
3. 前提 A: Assumptions
私たちが当たり前だと思っていることを知ること、それを明らかにすること。
"A"は哲学的に考えることの重要な要素には、議論や立場、論証や主張の根底にある前提を意識するようになること、そして、それを明らかにすることがあることを認めている。前提をはっきりさせて、いかにしてそういった前提が、私たちが探しているものや判断していることに影響を与えているのかを理解しよう、そしてありうる他の前提についても明らかにしていこう。
- ...だ、と考えるassumeのは合理的なことかな?
- 重要な前提に気づけたり、明らかにしている?
- この論証や主張に含まれている前提っていうのは...だよ。
- お話を考えた人が考えているassumeのは...なんじゃないかな。
4. 含意 I: Inference
もし〜なら...だ if-then、と考えること
"I"は、もし〜ならば...だ、つまり推論inferenceと含意inplicationを示している。たとえば、もし、ある一連の行為を行ったり、行わなかったりしたとしたら、なにが後から起きるだろうか。どんな結果があるだろうか。推論は、出発点(なにか見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、触れたり)でもあり、終着点(心が動いていく は出発地点で与えられていたことを超えているのだ。)でもある。ある人が顔をしかめているのを見る(出発点)で悲しんでいるんだ、と推論するかもしれない(終着点)。
- ...から...だと推測するのは合理的かな?
- もし...なら...と推測するのは合理的かな?
- ...からすると...だと思うな。
5. 真偽 True
真であること、また私たちが真であると思っていることの含意impricationについて考えること
"T"は、実際に真であると主張されているものに関係している。どうやったら私たちにはそれがわかるのだろう?私たちが真であるとみなしているものはなんらかの基準に即しているのでなければならないだろうか?そういった基準とはなんだろうか?どうやったら真であるものを評価できるだろうか?なにかが真であるかどうかを確信できない場合であれ、私たちがもしそれが真であったらその含意とはなんだろうか、と想像してみることができるだろうか?
- 今言われていることって本当true?もしそれが本当ならどういうことになる?
- もし...が本当なら、それはなにを言っていることになるんだろう?
- もし...が本当なら、それは...と言っていることになるかな?
- ...が本当であるときには、...を含意するんだ。
6. 例示 E:Example/ Evidence
その主張が真であると証明するための証拠evidenceを示すこと。
"E"は、ある立場や主張の明確化が達成されうるための一つの方法である。一般的な主張を特殊なものにしたり、例を提示することよって主張を吟味したりするための方法である。同じくらい重要なのは、主張を支持するための証拠の提示だ。証拠とはなにか。証拠は、あなたが身を置いている分野disciplineによって異なるようにも見える。証拠は科学の場合はどんなものだろう。。社会研究は?数学は?言語学は?
- ...の例はなにかな?
- その主張を支持したり、示したりするための例はあるかな。証拠はあるかな。
- ...は...の例だよ。
7. 一般化 C: Counter-example
その主張が真ではないことを証明するために反証counter-evidenceを示すこと
"C"はそれが間違いであると証明したり、少なくとも主張の限界を吟味するための道を探すことによって、主張や立場の限界を吟味するという重要な課題を反映している。
- ...への反例はあるかな?
- 今なされている主張への反例はなにかあるかな?
- ...は...への反例だよ。
なんのための道具箱なのか
うーん、もっと小慣れた日本語にしたいのに、できない。力不足です、ごめんなさい。
でも、こうやって訳そうと読んでみて、いろいろ疑問に思うこともでてきた。昨日の交流会で出た話題と合わせて少しだけ書いておこう。
そもそも「質問」ではない、など考えてみる必要のあること
某NPOではこの道具箱を「7つの質問」としていつのまにか紹介していると、元ネタは必ずしも質問ではなかった。みんなで共同で探究を進めていくときに、それを助けてくれるもの、だ。私(たち)は、質問という要素を勝手に強く読みすぎているという可能性もありそう。
ほかにも、1のWを、「どういう意味?」というように意味についての質問と言いがちだけど、実はそれは「明確さを求めること」なのだ。そもそも相手の言いたいことにある複雑さ、あいまいさを取り除いていこうとするためのもの。カヌレについての話題になったときに、いまいちカヌレってなんのことだかわからないままでは、一緒に探求をしていきたいから、「カヌレってなに?」って聞いてみる。だからmeanのMじゃなくてWと言われている(のだと思う)。
ほかにもほかにも、6の例示:Eはexampleとevidenceの二つの英語が当てられている。例示と証拠って重なるときもあるけれど、重ならないときもあるし、実はそこは取り違えちゃいけない大事なところだったりする。
カヌレが美味しいだって!?たとえば?
カヌレが美味しいだって!?証拠を見せて!
この場合は、どちらも美味しいカヌレにありつけそうだけれど、聞かれていることや答えなきゃいけないことは常に重なるとは限らなそう。
あとは、7の場合も日本語のものを参考にして*1「一般化」と訳したけれど、そもそもの英語を訳すなら「反例」だ。一般化と反例がどういう関係にあるのかも、おもしろいところ。
それに、そもそも7つでなくちゃいけないのか、哲学的探究にとって、この7つがどう貢献しているのか、だって、本当のところはっきりしているわけじゃない。ハワイの人たちが使っていて、確かになんとなく良さそうだから使っているといえば使っているだけかもしれない。
こんなことは考えてみる必要がある。
7つの質問を使った質問ぜめは哲学対話なのか
交流会では、 私に対して他の方達が7つの質問を使ってたくさん質問をしてみよう、というかたちで練習をしてみた。そのなかで、ある方かたからは、「おがわがその問いを考えたい背景みたいなものを掘り下げるだけになっていて、哲学対話っぽくはなくなってきていないか」という話があった。それに反論する人もいた。
だれかの言わんとしたことに対して、7つの質問を使って、ぐぐっと掘り下げていく、こと、は哲学対話なのか。哲学対話にとって、どういう意味をもつのか。
その場でも確認されたことではあるけれど、少なくともWやRは大事だ。そもそもの問いやだれかの意見の意味内容が明確にならないとちゃんと考えられないし、なんでそういう意見を言ったのかの理由もわからないとそこから先に進めない。そういう意味ではWとRくらいは進行役を中心に常にみんなが意識しておきたい。
こどもたちにすぐに使えるものなのか
こども、と言っても いろいろな年代があるのだけれど、特に未就学〜小学生くらいまでで、初めて哲学対話をする場合に、この7つの質問を提示したりはしないでしょう。こどもたちは、問いが与えられたら、まずは自分の考えや知っていることを言いたい、気持ちでいっぱいになる。最初のうちはその気持ちをしっかりと大切にしてあげたい。
でも同じメンバーでなんども対話の場を設けているのに、毎回それぞれ言いたいこと言いっぱなして終わるのは、やっぱり寂しい。問いに対して、みんなでゆっくりとでよいので前進していきたい。哲学的に考える人として進んでいきたい。そんなときは、きっと助けになる。
だから、あなたが場を開く側だとしたら、こどもたちとどんな場を作りたいか、によってこの道具箱も使うか使わないか、どう使うかを考えていくことになるはずだ。
こどもの哲学(哲学対話)とはなんのためにやるものなのか
どこから入っても、結局はこの問題に帰ってくる気がする。つらい。
「こどもたちといろんな意見を交換しあうんだ!」
「仲良くなるんだ!」
「コミュニケーションを円滑にするんだ!」
「思考力!思考力!」
「聴く力!」
「道徳教育!」
いろいろある、それぞれの目的にあって、適切なやり方を道具として採用していけばいい。
ただ、目的がなんであるかにせよ、おそらく「こどもの哲学」や「哲学対話」と名のつく実践の多くでは、「テーマや問いがあって、それに対して意見を述べ合う」という中身を持っていると思う。言うなれば「共同探究」。もちろんそれをガツガツやるのか、ゆっくりやるのか、は違うだろうけれど、共同探究を繰り返し進めていれば、哲学者の道具箱が役に立つ場面が必ずやってくる。
くりかえしになるけれど、「7つの質問」や「哲学者の道具箱」というと、哲学的な議論をごりごりやりたい人たちのためのもので、こどもと素朴に対話をしたい、みたいな人にとってはあまり使えないものなのでは?という感じも覚えるかもしれないけれど、きっとそうじゃない。お互いに共同探究をしていこうとするときには、自分を、相手を、その場を大切にする(ケアする)ためにこそ、こういった道具の力を借りる必要があるときもある。だからケア的な対話のための7つの質問、哲学者の道具箱、という観点をもっと押し出してもよいのだろう。
楽しみな本
こんなことを考えていたら、新しい本の出版話が入ってきた。
こどもの哲学は、思考や議論の訓練ではなく、ケア的な哲学対話である。自分で表現することを学び、他人と語り合い、ともに考えるという経験から、自己や他者についての信頼、言葉やコミュニティへの信頼を育み、困難や挫折を他人とともに乗り越える力をつける。*2
前回のブログでも取り上げた土屋陽介さんの博論での立場、知的徳の教育としてのこどもの哲学、とどう重なるのか、あるいはぶつかるのか。
そのうえで、今回の観点でいれば、「哲学者の道具箱」というごりごりの哲学っぽいものは結局なんであるのか、こういうことも一緒に考えてみたい。
カヌレの話をもっと織り交ぜたかったのですが、全然うまくできませんでした。
ということで暫定版。
カヌレ好きでカヌレの壁、作ろう。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年1月20日
カヌレカヌレカヌレカヌレ
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