窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

研修会でした。信頼とはなにか?の本質観取と、哲学対話の問いのもつ切実さとかいろいろ

1学期の授業が終わった。とても緊張することも多かったし、反省すべきところばかりである。未熟。でも基本的には教室に楽しい気持ちで向かっていけたし、生徒・学生とのやりとりは充実した時間だったなあと思う。夏休みしっかりと秋からの準備をして、秋からに臨もう。とりあえず、おつかれさまでした。

 

.......

子どもの哲学研修会で本質観取

先週末は立教での「子どもの哲学研修会」。担当は久しぶりに自分でした。

やりたかったことは、

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書) | 苫野 一徳 |本 | 通販 | Amazon

を参考文献に、そこで言われている「本質観取」としての哲学対話を実際にやってみること、でした。

レジュメより

当日はちょっと真面目にレジュメも作っていったので、そのレジュメから少し抜粋しておく*1

 

本質観取としての哲学対話はどうやってやるのか

一つの概念(感情:恋、嫉妬…、ことがら:教育、芸術、政治…、価値:道徳、正義、美•…)を取り上げて、対話を通してその概念の「本質」を洞察する。

 

五つの注意点

1 本質観取は辞書的な定義づけをするのとはまったくちがう。言葉の本質的な「意味」をつかみとるもの

2 本質とは絶対の真理のことじゃない。お互いにある言葉についてコミュニケーションをするさいに、無意識に共有している言葉の意味の本質を自覚的に表現すること

3 その概念についての経験がなければ本質観取は難しくなる

4 経験を語るうえでデリケートなテーマもある。実際にやるときには十分な配慮と注意をする必要がある

5 6人から12人くらいでやると、より普遍的な本質にたどり着きやすくなる

 

本質観取の手順

  1. 体験(わたしの「確信」)に即して考えましょう                  

  2. 選ばれたテーマ・概念についての問題意識(気になっていること、疑問点)を出し合う

  3. 事例を出し合う。それぞれのそのテーマ・概念についての体験を言葉にしてみる。考え合ってみる。

  4. 事例を分類し名前をつける(キーワードを見つける)

  5. すべての事例の共通性を考える。(本質を見つける)

  6. 最初の問題意識や疑問点に答える。(分かった本質をもとに問題を解き明かしてみる)

3と4のあいだのあたりで次の4つの観点で議論してみるとよい。

本質定義/類似概念とのちがい/本質特徴/発生的本質

 

当日は30名近い人に参加してもらったのだけど、全員で同じ手順で体験してみることが大切だと思ったので、グループを分けずにやってみた。

 

信頼とはなにか?

本質をとらえ出すことを目指した概念は、私の好みで

・信頼

・不安

・勝負 から選んだところ僅差で信頼に。

 

時間も1時間長で終わらせなくてはいけなかったので、かなり私のほうでテキパキと区切り、上記の手順をワークっぽく段階を踏みながらやってみた。それでも5の「すべての事例の共通性を考える」にまではたどり着けなかったのだけど。

 

 

 

これが板書*2

 

 

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 こうやって出した事例からキーワードを探した。

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 信頼についてそれぞれの経験や事例などを手がかりに「信頼とはなにか?」を説明しうるようなキーワードを挙げていったのだけど、たとえばこんなものが上がっていた。

 

・誠実

・時間(継続性)

・愛

・好意

・信用との対比ー信用は結果的、信頼は動機的 信用は取引的 信頼は好意

・信頼を失うことと回復すること

・信頼は理由のないもの

・世界の見方を変えるもの

 

実際の本質観取の手順によれば、それらをもっと丁寧に検討しながら、その場のなるべく多くの人にとって納得できるかたちに洗練していくことになるのだけど*3、ちょっとした思いつきでキーワードが一通りあがったところで、もう一度最初にやった信頼についての「問題提起」をみんなで眺めてみるだけ眺めてみた。これはとてもおもしろかったし、最初に出ていた問いについてぐっと考えやすくなるような感じがあった。

 

.....

メタダイアローグとその前後に自分で考えたこと

研修会では後半には40分くらい時間をとってその日の対話や方法がどうだったかを話すメタダイアローグをする。そこで出た話題も、出ない話題もあるけど、担当者としてその前後で考えていたことをいくつか挙げておこうと思う。

 

ふだんそれぞれが主催したり、参加したりしている哲学対話との違いは感じたか

これについては当日もいろいろな意見が出ていた。*4

 

違うという印象を感じた人からは、

ワークっぽい、手順を一つ一つ踏んでいく感じ

国語の授業っぽい感じ

みんなで一つの合意形成を目指そうとしている感じ

「〜とはなにか?」というシンプルな問いしか扱わないこと

事例、体験を出す時間が明確に確保されていたこと

問いー答えの対応ではなく、言葉ー意味の対応がより強く意識されたこと

レジュメであらかじめ進め方が予告されていたこと

などの意見があったと思う。*5

違わないという感想の人からは逆に、

自分のやっているカフェと変わらない

ふつうに様々な問いを出したなかからたまたま「〜とはなにか」系の問いに決まったとしたら、やることとしてはそんなに変わらないのではないか

ワークっぽさを除けば、手順で示されているようなことはふつうに哲学対話をしていても、行きつ戻りつやっていること

といった声もあった。

 

自分としては、

「〜とはなにか?」というシンプルかつ単純な問いが授業などでの哲学対話で選ばれることを実はそんなに望んでいないなあと改めて思い返していた。それはなぜかというと、哲学対話で採用される問い自体に、問いを出した人の思いや背景や、気になっていることが反映されていたほうがその後の対話が面白い気がする、という感じによる。某妻の言い方を借りれば、問い自体に「切実さ」があるほうが対話に入ったときに、よりグッとのめり込んでいきやすい、というか。

 

ただ、本質観取的な手順は問い自体は「〜とはなにか?」という色のないものだけれど、その後その概念についてのお互いの事例や経験を丁寧に語り合う時間が存在する。そういう意味ではお互いの体験やそれについての背景を披露し合うことを重視している点では変わりがないとも言える。

 

「切実さ」は大事。

 

そうすると、ポイントは事例を重視するかしないかにあるのではなく、

問い自体に自分たちにとって身近な事例や体験という背景を求めるか、

問いには色がなくとも(個性がなくとも)それについて話すことのなかに事例や体験が盛り込まれればよいと考えるのか、

という違いになるのだろうか。

 

 

学校の授業でこのやりかたは使えそうか

1学期の自分の授業のなかでの哲学対話があんまりうまくいっていないというか、生徒・学生たちにとってはフラストレーションの溜まる時間も多かっただろうなという反省がある。

感想をみると、

結局人それぞれだと思う、とか

問いが難しすぎてよくわかんない、とか

すぐ答えが出ちゃった、とか、そういったものが目につく。*6

その要因にはいろいろ考えられるのだけれど、生徒・学生たちにかなりの部分を委ねて考えようとしても、どこかで行き詰まってしまったり、堂々巡りになってしまったり、論点が噛み合わなくなってしまったりと、深く考えた充実感みたいなものを感じさせてあげられていないということを一つ思っている。

 

苫野本に言わせるならば、

[...]哲学的思考や哲学対話にはちょっとしたコツがある。そうしたコツを知らずに、なまじ哲学的な対話をしてしまうと、非建設的な議論に終始して、僕たちはかえって対話への希望を失ってしまうことがある。*7

状態だ。「対話への希望」をもたずにダルそうにしている人たちが教室にはそもそもいる。そういう人たちに、哲学対話の時間が「やっぱ自分たちだけで話し合ってもダメじゃん」とその感覚を強める時間にはなってほしくない。

 

なので、今回のような、ある種の丁寧な方法論に沿ってみなで一旦は合意できるような答えを出してみて、しかもそれが自分一人ではたどり着けなかった考えの深まりをもっている、という体験をしてもらうことは、彼らのフラストレーションを解消し、「考えることって楽しい!」と思ってもらうためによいのではと思っていたりもする。

 

ただ当日のメタダイアローグでも出たけれど、このやり方で充実感をもってもらうには40人クラスを3~4つのグループに分けて丁寧に手順をワークシートなどで指示しながらやる必要があるけれど、どのグループも上手にできるとは限らない。そもそも教室で多くの人は自分の事例を話したいと思ってない。だから多少慣れている大人が雰囲気をつくり、発言の口火を切ったり、水を向けてあげることが必要なのだけれど、グループを分けるとずっとついていてあげることもできない。

 

教室で40人でやろう、というときにどういうやり方が適切なのかはまだまだ永遠と模索だ。

 
哲学って絶対の真理を見出すものじゃない、と言い切ってよいのか

当日こんなコメントもあった。

「信頼とはなにか?」という問いが多くのなかから選ばれて考えるときと、信頼について本質観取をすること、は別のことである可能性もあるのでは? 

なるほどと思った。

私も、これを受けて言うならば、問いのかたちは一見同じでも、真理を目指すか共通了解を目指すかによって場のつくりは変わってくるのかなと思う。

 

 

.....

苫野さんのすごいと思うところは、哲学対話についてのやり方を説明するときに、ある種の自分自身の哲学理解を惜しげも無く披露し、それにもとづいた哲学対話のやり方を提案しているところだ。「絶対の真理」を目指す、というような哲学観にははっきりと背を向け、だからこそ「共通了解」によって概念の「本質」を取り出すような哲学対話を推奨する。

答えのない問題を考えるにことこそが哲学だ、ともよくいわれる。でもそれはやっぱり誤りだ。少なくとも、それは哲学の半分しかいい当てていない。

残り半分の、もっと大事な哲学の本質がある。

それは、その問題をとことん考え、そしてちゃんと"答え抜く"ことだ。

何度もいうように、それは決して絶対の正解なんかじゃない。でも、それでもなお、哲学は、できるだけだれもが納得できるような"共通了解"を見出そうと探究をつづけてきたのだ。*8

 こういう立場については、モヤモヤすることもあるし、これからも考えていかなきゃいけない。

 

それとは別にして今、思うのは、自分が「こどもの哲学」とか「哲学対話」というときの「哲学」について、なんだかだれもが認めるところの哲学理解があるかのように、無色透明、「哲学ってこういうことです!別に私個人の哲学に対する立場とは別に説明してます!」って自分はなりがちだけれど、そんなわけないよな、ということ。

 

これが哲学対話です

 

っていうのはだから緊張もすることなのだけど、

自分もやはりその一角を担うのだから、こんな拙いブログだけど、書きながら、考えていかなくては。

 

最後に、ツイッターでの何名かの感想をば載せさせていただきます。*9

 

 

 

 

 

 

 

そう。これが一番言いたかった。

 

 

*1:以下は、苫野一徳『はじめての哲学的思考』ちくまプリマー新書、2017年よりブログ著者が抜粋し、まとめたもの

*2:2枚目の写真は全部が映りきっていません。どなたかもっとよいものをお持ちでしたらくださいー。7/24 写真をご提供いただいたので変更しました。ゆさん、まりんさん、

 

ありがとうございます。

*3:そこまでやってみたかった。どこかで少人数でもよいのでぜひ続きをしましょう。

*4:少し混乱を招いてしまったのは、私が当日時間がなく、また6~12人が適正人数と苫野さんがおっしゃっているにもかかわらず、大人数でやったことにより、マニュアルっぽさ、ワークぽさを意識されている方と、もしこれを少人数かつ時間をかけてやったらどうなるか、という観点で話している方が混在していたこと。

*5:繰り返しになるけれど、こういった違うという印象は当日私がワークっぽく進めたことに起因するものもあるはずで、共通了解を目指す哲学対話は安易な合意形成を意図したものではない。

*6:もちろん、どのクラスにも哲学対話を楽しみにしているコアなファンは若干名はいる。

*7:苫野, 2017, p. 11.

*8:苫野, 2017, p. 23f.

*9:不都合がおありでしたらすぐに消します。ご連絡ください。