早くも今年も1ヶ月が終わってしまった。
1月後半も相変わらず気持ちは落ち着かないのだけれど、それでもちょっと余裕がある気持ちになるのは、単純にもちコマ数が少し減ったから。
今週はなんだか時間に余裕があるなあという気がしていたのだけど、要するに先週でとある授業の担当を終えて、週あたり90分2コマ減ったからなのだ。
— おがぢ⛅ (@ogadi_ogadi) 2020年1月30日
今週は、
勤務校の社会科教員で一緒になって企画した複数クラスの合同授業(「山口県の魅力を活かした政策を提案しよう」というお題のグループワーク)やら、
某高校の哲学対話の授業導入のお手伝いが最終回ということで体育館に学年全体で集まってもらってのまとめの会(4人組での対話⇨代表者が舞台にあがってシンポジウム方式)やら、
で、大教室&大勢の前でグループワークの指示を出す時間が多かったのでそれに関する話を。
怖い先生・優しい先生
勤務校での大教室での授業の話。今回は3人の教員のうち、私がメインでマイクをもって指示する人だったのだけれど、みなさんご存知の通り、私は穏やかな感じの教員(!)なのです。もちろん、大勢の前での話し方も少しずつ身につけてきたつもりなのだけれど、それでも大勢が集まると私が話していても、なんとなくザワザワとする感じはある。
そんななかで、パッととある先生がマイクをもち、大きな声で叫ぶ!
「××××××!!!!」
教室がピリッとする!
おーこわ、まあちゃんとやるか、みたいな声が聞こえてくる(気がする)。
そしてまた私がやわやわした声で、「さー、あと五分ですよー」みたいな声をかける。
ある意味ではよいチームワーク、とも言えるのかもしれない。現にとても助かったと思っているし、チームで教育するってこういうことなのかな、とも思わなくはない。
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ちょうどこの授業の少し前に年始にやっていたテレビドラマ「教場」を見ていたこともあって、そこででてきた警察官のテクニックの「良い警官・悪い警官」というのを思い出したりしていた。
まあでもよくよく考えてみると、怖い先生=悪い先生じゃないわけなんだけど、それでも、だれかが怖い先生という役割を担ってくれているからこそ、自分は優しい先生的ポジションでいさせてもらっているわけで。
グループワークに混ざるのが苦手
これはうすうす気づいたんだけれど、今週はっきり自覚した。
グループワークを指示して10分や15分生徒たちに取り組んでもらう。
その間、教員たちはグループのあいだを歩き回って、様子を見たり、少し困りがちなグループのところでは立ち止まり、自分も加わって一緒に考えたり、ヒントを出したりする、というのが一般的なのかなと思う。
今回も、勤務校でやった場合も、別の高校さんでやった場合も、多くの先生方はそういう仕方で生徒たちのグループ活動にうまく混ざっていっておられたように思う。(彼らからすればふつうのことなのかもしれないが、)さすがである。
それに対して私はどちらもメインのタイムキーパーや全体への目配りという役割があるということを差し引いても、グループで話しているところに割って入っていくのがはっきり苦手だ。
なんでなんだろう。盛り上がってるなら盛り上がってるで、割って入るのは悪いと思うし、あんまりうまくお題に取り組めていない人たちのところに入るのは、(お前らちゃんとやってないやろ)というBadな評価を届けるみたいで気が引けてしまうから、なのかもしれない。
まだその理由はうまく言葉にできないのだけど、そんなわけでグループワーク中の私はこれでもかというほどになんどもなんども時間を確認したり、グループのあいだを歩き回ってみんなの進行を確認(しているふりを)したり、ときどき斜め上を見てこのあとの展開を考え(ているふりをし)たり、するのだ。
哲学対話で高校生は本当に考えているのか
前々回書いた高校での哲学対話実践への「伴走」話。
昨日が年9回やってきた最後の回で、まとめということで体育館に学年全体160名に集まってもらい、問いを決め、4人組グループで話し合い、代表者が前へ出てシンポジウム方式で話し合う、という形式でやってみた。学年の先生方にはサポートとして生徒たちの対話を支援してもらう。(先生たちはスッとグループ対話に混ざっていくのだ。すごい。)
内容としては、まあまあ、というか、なんとか一年間の取り組みを悪くない形で終えることはできたかな、というところ。ただ、一年間を通じて、哲学対話が初めての生徒さんに対して、哲学対話が初めての先生方が授業をするためのお手伝いをする、ということで、じっくり私自身が進行をして適正人数で取り組む哲学対話の体験を結局一度も提供できなかったのは悔やまれるところではある。
哲学対話の魅力はこんなもんじゃないぞー、という気持ちはある。
さて、終了後、お忙しい先生方に集まっていただいて一年をふりかえっての感想や反省を話していただいた。
いくつも気になる話題があったのだけれど、一つだけ。
ある先生はこんなことを言ってくださった。(意訳)
今の自分の学校の生徒たち(特に1、2年生)に哲学対話をしても、役に立ったのはごく少数なのではないか。もともと「考えること」をもっていない生徒たちに哲学対話をしても、しょうがないのでは。
うん、確かに、と思う。
いや、もう少し正確に言うと、確かに今年のクラスやグループでの対話を見ていたら、あまりその時間の体験が響いていない(と先生方には映る)人もいたんだろうな、と思う。あるいは、ふだんの生活のなかでの生徒さんたちの振る舞いや言動を見ていて、そもそも「じっくり考える」ことや「みんなで考えたい気になっていること」があるようには思えないのだ、とも思う。
そういう背景をしっかり考慮せずに、そもそも生徒たちは「考える」ということができていないのに、自由に考える場です!といきなり哲学対話をやったって、それがどうした?という印象になるのだ。
確かに、授業で全体に行う哲学対話は、まだ考えたいことが見つかっていない人たちに対して、強制的に考えることを促す、という暴力的な部分を含んでいる。
でも、と思う。
- 生徒さんたちが考えるようになるのを待っていたら、いつ哲学対話を始めたらいいんだろう?
- そもそも考える習慣をもたない人は、いつどうやって考え出すんだろう?
- 生徒さんたちは考えられないのではなくて、本当に考える場をまだ学校で経験していないだけなんじゃないだろうか?
- だからこそ、哲学対話を哲学対話だけで区切って評価したり、それだけで完結させるのではなく、哲学対話に取り組むことをきっかけとして学校全体として考えるための土壌を作っていけないだろうか?
こんなようなことをその先生への応答に代えて、全体に向けて話したつもり。
今週の買い物とか、読んだものとか
ちなみに今回は最近買った電子メモを使ってメモをとってみた。
使いどころを見つけていきたい。
読み終わった。大変よかった。
前著(いや近著か)*1もそうだけど、心の治療について掘り下げていったたどりつくのは経済活動に偏重している時代背景だ、というのは興味深い。
あとは、野の医者と臨床心理学を分けるところに、学問のなんたるか(自身の基盤への反省性)をもってくるのも。
なんでも哲学対話に転用して考えるのは悪いくせだとは思いつつも、同様の話がありえるよなあと思ってしまう。