窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

某高校への訪問ラスト、とか

早くも今年も1ヶ月が終わってしまった。

1月後半も相変わらず気持ちは落ち着かないのだけれど、それでもちょっと余裕がある気持ちになるのは、単純にもちコマ数が少し減ったから。

今週は、

勤務校の社会科教員で一緒になって企画した複数クラスの合同授業(「山口県の魅力を活かした政策を提案しよう」というお題のグループワーク)やら、

某高校の哲学対話の授業導入のお手伝いが最終回ということで体育館に学年全体で集まってもらってのまとめの会(4人組での対話⇨代表者が舞台にあがってシンポジウム方式)やら、

で、大教室&大勢の前でグループワークの指示を出す時間が多かったのでそれに関する話を。

 

怖い先生・優しい先生

勤務校での大教室での授業の話。今回は3人の教員のうち、私がメインでマイクをもって指示する人だったのだけれど、みなさんご存知の通り、私は穏やかな感じの教員(!)なのです。もちろん、大勢の前での話し方も少しずつ身につけてきたつもりなのだけれど、それでも大勢が集まると私が話していても、なんとなくザワザワとする感じはある。

そんななかで、パッととある先生がマイクをもち、大きな声で叫ぶ!

「××××××!!!!」

教室がピリッとする!

おーこわ、まあちゃんとやるか、みたいな声が聞こえてくる(気がする)。

そしてまた私がやわやわした声で、「さー、あと五分ですよー」みたいな声をかける。

 

ある意味ではよいチームワーク、とも言えるのかもしれない。現にとても助かったと思っているし、チームで教育するってこういうことなのかな、とも思わなくはない。

 

****

ちょうどこの授業の少し前に年始にやっていたテレビドラマ「教場」を見ていたこともあって、そこででてきた警察官のテクニックの「良い警官・悪い警官」というのを思い出したりしていた。

良い警官・悪い警官 - Wikipedia

まあでもよくよく考えてみると、怖い先生=悪い先生じゃないわけなんだけど、それでも、だれかが怖い先生という役割を担ってくれているからこそ、自分は優しい先生的ポジションでいさせてもらっているわけで。

 

 

グループワークに混ざるのが苦手 

これはうすうす気づいたんだけれど、今週はっきり自覚した。

グループワークを指示して10分や15分生徒たちに取り組んでもらう。

その間、教員たちはグループのあいだを歩き回って、様子を見たり、少し困りがちなグループのところでは立ち止まり、自分も加わって一緒に考えたり、ヒントを出したりする、というのが一般的なのかなと思う。

今回も、勤務校でやった場合も、別の高校さんでやった場合も、多くの先生方はそういう仕方で生徒たちのグループ活動にうまく混ざっていっておられたように思う。(彼らからすればふつうのことなのかもしれないが、)さすがである。

 

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いらすとやさんより「グループディスカッションのイラスト(学生)」

それに対して私はどちらもメインのタイムキーパーや全体への目配りという役割があるということを差し引いても、グループで話しているところに割って入っていくのがはっきり苦手だ。

なんでなんだろう。盛り上がってるなら盛り上がってるで、割って入るのは悪いと思うし、あんまりうまくお題に取り組めていない人たちのところに入るのは、(お前らちゃんとやってないやろ)というBadな評価を届けるみたいで気が引けてしまうから、なのかもしれない。

まだその理由はうまく言葉にできないのだけど、そんなわけでグループワーク中の私はこれでもかというほどになんどもなんども時間を確認したり、グループのあいだを歩き回ってみんなの進行を確認(しているふりを)したり、ときどき斜め上を見てこのあとの展開を考え(ているふりをし)たり、するのだ。

 

 

哲学対話で高校生は本当に考えているのか

前々回書いた高校での哲学対話実践への「伴走」話。 

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

昨日が年9回やってきた最後の回で、まとめということで体育館に学年全体160名に集まってもらい、問いを決め、4人組グループで話し合い、代表者が前へ出てシンポジウム方式で話し合う、という形式でやってみた。学年の先生方にはサポートとして生徒たちの対話を支援してもらう。(先生たちはスッとグループ対話に混ざっていくのだ。すごい。)

 

内容としては、まあまあ、というか、なんとか一年間の取り組みを悪くない形で終えることはできたかな、というところ。ただ、一年間を通じて、哲学対話が初めての生徒さんに対して、哲学対話が初めての先生方が授業をするためのお手伝いをする、ということで、じっくり私自身が進行をして適正人数で取り組む哲学対話の体験を結局一度も提供できなかったのは悔やまれるところではある。

哲学対話の魅力はこんなもんじゃないぞー、という気持ちはある。

 

さて、終了後、お忙しい先生方に集まっていただいて一年をふりかえっての感想や反省を話していただいた。

いくつも気になる話題があったのだけれど、一つだけ。

ある先生はこんなことを言ってくださった。(意訳)

今の自分の学校の生徒たち(特に1、2年生)に哲学対話をしても、役に立ったのはごく少数なのではないか。もともと「考えること」をもっていない生徒たちに哲学対話をしても、しょうがないのでは。

うん、確かに、と思う。

いや、もう少し正確に言うと、確かに今年のクラスやグループでの対話を見ていたら、あまりその時間の体験が響いていない(と先生方には映る)人もいたんだろうな、と思う。あるいは、ふだんの生活のなかでの生徒さんたちの振る舞いや言動を見ていて、そもそも「じっくり考える」ことや「みんなで考えたい気になっていること」があるようには思えないのだ、とも思う。

そういう背景をしっかり考慮せずに、そもそも生徒たちは「考える」ということができていないのに、自由に考える場です!といきなり哲学対話をやったって、それがどうした?という印象になるのだ。

 

確かに、授業で全体に行う哲学対話は、まだ考えたいことが見つかっていない人たちに対して、強制的に考えることを促す、という暴力的な部分を含んでいる。

でも、と思う。

  • 生徒さんたちが考えるようになるのを待っていたら、いつ哲学対話を始めたらいいんだろう?
  • そもそも考える習慣をもたない人は、いつどうやって考え出すんだろう?
  • 生徒さんたちは考えられないのではなくて、本当に考える場をまだ学校で経験していないだけなんじゃないだろうか?
  • だからこそ、哲学対話を哲学対話だけで区切って評価したり、それだけで完結させるのではなく、哲学対話に取り組むことをきっかけとして学校全体として考えるための土壌を作っていけないだろうか?  

こんなようなことをその先生への応答に代えて、全体に向けて話したつもり。

 

 

 

 

 

今週の買い物とか、読んだものとか

ちなみに今回は最近買った電子メモを使ってメモをとってみた。

キングジム ブギーボード 電子メモパッド BB-1GXクロ クロ

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  • 発売日: 2017/09/15
  • メディア: オフィス用品
 

 使いどころを見つけていきたい。

 

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

読み終わった。大変よかった。

前著(いや近著か)*1もそうだけど、心の治療について掘り下げていったたどりつくのは経済活動に偏重している時代背景だ、というのは興味深い。 

あとは、野の医者と臨床心理学を分けるところに、学問のなんたるか(自身の基盤への反省性)をもってくるのも。 

なんでも哲学対話に転用して考えるのは悪いくせだとは思いつつも、同様の話がありえるよなあと思ってしまう。 

 


 

 

 

*1: 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

今週の哲学対話、私に支払われているお金の話、ほか

 

今週は哲学対話をたくさんしたので、それについて書こう。

 

現代社会の授業で「歳が変わると人として存在意義は変わるのか?」を考えた

労働問題および社会保障あたりについてうだうだと講義をしたあとで、ここにある『TEMPEST』の一部をみんなで読んで、問いを出して、考える、という流れ。

ビッグコミックスペリオールに2018年17号に掲載された読み切り短編で、平成51年の日本を舞台にしたディストピアものです

 

そこではかなり前(おそらく平成30年ころ)に、超高齢化社会対策として「最後期高齢者特区制度」という政策が導入されてします

 

すべての85歳以上の高齢者から「人権カード」をいったん回収して施設に収容し、(1)90歳までに自死サービスを受ける(相続税等優遇措置あり)、(2)90歳になったときに「老人検定試験」に合格することによって「人権カード」の返却を受けて社会に復帰する、(3)90歳で「人権カード」なしに施設外に放逐されるの3つから身の振り方を決めなくてはなりません*1

 

こういう世界観のディストピアものである。

問いはみんなに事前に出してもらったものを私があらかじめ6つに絞っておいて、そこから選ぶ。

選ばれた問いは、「歳が変わると人として存在意義は変わるのか?」 に。

テーマがテーマなだけに、やはりデリケートな内容の対話に。

学生さんたちは手を上げて話してくれる人も多し、一人一人すごく難しいテーマをとつとつと自分の表現を探しながら話していく感じがとてもよかった。。一方で、こういうテーマはむしろ発言をしていない聴く側の集中力や態度が試される、というか、そういう風に感じる場面もあった。

マンガを読んで~、というのは学生さんたちにとって引きのあるものでよいのだけど、このマンガでそれを続けるかどうか、は悩ましいのです。 

 

倫理の授業で生命倫理について「デザイナーベビーは幸せになれるのか」を考えた

前期にもやった共同研究ベース*2の授業をする。

1. デザイナーベビー&出生前診断⇨優生思想の解説を手短にする

2. 対話前の今の自分自身の考えをワークシートで

3. 哲学対話

4. 対話後の今の自分自身の考えをワークシートで

という流れ。

時間の都合上問いは、こちらで用意した三択

・親が子どもをデザインすることは許されるか

・デザイナーベイビーは幸せになれるか

・中絶は禁止すべきか

から多数決で。

二クラスで実施したのだけれど、どちらのクラスも「デザイナーベビーは幸せになれるのか」が選ばれた

あるクラスでは、親が生まれたあとの子どもをかなり厳しくしつけたり、勉強やスポーツを強制してやらせるのもある種のデザインだよねー、という話から、生まれる前のデザインと比較しながら考える。意外にも幸せにはなれなさそう(親の強制や理想の押し付けは辛い)という意見が多かった。途中で出てきてもっと掘り下げたかったのは、バレなければいいんじゃない?という話。デザイナーベイビーって後ろめたいんだな、なんでだろうな。整形も同じかな。

 

もう一つのクラスも同じような意見も出ていたけど、別にそもそも意図的な遺伝子操作によるデザインじゃなくても、教育にせよ遺伝にせよ、私たちは親の影響を受けている(足の速い人の子どもが足が速くなりやすい)のだから、そんなに変わらないのでは?という人と、いやいやそれと、わざと特定の遺伝子をもらってきて子どもに引き継ごうとする(足の速い人の遺伝子をもつ精子との体外受精をする)のははっきり異なるよねという対比が興味深かった。

 

私の感想。

・対話をしながら、結構な人が、ある人が幸せであるためには、(生まれる前にせよ、生まれたあとにせよ、)強制下に置かれていてはだめで、その人が自由な状況にあることが必要なんだ、という感じをもってそう、ということがわかってきたのがおもしろかった。

バレなきゃいいんじゃない?という感覚も二つのクラス、どちらにもあるようだった。でもなぜデザインすることは後ろめたいんだろう?

・授業では優生思想という言葉を説明し、デザイナーベイビーや出生前診断は優生思想につながるかもしれない考えだ、とあらかじめ話したうえでの対話だけれど、話しているうちにやっぱり病気や障害であれば積極的に取り除いたうえで生まれてくればいい、そのほうが幸せだろうという意見も出てくる。そしてその発想を拒否する反応もまた出てくる。

 

90分一回だとキツイ。もう一回やりたい。(やれない)

 

哲学対話愛好会で「旅行にお金を費やすことは無駄なことだと思うか?」 を考えた

月に二回くらいでコツコツ続いています。

あまり適当な場所がないので、私の部屋でやってもらっているけど、開始~問い立て~問い決め~話し始め、くらいまでは学生さんたちにお任せする。

 

8名参加の今回の問いは「旅行にお金を費やすことは無駄なことだと思うか?」 

 

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問いの変遷

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最後の問い「人に会いたいと思うのは何故か?」についてのみんなの考え

 

1年生~3年生まで男女も学科も混合で集まれるのがおもしろいし、うれしい。

こういう場を求めている学内の人はまだ潜在的にはいるように思うので、もう少しお知らせしていきたい気持ちと、今いるメンバーの関係性をじっくり良いものにしていってほしい気持ちと、両方がある。コミュニティの内外問題。まあ、学生さんたちが思う方向に進んでいってもらえばよいか。

 

読み始めた

 2019年話題の本をいまさら。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 

とてもよい。自分が知らない世界のように思ってしまうけど、本当は自分の生活している圏内にもあるかもしれない、そんな話。宿直をして眠りにつく前にまた読み進めたのでした。

 

 

私に支払われているお金の話

仕事をしながら、むしゃくしゃ(?)することがあって、ふと、

自分に支払われている給料とそれによって期待されている仕事内容と、自分が今時間を割いて力を入れていることには、ズレがあるのかもなあ、と思う。(もちろん、いろんな方がそこにズレは感じるんだろうけども)

給与は要するに教育と研究(!)に支払われているのだけれど、今は研究はあまりできていないし、教育は多くの先生がすでに精力的になさっている。私がやるのはどちらかというと普及や支援の類のことだし、目に見えるかたちで成果や内容が現れずらいものだ。(そう、まさに哲学対話のように)

放課後や空き時間に学生さんが部屋に来て、しゃべって帰っていくことはとても大事なことだし、哲学対話愛好会も当該学生たちだけでなく、学校全体に良い影響が及ぶんじゃないかと期待している。でもそのあたりって見えづらいし、よくわからない人にはよくわからない。(あいつは学生と遊んでるだけ、に見えるのかもしれない。)

 

でも、このちょっとズレたポジション自体を最初から狙っていた(というか高専で哲学の先生をやろうと思うと、多かれ少なかれズレるのだけど)といえば、そうなのだ。

ズレてる感じが不安に思う日もあるけれど、ズレて、はみ出してみせることが自分のここにいる意義な気もする、そんな金曜日なのです。

 

こども哲学ハンドブック 自由に考え、自由に話す場のつくり方

こども哲学ハンドブック 自由に考え、自由に話す場のつくり方

 

 おかげさまで本も二刷である。

先日初めてお会いした方も、付箋を貼った現物を手に、読んだよ、と声をかけてくださった。ありがとうございます。ありがとうございます。

 

今頃、みなさまがキラキラとイベントをしているころだ。

我が家は近所の雰囲気のよい焼肉屋さんに行きます。

 

 

 

 

 

 

*1:浅野いにお/TEMPEST | 弁護士宇都宮隆展の徒然日記

*2:いずれどこかで論文として読めるようになるはず

高校での哲学対話実践に伴走する、ほか

 

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

こちらのつづきの1週間*1

 

世間の週末はセンター試験でしたが、高専はそんなことは無関係なのです。

高校の教科書を使って現社や倫理を教えているので、もっと関心をもつべきなのだろうけど、今年はまだ問題も全然見ていない。

 

www.yacchaesensei.com

こちらの記事を見て勉強をさせていただいています。 

 

 

高校での哲学対話のお手伝い

去年から月イチペースで伺っているとある県立高校での哲学対話実施のお手伝いへ。5時間目は2年生の「総合」、6時間目は1年生の「探究」、それぞれ4クラスで同時実施なので、私が個別のクラスに入って授業をするわけではない。進行は担任、副担任の先生方。

なので私の主な仕事は事前の担当の先生との打ち合わせと各クラスの担任、副担任が見るための資料作りのほうにある。そして当日教室を回って困っているクラスがあればちょっと間に入ってお手伝いをしたり、終わったあと簡単にコメントをしてみたりする。まだまだ全然力不足ではあるけれど、気持ちとしては先生たちに「伴走」*2させてもらうつもりでやっている。

 

今回は今年度のまとめということで、こちらから進め方の提案はせずに、各クラスの生徒さんたちの様子に合わせて担任、副担任の先生で考えてもらうようお願いしていた。

 

印象深かったこと。

いくつかのクラスは事前に問いを集めたりする時間がなかったので、最初の頃の授業で使ったことのある「てつがくおしゃべりカード」を使って、そこから問いを選ぶ方法でやってくださったのだけど、これが結構難しいようだった。

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

てつがくおしゃべりカード (哲学カード)

 

このカード、私も好きで授業で使うこともあるんだけど、結構トリッキーな問いもあって、問いにダイレクトに答えるというよりも、問いの意味やその比喩で言いたいことを思い浮かべつつ考えないとあんまり楽しくない問いもある。そして多数決をすると、意外にもそういう厄介な問いになってしまったりする。

たとえば、

なめくじを全部やっつけられる?

とか

ある日一日だけお日様が登らなかったらなにが変わる?

とか。

 

他方で、生徒さんたちの問いを事前に集めてそこから考えていたクラスは、程度の差はあれ、なんとなく良さそうな感じで、対話への集中も続いているようだったた*3

 

要因はいろいろあるのだろうけど、やっぱり問いを出した人がそこにいるというのは少なからず大きいんだろうなあと思う。既成の与えられた問いじゃなくて、その問いが気になっている人、それを思いついた人、考えたい人が、そこにいて、それを一緒に考える、そのことには意味があると思うのです。

 

担当の先生には終了後こんな文面のメールを送った。

毎回様々な課題が見えてきますが、学校に、生徒さんたちに、先生方に、対話や探究の風土ができてくるまでには時間がかかるものだ、という風に思います。少しずつ少しずつですが、引き続きよろしくお願いいたします。

 

本音である。

 

 

今日の話を受けて再来週は全体のまとめとして、体育館で160人に集まってもらって、私がメインでやる予定。さてどうしよう。 

 

読んだ本とか

 

今週に限らないのだけど、年末年始から続けて、いわゆる「発達障害」まわりのこと、知りたくなっている。

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

 
発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち (SB新書)

発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち (SB新書)

 
ぼくらの中の発達障害 (ちくまプリマー新書)

ぼくらの中の発達障害 (ちくまプリマー新書)

 

 学校にいると、どうしても学生に勉強を教える、ってだけではなくていかに個別の支援につなげていくか、という問題にも関心が出てくるもので。。

 

 

 

 

paravi楽しい

年末に「グランメゾン東京」に途中からハマって、ちゃんと見たくなって1ヶ月の無料体験で入会していた。「逃げ恥」見たり、大食い番組見たり、孤独のグルメ見たり、きのう何食べた?見たり楽しんでいたんだけど、なんと、解約しそびれてもう1ヶ月見られることになっ(てしまっ)た。

Amazonプライムで普段から映画を見ているけど、paraviはテレビドラマが見れるので違った楽しみがあって、週末はかなり時間をとられていたり。。

きっとNetflixに手を出したら終わるんだろな。。

 

 

妻の運転で...

週末は近くの小さめのモール(?)に行く。 

私の家のそばには家系ラーメンがないので、 そのモールの近くの家系ラーメン屋さんに行くのが目的の一つ。美味しかったけど、やっぱり関東のお店のほうが美味しいような気がした。

モール到着後はゲーセンに吸い込まれていき、(私が)、メダルゲームを一瞬で終える。(お金が吸い込まれた)

 

続・記事が公開された。

でもやはり会員ではないので読めない。。

私の担当分はこれで終わりだけど、あと7回続くはず。お楽しみに。 

 

*1:One noteに毎日数行で日記を書くのは続いている。(気付いた時に何日分か書くわけだけど)楽しい。

*2:伴走といえば、

 

学校とゆるやかに伴走するということ

学校とゆるやかに伴走するということ

  • 作者:石川 晋
  • 出版社/メーカー: 有限会社フェミックス
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 単行本
 

 

*3:いろんなクラスを出入りしながら見て回っているので本当のところはわからない