窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

哲学対話の会に行ってきた話

昨日で年度内の授業が終わりました。おつかれさまでした。

またそのことはブログに書きます。

 

妻を誘って哲学対話へ

山口県にはあまり哲学対話の場はない*1のもあり、日曜日、はるばる二時間、福岡まで。

地方格差。

某法人のファシリテーター講座を受けていただいたときにお会いした方が、街場で哲学対話の場を継続的に開かれていることを知り、一月にも参加したかったのだけれど、直前にインフルになってしまい断念したので、リベンジマッチでした。

ありがたいことではあるけれど、最近は、哲学対話というと、授業内外かかわらず、自分がメインの進行役をする機会がほとんどになってしまっていて、他の人の実践を見る機会がない。

でも、他の方の実践参加して自分の実践をふりかえりたいし、そもそも気楽に一参加者として哲学したい。

ありがたい機会でした。

 

tetsugakutaiwafukuoka.jimdofree.com

 

問いを決める

参加前から印象深かったのは、一般に哲学カフェって事前に問い(や少なくともテーマ)が決まっていることが多いのだけど、その会では参加者が一から問いを出して、そこから一つに問いを決める、という”プレーンバニラ”スタイルをとっていたこと。

実際にその日も全体の半分の一時間を使って問いを決めていた。

わたしはそれくらいの時間の使い方、好きです。

 

あんまり人の話を聞けていない自分

特に問いを出す時間のとき、人の話、聞けてないなあと思ったのでした。

というのも、問いを出す時間には、同時にその問いを出した人に対して確認的な質問をしたり、簡単なコメントをすることがその会では認められていて、みなさんゆるやかに対話を始めている。

でも、私は自分の最近気になっていることを思い出し、それをどういう問いにしたらうまく伝わるかを必死に考えている。

そこで話されていることも気になるんだけど、よい問いを出したい気持ちのほうが強くて、だめでした。

当然、自分の対話の場でも、そうやって、自分の気になるところや引っ掛かりについて考えているうちに、目の前の対話からは離れていってしまっている人がいるのだろうと、思いました。

 

イライラする自分

対話の場、特に進行役を含めてほとんどの人どうしが初対面の場では、それはそれはいろんな人がいて、いろんな気分で参加しているので、そんなにすんなり対話が進むわけではない。

もし自分が進行役だったらこうするだろうな、と思ったりしながらそこにいることもよくある。別にそれはある特定の進行役や場がうまくない、ということを言いたいわけではなくて、

むしろ、ふだん、いかに自分が自分の考えやすいペースや対話の内容でやらせてもらっているか、を思い知るという感のほうが強い。参加者にはそれに付き合ってもらっている、という面も否めないのかもしれない。

だから、自分が考えたいなと思う通りにはいかないなんて当たり前なのに、そのことへの態勢がなくなっているようで、イライラもする。

 

今回も途中から、進行役っぽい発言もしながら自分の考えやすいペース・話題にもっていこうとするのでした。(よくない)

 

高専生、えらい

今回の参加者はみなさん、年齢的には「大人」だったけれど、だからといって超レベルの高い対話*2が展開されるわけではない(素朴で楽しい時間だった)。高専生と変わらない。

 

ふだん、高専生と授業でだけ哲学対話をしていると、うれしいことも落ち込むことも、もうそれが当たり前になっているのだけれど、実は高専生、えらいのだ。

 

対話の態度とかスキルとか、「大人」とそん色がないし、むしろ少人数で集まった会の対話的な姿勢や内容の楽しさはかなりレベルが高くなっている。*3

 

そんな話をしていたら、妻が、

高専生は、ふだん授業で哲学対話をしていて、スキルや態度を身に付けているからだよ

と言ってくれる。

もし私の授業を経て、そういうスキルや態度を身に付けてくれた人がいるのだとしたら、年度終わりにとてもうれしい発見をさせてもらったなあと、思うのでした。

 

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会場の施設にあった昭和のテレビ

 

前回出かけた哲学対話の場はこちら。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 

*1:”哲学者の小川さん”は精力的に活動をなさっている

*2:「超レベルの高い対話」ってなんだ 

*3:次のブログで書く