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教えることはもう古いのかービースタを読んだ話

 インフルエンザで自宅待機中のせめてもの進捗として読書をしました。

教えることの再発見:

教えることの再発見:

 

 知人の先生たちとやっている勉強会では昨年末に読書会をしたそうだけど、私は遠方で行けず。個人的にも読んでおきたいと思いつつ、ここまで先延ばしにしてしまっていたのでした。

目次はこんな感じ。

日本語版への序文
謝辞
プロローグ 教えることの再発見の必要性
1章 教育の課題とは何か
2章 教えることを学習から自由にする
3章 教えることの再発見
4章 無知な教師に惑わされないで
5章 不可能なことを求める――不和としての教授
エピローグ 教育に教えることを取り戻す
訳者解説(上野正道)

 

すごく長い本ではないし、プロローグなどでの問題提起は大変シンプルで力強いんだけど、中心の議論自体は結構難解で、十分に理解できたとは言い難いところ。特にレヴィナスが出てくるあたりとか。

本全体の批評や検討をする力も時間もないのだけれど、ビースタがこの本でせんとした問題提起だけは確認しておきたい。

  

ビースタの問題提起

この本の主題は、「教えるteaching」ということ。

そんなの、教育なんだからずっと昔から今まで論じられ続けてきたテーマじゃないか、という感じもするけれど、実は違う。

というのも、昨今は、教育といえば、教員が教えること、よりも学習者自身が「学習」すること=学ぶことlearningが重視されているからだ。

学習に関わる言語と論理の興隆は、教師の役割を「壇上にいる賢人」から,「〔学習者の〕傍らにいる支援者」へと変えた。[...]ある人によれば, 教師を「〔学習者〕の後ろにいる仲間」にさえ変えたのである。*1

日本でも「アクティブ・ラーニング」や「主体的・対話的で深い学び」が重視されるなかで、教師にも「ファシリテーター」としての役割が期待されている感がある。この意義はもはや自明であるし、ビースタの言葉を借りれば「学習者の共同体としての教室という考え方が魅力的で進歩主義的に聞こえる」というのはその通りに思えてしまう。

 

だけれど。

 

むしろ現在の教育の「学習化」の動向は、「教えること」や教師の仕事についての誤った理解を促進してもいる。だからこそ、立ち止まり、「学習の時代における教えることの回復recovery」そして「教えることと教師の意義と重要性を再発見するrediscovery」こそがビースタの本書での試みだ。

 

教えることと学ぶことを対比して考えると、確かに学ぶことこそ進歩主義的な新しい教育であって、教師が教えることは旧態依然とした保守主義の象徴のように思えるかもしれない。けれど、このような二項対立は間違っている。そうではなくて、ビースタが拓こうとするのは、教えることについての進歩主義的な議論、という第三の道だ。

 

こういった問題提起は、これくらいざあっとさらった感じでもやっぱり示唆に富んでいる、と思う。いろいろなところで聞くけれど、アクティブ・ラーニングか教員による一斉教授か、みたいな二項対立の問いは、まやかしなのだと思う。

 

学習を重視しないならなんのために教育するのか

教えることについて考えるビースタさんは、教えることの先に学習者による学習をみる、というすごく当たり前の感じ、にも疑問を呈している。

教えると学ぶは「教え学びteachingandlerning」と一語であるように感じられるほど必然的な結びつきに思えるけれど、それは本当なのだろうか。

じゃあ学習を目指さないとすれば、なんのために教育をするんだろうか。

ビースタは、難しい言い方だけどこう言っている。

教育の課題は, 他の人間に, 世界の中に, 世界とともに成長した仕方で存在すること, すなわち主体として存在することの欲望を引き起こすことである。*2

世界内における成長と主体化。本当はここから、この言葉の意味をビースタがどう考えているかを見なくちゃいけないのだけど、ごめんなさい、力不足。

いろいろすっ飛ばしてしまえば、この教育の課題を通して、ビースタが目指していくのは、教えることを取り戻すことによって、「生徒が自由となることができる場」を、そして「生徒が自らの自由と出会う場」を創造することだ、とは言える。

巻末の役者解説などを踏まえて、もう一つ言葉を足すならな、こういったビースタの教えることに込めた思いは、フレイレランシエールを経由して、「解放としての教育」へと向かっていく。

 

被抑圧者の教育学――50周年記念版
 

 

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

確認しておくべきは、教育される人の、主体化や自由や解放を語るときに、ビースタが重視するのは、教育される人たちのアクティブなラーニングではなくて、あくまで教師による教授だ、ということ。

教えることは、必ずしも権威者による「統制」を意味しない。

 
概念と一緒に生活したい

 じゃあ、「統制」せずに、どうやって教えるのか。

学習させることなく、教えるのか。

本書を読んでいて一番ワクワクしたのは、ビースタが、教えることから学習を取り除くために試みた実践として、自身が大学院生のために行ったセミナーでの授業を紹介しているところだったりする。

 

ここで、私が学生に思い出してもらったのは, 教育というものが, おそらくすでにそこにあるものーたとえば, 現れつつある理解ーを伸ばし深めることだけではなく, まったく新しい何か, すなわち学生がそれまでまったく経験したことのない何かとの出会いとして理解することもできるという点である。*3

 

なんかしゃれた言い方だ。教育とは、学習を通して対象について理解したり、把握したり、了解したりするような、そういうものではなくて、全く新しいなにか、未経験のなにかとの「出会い」でもあるのだ。

そのために、とにかく、学生を了解から遠ざけて、学習しないように、解釈しないように、意味を形成しないように求める必要がある。そういう了解しようとする傾向を「中断する」ための、ビースタの授業はこんな感じ。

 

学生には自分が選んだ概念を自分たちの生活の中へ取り込み, 2週間, その概念とともに生活するように求め, 2週間の最後の日に学生にその取り込みの経験について参加者の前で報告するように依頼したのである。*4

 

 

 

対象となった概念は、授業のテーマにあわせた、創造性、コミュニケーション、教えること、学習、民主主義、解放、妙技。どの概念と生活するかも、突然の出会いのほうがよいので、偶然性に任せて選んだそう。

 

全然よくわかんないけど、ものすごくやってみたい。概念と一緒に生活したい。

 

「解放」と二週間一緒に生活したら、どうなるんだろう。しかも、それを理解したり、了解しようとはしないで、って言われたら、どうなるんだろう。

概念は自分に対してなにを「呼びかけて」くれるだろうか。

 

ということで、まとめとしましては、

 

ぼくも概念と生活したい、です。

 

終わり。

 

*1:上掲書, pp. 1-2

*2:p. 12

*3:p. 55

*4:p. 56