窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

対話か講義か

対話か講義か

第三学期を終えて第四学期に入りました。25日に授業をして、年内は終わりです。

様々な反省などはこちらから。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

対話よりも講義をもっと増やして~という声について、ずっと考えてしまっていて、精神衛生がよくない。こちらしては、高専社会科の授業で、哲学対話をやることについて、個人的な嗜好ではなく、もっと広く意味があると信じている。そのことを伝えながら、愚直に対話をやっていくこともできるのだけど、実際は対話をやってみても学生さんもあまり乗り気ではなく、全体としての満足度が上がってこない、という感じもある。

で、4学期最初の授業も、哲学対話しよー、と思って前日までは、対話をどうやったら楽しくできそうかな?なにか組み合わせられる教材はないかな?と考えるもなんともしっくりこなくて、授業のアイデアがまとまらない。そして研究室を出る直前に、ふと、もう講義してまえ!と思い至る。もともとシラバスに組み込んでいたけど、計画上後ろに来ていた授業を、前倒しでやってみることに。

基本的に講義形式で。でも映像を見せたり、スマホを使ってもらって、アンケートをとったり、クイズっぽいことをしてみたり、学生の発言を受けて少し遊びをもたせたやりとりをしてみたり、する。そして最後に大福帳に、授業内容を受けて指示したことを書いてもらう。そんなふつうの授業をする。

講義は楽?

哲学対話だときっとうまく盛り上がらないよなあと心配していたクラスも、そうやって講義をしてみると、少なくともなんとな授業の体裁を保てるし、こちらが教壇の側から語り掛けてゆるやかに反応をもらうことで、若干のウケを取りつつ、授業を進めていける。大福帳を見ても、一応話を聞いてくれていることもわかる。

でも毎回の講義がこうなる、というわけじゃなくて、今念頭に置いていた授業は、講義のなかに学生が調べたりする時間を入れたりもできて、比較的うまく組めたもの。だからそういう講義形式の授業をいくつもストックしていくのは大変だし、日々改良が必要なんだろう。それでも、講義型の授業を楽かも、と思ってしまうのは、やっぱりなにかが起きても教員の側にコントロールする余地が多く残されているからかなと思っている。

対話とかグループワークとかを私のような人がやってしまうと、どんどん学生に投げてしまうし、楽しくない人たちが増えるとその雰囲気が全体に伝播する。ふざけようと思えばどんどんふざけられる。もちろん、対話でもグループワークでもこっちがきっちりコントロールしてしまえばいいのかもしれないけれど、そういう「権威の発動」を拒否するがゆえに対話型授業をやりたいと思っている。

でも講義だと、そもそも学生のみなさまには教員が話しているときは、前を向いて、一応静かにする*1という動きが身体化されているので、多少道からずれても成立はする*2。一生懸命話せば、聞いている人もいる。そういう意味で講義は教員にとっても楽だし、授業を受ける側にとっても、きっとつまらないだろうけど、それでも気楽なんだと思う。

しかしそれでいいのか

とも思いつつ。。。

今書いたことと関係するかもしれない記事*3

nlab.itmedia.co.jp

 

週末は出張

週末は東京に出張で、高専の哲学対話の授業を見せていただき、自分もつたないながら高専社会科とモデルコアカリキュラム*4

について発表をさせてもらっていた。具体的な授業の気づきやいただいた助言ももちろん、有益なのだけれど、まずは人が授業している教室にいることができるだけでとても楽しい。そして、自分が大事たと思っている哲学対話を中心とした授業づくりに取り組んでいる方たち*5と久しぶりに顔を合わせ、あーでもないこーでもないといい、遅くまでお酒を飲める、そういうことが楽しい。

高専で文系科目をもつことがマイノリティだし、哲学対話(とかアクティブラーニングっぽい授業づくり)とかについてのお悩みとかを話せるような同僚がまだいない、ということもあって、そういう意味では基本的に孤独なので*6

 

しかし東京は...

人も物も多い。一年前はそこに住んでいたのに、もうずいぶん遠くへ来たような気もする。電車を乗らなくなって、ちょっとした移動でも車に乗るようになる、いわゆる地方での生活スタイルをこんなにも自分のものとするなんて、ほんとに思わなかった。

でも、帰りに羽田に向かっているときに、人身事故で乗っていた電車が止まったのだけど、そこですっと降りて地下鉄に乗り換える決断をできたあたり、まだ都会人っぽさを自分がもっているなとも思って、うれしかったり。

移動中に読んだ本

 半分くらいまで読み終わった。アクティブラーニングとか対話的・主体的で深い学びとか、そういう今の活動的な学びブームへの危機感を、日本の近代教育史を通してみていく本。なんとなく聞いたことのあった戦前戦後の教育の話は勉強になる。おそらく最後に現代の教育政策の方向性への危機感が示されると思うので、そこにどれくらい説得されるだろうか。

 

僕らの哲学的対話 棋士と哲学者

僕らの哲学的対話 棋士と哲学者

 

 楽しいし、読みやすいのですぐに読み切る。

なんというか、糸谷八段が戸谷さんの話を受けて「哲学カフェが~」とか言っている時点で、チョー興奮する。あと、結構政治的な話題(ネトウヨとかリベラルとか、「生産性」とか)にまで二人が踏み込んで自分の立場を話しているのもよい。

 

*1:たとえ隠れてこそこそゲームをしたとしても

*2:スマホをいじっていても静かにしてくれていればいちいち目くじらをたてなくても授業は多数の聞いてくれる学生によって成立する。でもグループワークとかだとそうはいかない

*3:筆者は某妻。

*4:高専全体の教育の到達目標などを示す指針のこと。高専には学習指導要領が直接影響しないので独自に作っている。

国立高専機構 >> 新しい高専教育

*5:「仲間」と呼びたいな

*6:いや、でも自分の授業を良いと思ってくれている学生がいるらしいことにはとても励まされている。とても。そして妻も話を聞いてくれる。