窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

後期の授業とかクラスという単位のこととか

ブログの更新をしばらくサボっているあいでに、いつのまにかブログのアクセス数が10000を超えていた。

多分ツイッターのフォロワーがちょこちょこ増えている影響で見ていただいているのだと思うけれど、どうもありがとうございます。ブログの反響というのはなかなかないので、みなさんがこれを見てどう思っているのか、わからなくて不安もありつつ、どうもありがとうございます。

これからも細々とやっていきますので、よろしくお願いします。

 

後期が始まりました

本校は4学期制を採用しているので、第三クオーターの中盤です。一つの授業(90分)を週二回やり、8週で試験までやって単位、というスケジュール。なかなかあわただしいなかでやっています。

前期にはお会いしていなかったクラスとのはじめましてから始まり、少しずつ慣れてきたところ。クラスごとにカラーがある*1のに合わせつつ、なんとか対応する。

 

でも、「あのクラスはやりやすい(やりづらい)」みたいな感覚って、どう考えても存在するけど、でも学生と個で向き合うことを阻害してしまう見方な気がして、よくないよなあああ。

 

で、だらだらと授業準備と称してパソコンに向かうのだけれどなにも決まらずだらだらとツイッターを眺めるような生活をしています。

 

 
今学期試していること

「哲学対話」を含むワークの時間をやはり多めにとっています。

そこで、これまでと変えてみているのは、対話の終わりに大福帳でコメントを書いてもらうことに加えて、スマホを使ってoffice365の"Form"にアクセスしてもらい、対話のふりかえりアンケートをとること。

 

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

 

 

本当はこの本を読んで、そもそもスパイダー討論にチャレンジしようと思ったのだけれど、 グループ(本には16,7人が適正人数とあるので)を3つくらいに分けるとこちらが見切れないこと=多分なにも話さないか、ふざけちゃうことを理由にやっていない。

その代わりに*2、本で示される「ルーブリックづくり」からアイデアをもらって取り組んでみています。

 

具体的にやっているのは以下のようなアンケートページを作り対話のあとにスマホでアクセスしてもらって回答してもらう。

 

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結果の一例はこちら。

 

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特にだれが回答したか、していないか、ということはチェックしていないし、対話のあと、休み時間の前に大福帳も書き、スマホでふりかえりに答える、というバタバタとしたなかで9割は答えてくれているので悪くない。

 

匿名ということもあり、評価は雑な面もあって、全部5、とか全部1、とかつけている学生もいて、評価の平均値は高めに出るけれど、それでも全体の印象は私の印象とも重なる感じ。(「おとなしい人、声の小さな人も安心して発言しやすい雰囲気ができた。」は毎回低く出る。)

 
どう活用していこうか

↑と同じクラスの今日の回は、自由について考える哲学対話を90分やろう、という回だったんだけど、明確な問いを決めずに、こちらがゆるゆると入ってしまったのが大きく、最後までぐだぐだっとしてしまった。そうすると点数は低い。

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こんな感じ。

 

 

こんな感じでやってみていて、後期全体(第四クオーター)も通すと8回分くらいのふりかえりができる(今は3回)ことになるのだけど、これをどう活用していくのがよいか、考え中。

 

たとえば↑の回では自由記述欄にも「今日の対話に意味を感じられなかった」というコメントもあったりして、「モウシワケナイモウシワケナイ」と平謝りの気持ちがある一方で、「対話をするのは私だけじゃなくてみんななのだからみんなで意味あるものにしていこうよ!」という気持ちがある。

 そもそもルーブリックを示し、学生たち自身に評価をしてもらおう、それによって自分たちで対話をよいものとしていこう、という発想のもとにそもそものスパイダー討論の魅力があると感じたはず。

それなら、もっと対話の前に毎回この観点を示して、哲学対話でこれをやるんだよ、ということをメッセージとして打ち出したほうがいいんだろうと思っている。

 

クラスという単位で考えること

上記のルーブリックの話のなかで私自身が錯綜しているかもと思うのが、クラスという単位のこと。教員として「あのクラスはやりやすい(やりにくい)」はあまり持ちたくない(学生と個として接することを妨げる気がするから)ことは先に書いたけれど、一方でルーブリックによるふりかえりを通して目指したいのはクラスという単位での成長だったりする。

クラスぶっ壊したいと思いつつ、クラスでの成長を望むのはどういうことだろうか。

「子どもの哲学」でリップマンは「探究の共同体」ということを言っていて、共同体としての探究と成長というのは重要だというのはおそらく間違いがないのだけれど、それを今の教室でやろうとするのは、どういうことになるんだっけ。

高専はそのあたりでいうとクラスという単位で授業外の活動をすることが(普通高校と比べて)少ない。でも授業はほぼすべてクラス単位で受けるという微妙な構造になっている。たとえば1年生はおそらく自分のクラスメイトの顔と名前をすべて一致させていない人ばかりだし、クラス持ちあがりのまま2年生になってもそういう人もいるくらい。それくらい結びつきが薄いなかで、それでもクラスという形は維持しつつ、ときどきやってくる哲学の教員はクラス単位での対話を求める、というのはどういう感じなんだろう。

 

 

おまけ:今日思ったこと。

青年期について勉強するときに浅野いにお作品を紹介すればよかった。

 

過激だけど↑のなかの「TEMPEST」は高齢化社会をわかりやすく風刺したディストピアになっていて授業でも使えそう。

あと、短編集のなかでは特に「都会と田舎」ということについて思いをはせることが多かった。

よきよき。  

勇者たち (裏少年サンデーコミックス)

勇者たち (裏少年サンデーコミックス)

 

こっちはこっちでなんというかすごい。 

 

*1:やめようやめようと思ってもクラス単位で「あのクラスは~」という見方を離れられない。約40人の一人一人いろんなこと考えて授業受けてくれているはずなのに、一部の学生の反応に引っ張られて雰囲気を判断してしまう。よくない。

*2:某ブログで、様々な教育実践の”つまみ食い”を批判されていたように思っている。つまり優れた実践のパッケージはまずはそのまま最初から最後まで計画されたものとして採用すべき、と。自分自身もその通りだと思っているのだけれど、スパイダー討論も質問づくりも、本で示されていることやポイントから自分でアレンジしてしまっている。よくない。